雨の日の来客と、赤い傘の記憶
雨の日だった。
事務所の窓を、細い雨が静かに叩いている。
「今日はもう依頼、来ないかもねえ」
ゆいはデスクに頬杖をつき、窓の外をぼんやり眺めていた。
壁の時計は、すでに営業時間を過ぎている。
「むしろ、静かに終わってくれ」
ソファの上で丸くなっていたキジトラ猫――クロが、目も開けずに言った。
「お前の淹れた不味い茶を飲む以外の仕事なら、大歓迎だがな」
「ひどい。今日はちゃんと美味しく淹れたよ」
「昨日よりはな」
「褒めてる?」
「寝言だ」
「もう……」
ゆいが口を尖らせた、そのときだった。
からん。
間の抜けたドアベルの音が響いた。
二人が同時に入口を見る。
入ってきたのは、ベージュのコートを着た女性だった。
全身が濡れている。
肩から滴る雨水が、床に落ちる。
その手には――
鮮やかな赤い傘が握られていた。
「あの……すみません」
女性の声は、ひどく掠れていた。
どこか遠くから響いてくるような、不思議な声だった。
「気づいたら、ここに入っていて……」
ゆいはぱっと顔を上げた。
「いらっしゃいませ!」
そして、女性の持っている赤い傘を見る。
「えっと……もしかして、その傘が壊れてるんですか?」
「ばかめ」
クロが飛び起きた。
「痛っ!」
容赦のない猫パンチが、ゆいの足に飛んでくる。
「なにすんの、クロ!」
「お前はまず、相手の話を聞け」
「だって、こんなに濡れてるし……」
女性は二人のやり取りを見ても、笑わなかった。
ただ、手元の赤い傘を見つめている。
「……傘が、戻ってくるんです」
ゆいの表情が変わった。
「戻ってくる?」
「何度、手放しても……」
女性は傘の柄を、ぎゅっと握りしめた。
「雨の日になると、気づけばまた私の手元にあるの」
「どこに置いてきたんですか?」
クロが尋ねる。
女性は首を横に振った。
「それが……思い出せないんです」
「傘を置いた場所が?」
「……この傘を、どこで手に入れたのかも」
ゆいは黙った。
女性の顔は青ざめていた。
「ただ、この傘を持っていると……胸が苦しくなるんです」
少し震える声。
「誰かに、ずっと呼ばれているような気がして……」
クロの耳がぴくりと動いた。
「客人」
低い声で尋ねる。
「その傘を、誰かに返そうと思ったことはあるか?」
女性は目を伏せた。
「……返したいです」
「誰に?」
「それが……分からないんです」
女性は深く頭を下げた。
「変な話をしてしまって、すみません」
「待って!」
ゆいが呼び止める。
けれど女性は、逃げるように外へ出ていった。
「お姉さん!」
ゆいも慌てて追いかける。
そのとき。
クロが、入口の床を見ていた。
「……待て」
「どうしたの?」
「足元を見ろ」
ゆいが視線を落とす。
女性は、激しい雨の中を歩いてきたはずだった。
なのに。
床には、足跡がなかった。
水滴ひとつ、落ちていない。
「……え?」
クロが目を細める。
「化かされたか」
「でも、傘はあるよ?」
「だから厄介なんだ」
クロは外へ飛び出した。
「追うぞ」
「えっ、雨だよ?」
「知るか」
雨足は、さっきより強くなっていた。
二人は女性の気配を追って、細い路地を抜ける。
やがて、見慣れた明かりが見えてきた。
駅から少し離れた場所にある、古い喫茶店。
ゆいとクロが、時々ランチやお茶をしに来る店だった。
「ここって……」
ゆいが目を細める。
「相馬さんのお店…」
赤い傘の女性は、まるで何かに導かれるように、その扉を開けて中へ入っていった。
カラン。
ベルが鳴る。
ゆいが続いて扉を開ける。
「こんにちは――」
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、穏やかな声が返ってきた。
店主の相馬涼介だった。
いつもの落ち着いた笑みを浮かべている。
「ひどい雨ですね」
「相馬さん、さっき女の人が――」
ゆいが店内を見回す。
けれど。
女性の姿はどこにもなかった。
「……いない」
クロは迷わずカウンターへ飛び乗った。
「とぼけるなよ、相馬」
相馬は少しだけ目を細めた。
「何のことでしょう」
「あの赤い傘だ」
クロが睨む。
「あれは、お前の店に用がある」
相馬は何も言わなかった。
代わりに、ゆいの前にクリームソーダを置く。
「どうぞ」
「わあ……!」
続いてクロの前には、ぬるめのミルク。
クロが一口飲む。
「……いつもより少しぬるい」
「今日は雨が冷たいですから」
「そうか」
「相変わらずですね」
相馬が微笑む。
ゆいは二人を見比べた。
「……二人とも、仲いいよね」
「よくない」
クロと相馬の声が重なった。
「息ぴったりじゃん」
ゆいが笑う。
相馬は苦笑すると、店の隅に目を向けた。
そこには古びた傘立てがあった。
その中に――
一本だけ、赤い傘が立っている。
少し色あせている。
けれど、どこか大切に扱われてきたことが分かる傘だった。
「……あれです」
相馬が静かに言った。
「あの傘は、三年ほど前からここにあります」
「三年前?」
