第86話
昨日オテロに話した男の人は、小さな物置部屋に移された。
「もう病気は治っているのだから、一人部屋にする必要はないんじゃないの?」
急に慌ただしくオテロが男を運び出して、人を呼んで何かを言い付けていた。
「まあ、色々ございますから……」
オテロは言葉を濁して、何も教えなかった。
今日も住民は王都の中を動き回り、――食料を寄こせ、城門を開放しろ――などと要求を叫んでいた。
一国の宰相が亡くなり王太子が毒に倒れたと聞いても、それを知っているリリアスや知らずにいる住民にも、なんの影響もなかった。
国政を担っていた宰相がおらず、政治にも経済にもそして国民にも影響が無いはずが無いのだが、それを国民は知らないだけだった。
オテロが男の部屋に入って話をしているのか、一向に出てこなかった。昼になって食事の時間なので、リリアスがノックすると、オテロが顔に汗を滴らせて出て来た。狭い物置小屋は男二人では、暑いだろうと同情した。
「食事の時間ですけど、ここで食べますか?」
一応聞いてみただけなのだが、オテロは真面目な顔で頷いて、二人の食事を運んだ。オテロが男に食べさせたようだ。
オテロは軍隊で覚えたと言って、炊事も洗濯も掃除も出来るまめな人だから、それで結婚もしなかったのかと思ったが、ブリニャク侯爵の従僕をしていて、その暇が無かったのかもしれない。
夕方近くになり、救護所の前が騒がしくなった。窓から覗くと供を数人連れた馬に乗ったブリニャク侯爵だった。
それ程会っていなかった訳ではないのに、顔を見ると嬉しくなった。建物に居る人は見知らぬ人ばかりで、忙しくしてはいたが人恋しかったのかもしれない。
「侯爵様!!」
声を出して、駆け寄るリリアスを侯爵は腕を広げて迎え入れた。
リリアスも嬉しさに腕に飛び込み見上げると、その顔は心労で疲れた表情だった。
「リリアージュ、大丈夫だったか?」
色々な意味が籠った言葉だったが、それはリリアスが言いたい言葉だった。
「侯爵様こそ……お体大丈夫でしたか?」
大きな体に抱き上げられて、リリアスは子供の様に室内を運ばれてしまう。
周りでは大男の正体が分かり、口々にブリニャク侯爵の事を話していた。
――王都の民を斬ったんだと――
――いや、暴動を治めたらしいよ――
皆知っている事を話していたが、何故そうしたかの理由を知る人は、余りいないだろう。
運ばれるリリアスにもその声が聞こえたが、侯爵は毅然とした態度だった。
二階に上がろうとする侯爵に、
「自分で歩けます!」
とその腕から飛び降りた。
侯爵は冗談なのか、泣き顔を作って肩を竦めた。
憔悴の気持ちであるだろうに、それをリリアスに見せないようにする、侯爵の気遣いなのだろうか。
「今日はどうして、こちらに? 街の騒動は収まったのですか?」
「ああ、昼間は騒ぎはあまり起こらないのだ。夜の方が闇に紛れて悪さをする奴が、多くなってきた」
王都の騒動は、逃げ出すという事より、中で盗みなどをする事の方が多くなっているようだ。食料が足りないゆえに、人から奪おうとしているのかと心が痛んだ。
「食料はどうなっているのですか? 皆ひもじい思いをしています。お金があっても、物が無いのでどうしようもないんです」
侯爵にこんな事を言ってもしょうがないのだが、貴族というだけでどうにかなるのではないかと、口にしてしまうのだ。
「王宮の食料を今民に出しているが、それも限りがあってな……王都の周辺の農家などに物を運ぶように、命令しているが皆疫病が怖くて来ないのだ。軍で病に罹っていない者が、食料を調達に行くしかないと言う話になっている」
今食料がなんとかもっているのは、他の貴族達も貯蔵している食料を民の為にと、出しているかららしい。早く疫病が治まらなければ、王都の住民は飢えて死ぬことになってしまう。
「今日は他の用件できたのだ。失礼するよ」
侯爵は三階の物置部屋の男に、会いに来たのだと言ってオテロと一緒に行ってしまった。
狭い部屋が大男の侯爵が入って、益々暑苦しい空気になった。
病人の男をベッドの横で見下ろす侯爵と、その横に立つオテロで部屋の幅も長さも一杯になってしまった。
男は訪れた男が誰かはすぐ理解した。
昔顔を隠しては村に妻と子供に会う為に、時々やって来ていた男だった。
男は戦争がある中で、呑気なものだと思っていたのを思い出した。
