もふもふしっぽは慌てふためいた
鳥のさえずりが耳に届き、彼はうっすらとその意識を浮上させた。
つい数週間前まで刺すように冷たかった空気は、嘘のように穏やかだ。
軋むベッドの上で寝返りを打ちつつ僅かに目を開け、すっかり日が昇った空を見て、彼はため息をついた。
まだ眠っていたい。
ベッドの上に無造作に投げ出された黒鉄色の毛艶の良い尻尾が大きく左右に揺れた。
それから幾分か時間が経ち、彼は再び目を開けた。
今度はそのまま徐に上体を起こし、頭部にある大きな耳を震わせ、鋭い爪が垣間見える両の手を天井へ向けて突き出す。
寝固まった身体伸ばすと、大きな欠伸を漏らした。
彼の身体は尾だけでなく全身が豊かな黒鉄色の毛に覆われ、その顔は鼻筋が長く狼のそれに近い。
開いた口には鋭い犬歯もあり、彼が人間ではないことを物語っている。
質素ながら清潔に洗われた衣服を纏っており、尾はズボンの尻部分に開けられた穴から出ていた。
両脚をベッドの下へとおろすと、そのまま立ち上がる。
それが当たり前のような二足歩行でのそのそと歩き出すと、畳まれていたタオルを手に取り外へ出る。
降り注いだ眩しい光に、彼は瞳を細めた。
少しつり気味のその瞳は槿色で、陽を受けて僅かに薄紫へと変化している。
家の外に造られた簡素な手漕ぎ井戸を数回漕ぐと、汲み上げられた冷たい水が吐き出し口から溢れ出た。
それを両手ですくい取って顔を洗い、口を濯いで咽喉を潤す。
彼の黒鉄色の毛はしなやかそうな見た目に反してあまり水を弾かず、濡れた部分はしんなりした。
毛が濡れるのを厭うように、念入りにタオルで顔を拭く。
しばらくしてようやく顔を上げると彼は庭の菜園へと向かい、で育てている真っ赤なトマトをもぎ取った。
室内へと戻る最中にそれを齧り、水分と栄養を補給する。
甘くはないが、寝起きの朝にはちょうど良かった。
彼は味わうでもなくそれを腹に落とし込むと、椅子の背に掛けられた灰色のローブを掴み、すぐに外へととって返す。
そのまま後ろ手に扉を閉めるとローブを羽織り、大きな歩幅で歩き出した。
暖かな日差しと、時折抜ける風を浴びながら山道を進み、彼は常日頃安らぎの場としている湖へと辿り着いた。
豊かな水をたたえた湖面は風により小々波立ち、陽の光を受けてキラキラと輝いている。
その自然の美しさを乱すものは何もない……はずだった。
最初は小さな波音だった。
それが次第に大きくなり、普段と違う様子を感じ取った彼は辺りを見回した。
はじめは小動物か何かが湖面を泳いでいるのかと思った。
その姿に目を凝らし、どうやら人間のようだと気付いた直後、音の主が突然消えた。
いや、正確には沈んだように見えた。
溺れたにしてはそれきり暴れる気配もなく、何事もなかったかのように静まり返る湖面。
彼は数秒間呆然とした後、きっと素潜りでもしているのだと思った。
しかし、ふと別の考えが頭を掠めた。
まさか、入水自殺か?
一度浮かんだ疑念は消えず、彼はローブを脱ぎ捨てると、きらめく湖面へと飛び込んだ。
アルファポリスさんに掲載分と少々内容を変更していますが大筋の話は変わりません。
※横書派の方用に、小分けにしたり、改行したり、文を変えたりしているためですのでご了承ください