第85話
国から疫病対策に医師達が集められた建物は、今は救護所と呼ばれ病人が溢れている上に、暴動で怪我をした住民が入って来たので、益々狭くなっていた。
建物の三階の部屋に病気に罹ったが、持ち直し快方に向かっている人々が入れられている。
もう症状は落ち着いて体力を付けるために、食事を少しずつとるようにしているのだ。
リリアスは、オテロの要望や貴族の関係者と言う事を考慮されて、この回復中の人の部屋に回されていた。
それに今人々が何とか生きていけているのは、リリアスが考えていた飲み物のお陰なので、その感謝の意味も込めて、ここに配置されている。
医師達はもういいから、家に帰るようにと言うのだが、リリアスがブリニャク侯爵が騒動を治め、自分を迎えに来るまではここにいると頑張るのだった。
それはブリニャク侯爵の娘と言われる自分の、矜持の様な物だと思っている。
侯爵の娘だと言われ、その立ち位置で生きて行かなければならないようで、その時――王都で疫病が流行った時に逃げていた――と言われるのは、侯爵に対しても自分に対しても許せない気がするのだ。
貴族の娘が皆そうなのかと考えれば、当然考え方は違うし国の存亡時に何をするかは人それぞれだが。
だが女であっても、ブリニャク侯爵の娘を名乗るならば、人を助けなければならないと思う。
戦争で人と戦い人を守った――赤鬼――は、国民をやはり守る立場であって欲しかったから。
――だから、私も――
リリアスは病人一人一人を見て、自分の最善を尽くしたいと思っていた。
その男の人は部屋の奥に寝かされて、意識はあるがずっと目を瞑り話もせず静かにしている。目はまだ落ちくぼみ、頬もこけ顔色も悪く体力が戻らなければ、病気が治っていたとしても助かるのが危うい状態だ
「お加減はいかがですか?」
隅のベッドで目を伏せ、黙す男はリリアスの問いかけにも、無反応だった。
「何かお飲みになりますか?」
持って歩いている白湯をコップに注いで渡そうとすると、男は首を横に振った。
「酒が飲みてえなあ……」
かすれる声で、そう言うと、
「姉ちゃん……酒が手にはいらねえかな」
と本気か冗談だ分からない事を言ってきた。
「飲めると思いますか?」
少しきつめに問うと、何か聞き取れないが、決して良い言葉ではない事を言ってから黙った。
リリアスは眠ったかもしれない男の横を、そっと離れた。
「どういう人なんですか?」
年の頃なら二十七、八ぐらいの、職業はちっとも予想が付かない男性だった。
今は顔がやつれて年寄りのようだが、体の骨組みや声で分かる。
同じく看護をしてる町衆の奥方が、そっと教えてくれた。
「あの男の人が一番最初の病人なのさ。下町の食堂で倒れたのを、ステファヌ先生が診療所に連れて帰ったのさ」
医師達の話を総合すると、一番最初の患者がステファヌ医師の街で、急速に患者が出たのは、食堂で倒れた男が泊まっていた宿が中心だった。その後はもう地域に関係なく、病人が出たのだった。
「この王都の近くの人なんですか? 言葉に訛りがある気がするけど」
奥さんは頭を振って、
「役人が身元を調べたんだけどね、宿帳に書いてある住所はでたらめで、その街には同じ名前の男はいなかったそうだよ」
リリアスは、そういう事がもう調べられていたとは、忙しくて知らなかった。
それでは、奥さんは口にして言わないが、あの男性が今回の騒動の発端かもしれないのだ。
「ここに一人で置いていて、いいんでしょうか?」
奥さんも頭をひねった。彼が疫病を運んできたとしても、だからと言ってそれが罪になるはずもないからだ。
「でも名前も住所も嘘なら、それをする理由があるはずだわ……」
弱っているのに、投げやりな態度や言葉使いが、何となく素性の悪さを感じてしまう。
リリアスは、病人を運んだりしているオテロを探した。
「三階に居る男性が、最初の病人じゃないかって聞いたのだけど、役人の人はそれから先は何か調べたのかしら? オテロは、誰かから聞いている?」
オテロもその話は初耳だった。