「激しい雨の日でした」
相馬は赤い傘を見つめた。
「持ち主は、ご高齢のおばあさんでした」
「その人は……?」
ゆいが聞く。
相馬は、ほんの少しだけ間を置いた。
「もう、迎えには来ません」
ゆいは黙った。
「ここでお食事中に急に体調を崩されて、病院へ…」
相馬の声は静かだった。
「そのまま、お店に戻ってくることはありませんでした」
「……亡くなったの?」
「ええ」
ゆいが赤い傘を見る。
相馬は続けた。
「ただ、この子はそれを知らない」
「この子?」
「傘ですよ」
相馬は小さく笑った。
「雨の日になると、あの人を探すんです」
「……」
「店の前まで来て、誰かが迎えに来てくれるのを待っている」
ゆいは、赤い傘を見つめた。
「じゃあ、さっきの女の人は……」
「人ではありません」
相馬の声が、少しだけ低くなった。
「置き去りにされた傘の記憶が、人の形を借りて現れたんでしょう」
「傘の……記憶」
「ええ」
相馬は赤い傘を傘立てから抜き取った。
その手つきは、とても丁寧だった。
「長く待ちすぎたんですよ」
傘の先から、ぽたり、と雫が落ちた。
まるで涙のようだった。
ゆいは、そっと近づく。
「……かわいそう」
「ゆい」
クロが呼ぶ。
けれど、ゆいは赤い傘の柄に手を伸ばした。
そして、両手で優しく包み込む。
「もう、誰も探さなくていいんだよ」
クロと相馬が、同時にゆいを見る。
ゆいは赤い傘に話しかけるように続けた。
「待つのって、疲れるもんね」
雨音だけが、静かに響いている。
「だから……」
ゆいは少し笑った。
「これからは、雨が降ったら私があなたを差して散歩に連れていってあげる」
「……」
「私が新しい持ち主になってあげるから」
クロが呆れたように呟く。
「お前……」
「なに?」
「勝手に自分の物にしようとしてないだろうな」
「ち、違うよ!」
ゆいが真っ赤になる。
「本気だよ!」
その瞬間だった。
ふわり。
店の中を、暖かな風が通り抜けた。
赤い傘が、淡い光を帯びる。
そして――
すうっと。
何か重いものが抜け落ちたように、店の空気が軽くなった。
雨音まで、少し遠くなった気がする。
相馬は静かに目を細めた。
「……よかったですね」
「え?」
「新しい帰る場所が、見つかったようです」
ゆいは赤い傘を抱きしめる。
「じゃあ……」
「ええ」
相馬が微笑む。
「この傘は、あなたに」
「本当に?」
「傘も、あなたにもらわれたなら嬉しいでしょう」
ゆいは嬉しそうに笑った。
「ありがとう、相馬さん!」
クロが小さくため息をつく。
「また荷物が増えたな」
「いいじゃん」
「誰が持つと思ってる」
「私!」
「……ならいい」
相馬は二人を見送った。
ゆいが赤い傘を差して外へ出る。
クロがその横を歩いていく。
その背中を見つめながら、相馬はしばらく動かなかった。
赤い傘。
ゆい。
その組み合わせが、なぜか胸の奥に引っかかる。
――昔も、こんな光景を見た気がする。
「……なんでしょうね」
相馬は小さく呟いた。
帰り道。
雨はまだ、しとしとと降り続いていた。
ゆいは貰った赤い傘を嬉しそうに広げる。
「自分を置いていった人を責めるんじゃなくて……」
傘を見上げる。
「ただ、会いたかったんだね」
クロは水たまりを器用に避けながら歩いている。
「物にまで化けられたら、俺の探偵としての仕事が増えてかなわん」
「もう、素直じゃないんだから」
ゆいは笑った。
そして傘を少し傾ける。
クロの頭に雨がかからないように。
クロは一瞬だけ赤い傘を見上げた。
「……何だ」
「雨、嫌でしょ?」
「別に」
「じゃあ、もっとこっち来て」
「狭い」
「猫なんだから入るでしょ」
「猫を何だと思ってる」
二人の影が、赤い傘の下で並んで揺れる。
しばらく歩いてから、ゆいが言った。
「ねえ、クロ」
「何だ」
「この傘、ずっと大事にするね」
「……そうか」
「うん」
クロは前を向いたまま、小さく呟いた。
「それなら、少しは静かに寝られる夜が増えるかもな」
「ふふ。よかったね」
二人は、そのまま坂道を上っていった。
その頃。
誰もいなくなった喫茶店で、相馬は店じまいをしていた。
傘立てを見る。
赤い傘は、もうない。
相馬は少しだけ笑った。
「……よかったですね」
その声に、返事はない。
けれど。
店の奥から、聞き慣れた声がした。
「相馬さん」
「はい?」
「今の子……やっぱり――」
相馬は静かに遮った。
「言わないでください」
少しの沈黙。
それから、榊が笑った。
「はいはい」
相馬は窓の外を見る。
赤い傘が、雨の向こうに小さく見えた。
「……また会えたんですから」
榊の声が、少しだけ低くなる。
「今度は、ちゃんと見つけてもらえるといいですね」
相馬は答えなかった。
ただ、静かに笑っていた。
お読みいただきありがとうございました。
第二話でした。
クロは珍しく最初から警戒していました。
たぶん、見えてはいけないものほど、先に気づきます。
そして相馬初登場回でした。
クリームソーダはだいたい毎回飲みます。