「確か名前は……」
「カンタンです、旦那様」
侯爵は――ああ――と頷いた。まるで犬の名前を聞いた時のような、軽い返事だった。
「カンタンよ、お前の悪運もここで潰えたな。何か言う事があるか?」
カンタンと名前を呼び起こされた男は、侯爵の顔を見る事が出来ず唇を噛むばかりだった。顔色も白く、かけられた毛布の端を掴む手が、恐怖からか震えていた。
先に話していたオテロが優しい男に思える程、今自分の名前を呼んだ侯爵には、迫力と強さが兼ね備えられていた。
あの村に居る時は金持ちの男としか、見ていなかったが、年を取った今の顔は、普通の男には見えなかった。若い頃の自分はこの男を、金に飽かして女を囲う遊び人だと侮っていたが、それが間違いだったと今更分かった。
貫禄のあるどう見ても貴族の男だった。
自分は貴族の娘をかどわかし、そして捨てたのだ。
その時自分が手にした金は、持った事がない大金に気を大きくし賭け事につぎ込んで、直ぐに失ってしまっていた。
自分が犯した罪から見れば、今考えると、非常に少ない金額だったのだ。
「あの頃俺は若かった……馬鹿みたいに。そして小狡く、田舎の一端の悪を気取っていた男だった……」
体も悪く逃げる事も出来ず、もしこの男が貴族なら、自分の命は無いと覚悟したようで、緊張した体の力を抜いてしまった。
「その事があの時分かっていたなら、今のお前は無かっただろうな。……お前は、ブリニャク侯爵とイズトゥーリス国の王女との娘を攫って、捨て去ったのだ。年を取った今なら、自分の犯した罪の深さと重さを理解できるであろう?」
オテロは主人がカンタンを目の前にして、激怒するのではないかと思っていたが、主人は冷静に淡々と相手にしているのに驚いていた。
「私は、お前を見つけた時の事を想像していた。どうやってリリアージュの事を聞こうか、どうやって探しだせばいいのかと、夢に見る程だった。お前がリリアージュの居所を話してから、殺す方法をワクワクして考えていた。だが時が過ぎるうちに、その想像も尽きて、冷静になってしまった。それにリリアージュが見つかると、お前の事など頭から消えてしまっていたのだ。……だが今は、お前をどうやって殺そうかと、またワクワクしているぞ」
オテロもカンタンも恐怖に怯えた。
カンタンは目の前にいる男が、――赤鬼――と呼ばれたブリニャク侯爵と理解し、息が止まり全身に震えが起こった。下半身が温かくなり、臭いから失禁したのだと分かった。
――傷のある顔を、赤く燃えるような髪の毛を、それらを見ていたとして、あの時の若造の自分に分かっただろうか?――
カンタンはあの時の自分に、非道な行いは止めろと言いたかったが、そんな事は夢のような話だった。
じっと、ブリニャク侯爵に上から笑った顔で見下ろされて、もう生きた心地はしなかった。
病からは助かったが、この男からは逃げられないと覚悟した。
ふとカンタンにある事が思いついた。
侯爵に話しかけようとするが、恐怖でなかなか口が利けない。穏やかそうな顔をしているのに、侯爵の顔は恐ろしかった。戦場を生き抜いた侯爵の発する気配が、カンタンを怯えさせていた。
「こ、侯爵様……」
喉がひりついて声が出なかった。
しかしカンタンの声音が、命乞いするのとは違う気がして、侯爵は話を聞いてやろうと思った。
「オテロ、水を飲ましてやれ」
リリアージュが置いてあった水を、オテロはもったいなさそうに、カンタンに飲ませた。
ごくごくと喉を鳴らして水を飲むと、ゴホゴホッと咳き込み腕で口元を拭った。
息を切らせながら、カンタンは侯爵を見た。
「い、命ばかりは、お、お助け下さい……」
毛布の中から震えながら手を出して、祈るように合わせて侯爵に向けた。
「それが許されると思っているのか?」
くだらない事だとばかりに、侯爵は体を起こし部屋を出ようとした。
「わ、私は誰かに嵌められたんだ!! に、荷物を……王都に運べば、借金をチャラにしてくれるって……してくれるって言って、あんな大金……チャラになんて、うまい話だと……思って……」
侯爵もオテロも、カンタンの命乞いの言い訳にはならないと思ったが、この男が最初に病気で倒れたと知り話を聞きに来た事と考え合わすと、何かが見えて来た気がした。
二人は怯えて震えるカンタンの頭上で、顔を見合わせていた。