「聞いていませんね。今は病人を診るのが先決で、その男の事を調べる時間は無いのでは?」
「さっきもね、お酒が飲みたいなんて言ってたけど、それどころじゃなくて、体が弱り切っているから、回復できるかどうかの状態なの。でもなんだか下町育ちの私から見ても、ちょっと危なそうな人で、だから……」
リリアスの言いたい事が分かって、オテロは笑った。
「お嬢様、なんでもこの私に仰って下さいと言っているでしょう? 弱った病人の尋問なんて赤子の手を捻るような物ですよ」
笑いながら階段を上がって行くオテロに、
「病人を、捻っちゃ駄目なんだから!!」
と、リリアスが怒鳴った。
三階の部屋は下の病人が大勢いるのと違って、ゆったりとして気持ちよかった。回復期の人ばかりだから、臭いもせず清潔な物だった。オテロは言われている通り、部屋に入る前に良く手を洗い、靴の底も床に置いてある濡れた雑巾で擦った。
奥に居る目を瞑った男を見つけ、その横に椅子を持ってきて座った。
男は人の気配で目を開き、傍にいるオテロに顔を向けじっと見ていた。 その瞳には生きる希望や人生の喜びなど、何も見る事が出来なかった。
この病でそうなったのか、生きてきた道がそうさせたのか、軍隊で色々な男を見て来たオテロには、この男が碌な道を歩いて来なかったのは分かった。
「俺はこの看護所を手伝っているオテロっていう、お前の名前は?」
男はオテロが名前を言うと、明らかに顔色をもっと白くして、荒く息をして汗を流し始めた。
具合が悪くなったのかと、心配になって医師を呼ぼうと立ち上がりかけた時、オテロはもう一度男の顔を見た。
二人が見つめ合うと、男は口元で――フフフ――と諦めたような笑い声を上げた。
それから老人のような顔が歪み、何処か痛むのか眉をひそめた。
男は胸に手を当て、諦めたように全身の力を抜き、ぐったりとした。
「こんな所で会うなんて……それも俺は、一人じゃ動けもしないってんだから、天の配剤ってのか? この世の中は上手く出来てるのかね」
男は小さな呟くような声で、独り言のように話したが、それははっきりとオテロの耳に届いた。
「まさに天の配剤っていうのは、あるんだろうな。お前……お前を看病していた、赤毛で緑の瞳の娘を覚えているだろう?」
まるで地獄の番人が愉悦に震えて、門にやってきた罪人に注げるように、凄みを増して話しかけた。
男はさっきの娘の顔を思い出した。
真っ赤な夕焼けの様な赤毛。
「あのお嬢様が……お前が攫ってこの王都の教会に捨てていった、リリアージュお嬢様だぞっ! どうだ、己が幸せの全てを取り上げて、旦那様から奪ってしまったお嬢様に、命を助けられた気持ちは?」
オテロの顔は真っ赤だった。目が吊り上がり、口元が開き体が震えた。
男を見つけた嬉しさとか、今までの事への悔しさとかが入り混じった感情が溢れ、却って男に対する口調は、淡々とした物だった。
自分で自分を落ち着かせ、そうできる自分にも驚いたが、もしリリアージュが見つかっていなければ、この抑制ができたかは、疑問であった。
男の顔は、昔の若くて良い男ぶりなどどこにもなく、病の為に落ちくぼんだ瞳に、カサカサになった皮膚が老人のようだった。こうなった男に同情と言う感情など湧いてこなかった。
それよりも、友人だったオルタンシア公爵を亡くし、謀反人の汚名を着た友人の死を素直に嘆き悲しむ事もできず、ただ暴動の後始末と逃げた謀反人達の捜索に全力を尽くしている、主人が気の毒でしかなかった。
人生の後半は、苦しみ悲しむ事ばかり多い主人が、今も必死で悲しみを押し込んで働いていると思うと、オテロは居たたまれない。
その主人の悲しみの大半の原因を作った男が、今まさに目の前にいる事が、神が主人と自分に与えてくれた、人生最後の僥倖ではないだろうか。
「お前がどの様にここに至ったか、良く聞かせてもらおう」
凄みの有るオテロの声は、自分の運の悪さを罵りながら、これからされる事に対して恐怖を感じている男の心を、鷲掴みにしているのだった。




