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顔のない来客

雨の日だった。


事務所の窓を、

細い雨が静かに叩いている。


「今日はもう依頼、

来ないかもねえ」


ゆいは机に突っ伏しながら言った。


時計の針は、

閉店時間を少し過ぎている。


「むしろ静かなまま終わってほしい」


クロがあくびをした。


そのときだった。


事務所のドアが、

ゆっくり開いた。


からん、と小さなベルが鳴る。


入ってきたのは、

若い女だった。


ベージュのコート。


白い指。


長い髪が、

顔を隠すように落ちている。


その手には、

赤い傘があった。


雨粒はついているのに、

不思議と床は濡れない。


――なのに。


変だ。


見えているはずなのに、

顔がうまく認識できない。


視線がそこだけ、

するりと滑る。


クロがぴたりと動きを止めた。


音もなく床へ降り、

ゆいの前へ出る。


低く身構える。


その背中には、

はっきりと警戒の色があった。


ゆいがそっと、

クロのしっぽに触れた。


「どうしたの」


「……いや」


クロは女を見たまま、

小さく目を細める。


「突然ごめんなさい。

気づいたら、ここへ来ていました」


女は静かに言った。


「傘が……

戻ってくるんです」


「もどってくる?」


ゆいとクロは顔を見合わせた。


「つまりこれは」


ゆいが真剣な顔になる。


「かなり事件です」


「言うと思った」


クロはため息をついた。


女は少しだけ下を向く。


「でも……

聞いてほしかっただけかもしれません」


静かな声だった。


「だから今日は帰ります」


赤い傘が、

ゆっくり揺れた。


ドアが閉まる。


クロはしばらく、

その扉を見ていた。


「……なあ、ゆい」


低い声だった。


「まず、

あの女を調べよう」


「え、なんで?」


「気になる」


珍しく、

迷いのない言い方だった。


ゆいは首をかしげる。


「香水?」


「違う」


クロは窓の外を見る。


「雨の日に来たのに、

あの女――足元すら濡れてなかった」


聞き込みで分かったことは、

多くはなかった。


赤い傘の女は、

雨の日の夜に現れる。


喫茶店の前を歩いている。


そして。


「顔を思い出せない」


誰も同じことを言った。


ゆいはスマホを持つ手を止める。


「……変だよね」


「ああ」


クロも足を止めた。


「見ているのに、

誰も顔を覚えていない」


雨が強くなる。


町の灯りが、

濡れた道路に滲んでいた。


女が現れるのは、

決まって夜だった。


薄い雲。


雨の匂い。


そして、

喫茶店の前。


「どうして、

あそこなんだろ」


ゆいがつぶやく。


そのときだった。


「……見てるな」


クロがひげを動かす。


視線の先。


喫茶店の奥で、

男がこちらを見ていた。


マスターの相馬だった。


穏やかな笑み。


けれど、

目だけが少し疲れている。


「いらっしゃいませ」


低く落ち着いた声だった。


「赤い傘の件で、少し」


ゆいが言いかける。


その前に、

クロが椅子へ飛び乗った。


「知ってるんだろ」


相馬は少し黙ってから、

小さく笑った。


「……コーヒーでも飲みませんか」


「私はクリームソーダで」


「お前はもっと緊張感を持て」


クロの前にはコーヒー。


ゆいの前には、

緑色のクリームソーダが置かれた。


窓の外で、

雨が街を滲ませている。


カラン、と氷が鳴った。


相馬は、

自分のコーヒーを一口飲む。


それから、

静かに言った。


「雨の日だけ、

戻ってくるんです」


ゆいはふと、

店の奥を見る。


傘立ての中。


一本だけ、

赤い傘が立っていた。


「あれ……?」


ゆいは小さくつぶやく。


「あの傘って――」


相馬は、

少しだけ困ったように笑った。


「忘れられなかったんでしょうね」


静かな声だった。


ぽたり。


小さな水音がした。


見ると、

赤い傘の先から雫が落ちている。


けれど。


傘立ての下だけ、

なぜか少しも濡れていなかった。

お読みいただきありがとうございました。

第二話でした。

クロは珍しく最初から警戒していました。

たぶん、見えてはいけないものほど、先に気づきます。


そして相馬初登場回でした。


クリームソーダはだいたい毎回飲みます。

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