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最初から無かったもの

この町には、小さな探偵事務所がある。


やる気のない探偵クロと、やるきのない助手の早瀬ゆい


扱うのは殺人事件でも誘拐事件でもない。


失くし物。

勘違い。

近所の噂。


そして時々、本当に説明のつかないこと。

早瀬ゆいは事務所の窓を開ける。


「クロ、いい天気だよ仕事しよ」


キジトラ猫のクロは丸くなったまま答える。


「している」


「寝てるじゃん」


「考えている」


ゆいはため息をついた。


事務所を始めて半年。


依頼は少ない。


そしてクロはまったく焦らない。


カラン。


入口のベルが鳴った。


ゆいはすぐに立ち上がる。


入ってきたのは三十代くらいの女性だった。


どこか落ち着かない様子で部屋を見回している。


「ここ、探偵事務所ですよね?」


「はい」


女性の視線が机の上のクロに止まる。


「猫がいますけど」


「いますね」


「看板猫ですか?」


「探偵です」


女性は少し困った顔をした。


ゆいもその気持ちは分かる。


女性は意を決したように口を開いた。


「昨日、会社の机に置いた書類が消えたんです」


「盗難ですか?」


「違います」


女性は首を振る。


そして言いにくそうに続けた。


「まるで最初から無かったみたいなんです」


その瞬間、クロが目を開いた。


その女性は近くの貸しオフィスで働いている会社員だった。


なくなったのは契約書。


昨日の夜までは机の上に置いてあったという。


しかし朝になると消えていた。


引き出しにもない。


棚にもない。


ゴミ箱にもない。


「コピーは?」


ゆいが聞く。


「ありません」


「写真とか、データは?」


「ありません」


ゆいは思わず顔をしかめた。


クロは机から降りた。


「場所は」


「会社の貸しオフィスです」


「行くぞ」



貸しオフィスは古い雑居ビルの三階にあった。


部屋の中には机が三つ。


コピー機が一台。


ごく普通の仕事場だった。


女性が机を指さす。


「契約書はここに置きました」


他の社員も同じことを言う。


「見ました」


「確かにありました」


「昨日の夜です」


クロは部屋の中をゆっくり見回した。


そして社員たちに聞く。


「最後に触った人は」


誰も手を挙げない。


「見ただけです」


一人が答える。


他の二人も頷いた。


クロは少しだけ目を細めた。


ゆいはその変化を見逃さない。


「何か分かった?」


「少しな」


クロは社員たちへ向き直る。


「契約書があった証拠は」


沈黙が落ちた。


「証拠……ですか?」


誰も答えられない。


ゆいも気づいた。


契約書の存在を示すものが一つもない。


あるのは全員の記憶だけだった。


クロは静かに言う。


「人間は見たものを、そのまま覚えない」


社員たちが顔を見合わせる。


「思い出すたびに作り直す」


「誰かが見たと言う」


「他の人間も見た気になる」


部屋が静まり返った。


確かに社員たちは似た話し方をしていた。


同じ言葉で。


同じ曖昧さで。


「じゃあ……」


ゆいが口を開く。


「最初から無かった可能性があるってこと?」


クロは頷いた。


「証拠だけ見ればな」


女性が困ったように俯く。


「そんなこと……」


「納得できなくても事実は変わらん」


クロは淡々としていた。


「存在した証拠は一つもない」


誰も反論できなかった。



帰り道。


ゆいはしばらく黙って歩いていた。


ようやく口を開く。


「本当にあれで終わり?」


「終わりだ」


クロは短く答える。


「納得できない顔だな」


「だって気持ち悪いじゃん」


クロはそれ以上何も言わなかった。


事務所へ戻る。


見慣れた机。


見慣れた棚。


いつも通りの風景だった。


ゆいは依頼書を片付けようとして手を止める。


「あれ?」


依頼人の名前。


そこだけ妙に読みにくい。


書いた覚えはある。


聞いた覚えもある。


なのに思い出せない。


「クロ」


「なんだ」


「依頼人さん、何て名前だっけ」


クロは目を閉じたまま答えた。


「知らん」


「一緒に聞いたでしょ」


返事はなかった。


眠っているのかもしれない。


ゆいは依頼書を見つめる。


名前の欄だけが、どうしても頭に入ってこない。


まるで最初から書かれていなかったみたいに。


窓の外で風が鳴った。


クロは何も言わない。


ただ静かに目を閉じていた。


読んでいただきありがとうございました。


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