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第一話 キリオンの日常

「先生、次は僕!」


「待て待て。順番だ。怪我人が増えると、俺の仕事まで増えるんだからな」


 診療所の前に集まった子供たちを見渡し、キリオンは小さくため息をついた。


 とはいえ、その顔は呆れてこそいるものの、本気で困っているようには見えない。


 春を迎えたばかりの穏やかな昼下がり。


 キリオンの営む薬屋の前には、六人ほどの子供が並んでいた。


 擦り傷。


 切り傷。


 打ち身。


 中にはどう考えても治療など必要なさそうな者までいる。


「で、お前は?」


「ここ!」


 十歳くらいの少年が勢いよく腕を差し出す。


 肘に、小さな擦り傷があった。


「……これ、昨日の傷じゃないか?」


「今日も転んだ!」


「同じところを?」


「うん!」


「胸を張るな」


 キリオンは眼鏡の奥から少年を睨んだ。


 まったく堪えた様子がない。


 仕方なく傷口を水で洗い、棚から小さな陶器の壺を取る。


 蓋を開けると、淡い緑色の軟膏が現れた。


「染みるぞ」


「えっ」


 少年の顔が固まる。


「冗談だ」


「先生!」


「暴れるからだ」


 笑いながら、薄く軟膏を塗る。


 最後に清潔な布を巻けば、それで終わりだ。


「はい、次」


「私!」


 今度は女の子が進み出る。


「どうした?」


「お腹痛い」


「朝、何食べた?」


「パン」


「それだけ?」


「……蜂蜜も」


「どのくらい」


 少女は目を逸らした。


 キリオンも黙った。


 しばらくして、少女が両手で大きな丸を作る。


「瓶?」


「……半分」


「帰って母さんに謝ってこい」


「薬は?」


「いらん。今日は水飲んで、大人しくしてろ」


「先生の薬ほしい」


「腹痛が悪化する薬なら作ってやれるぞ」


「いらない!」


 少女は腹を押さえたまま逃げていった。


 その背中を見送り、キリオンは肩をすくめる。


 薬師という仕事は、薬を作って売れば終わりではない。


 少なくとも、この町ではそうだった。


 熱を出した子供を診る。


 腰を痛めた老人に湿布を渡す。


 農作業中に指を切った男を叱る。


 時には家畜まで診せられる。


 薬師なのだから人間だけを診たい、と主張したところで、町の人間は聞いてくれない。


 キリオンが故郷へ戻ってから、およそ十年。


 いつの間にやら、この小さな店は町の便利屋のような場所になっていた。


「先生、先生」


「今度は何だ」


 袖を引っ張ってきた少年へ振り返る。


「今日、勉強ある?」


「ある」


「えぇーっ」


「怪我が治ったなら元気だろ。夕方になったらいつものところに来い」


「怪我、まだ痛いかも」


「じゃあ安静だな。家に帰って一日寝てろ」


「勉強行きます」


「よろしい」


 キリオンは満足そうに頷いた。


 治療が終わった子供たちは、蜘蛛の子を散らすように走っていく。


 そのうち何人かは夕方になれば再びやってくるだろう。


 読み書きと計算。


 少し年上の子には、地理や歴史も教える。


 町に正式な学校がなかった頃、暇を持て余したキリオンが近所の子供を集めて教え始めたのが始まりだった。


 今では町の共同施設を借りて、週に何度か授業をしている。


 薬師なのか教師なのか。


 自分でも時々分からなくなる。


「……まあ、食っていけてるからいいか」


 独り言を漏らして腰を伸ばす。


 ぱき、と小さく音がした。


「……嫌な音するなあ」


 四十を迎えたばかりだというのに、最近はこういう瞬間が増えた。


 昔は一晩野宿して、そのまま山を歩いても平気だった。


 徹夜で本を読み、そのまま翌朝から調合することもできた。


 今では無理だ。


 一晩寝不足になれば、翌日は丸一日頭が重い。


 細かい文字も、眼鏡なしでは読む気になれなくなった。


 人間というのは、本人が思っているより着実に歳を取るものらしい。


「先生ー!」


 遠くから子供の声がした。


「走るなー!」


 キリオンも声を返す。


 転んで戻ってこられては困る。


 今しがた治療したばかりなのだ。


 苦笑しながら店の中へ戻ろうとした――その時だった。


 町の入口の方が、妙に騒がしいことに気づいた。


「なんだ?」


 荷馬車でもひっくり返ったのか。


 そう思ったが、どうも様子が違う。


 通りを歩く人々が次々と足を止め、一方向を見ている。


 ほどなくして、その理由がキリオンの目にも見えた。


 一台の馬車が、ゆっくりとこちらへ進んできている。


 まず馬が立派だった。


 毛並みがいい。


 手入れも行き届いている。


 馬具ひとつ取っても、この辺りではなかなか見かけない品だ。


 そして何より、馬車そのものが明らかに町には不釣り合いだった。


 黒を基調とした車体に、銀の装飾。


 扉には、どこかで見た覚えのある紋章が刻まれている。


「……どこの貴族だ?」


 キリオンが首を傾げる。


 町の人間も似たような反応だった。


 八百屋の主人は店先から身を乗り出し、向かいの仕立屋からは夫婦揃って顔を出している。


 滅多に余所者の来ない町ではない。


 街道が近いため、旅人や商人ならそれなりに通る。


 だが、あれほど立派な馬車が町へ入ってくることは珍しかった。


 馬車はそのまま進んできた。


 そして。


「……ん?」


 キリオンの店の前で止まった。


「先生、何かしたのか?」


 向かいから声が飛んでくる。


「するか!」


 反射的に言い返した。


 だが、自信がなくなってきた。


 昔、旅をしていた頃の知り合いだろうか。


 借金はない。


 少なくとも記憶にはない。


 何か面倒な約束を忘れている可能性も――。


 そこまで考えたところで、馬車の扉が開いた。


 一人の女性が降りてくる。


 まず目に入ったのは、艶のある淡い金髪だった。


 背中まで伸びた髪を整え、後ろで緩やかにまとめている。


 身に纏っているのは旅装ではない。


 濃紺を基調とした上質なローブ。


 胸元には銀色の徽章が留められ、その下から白いブラウスが覗いている。


 歳は二十代前半だろう。


 整った顔立ちと隙のない服装のせいか、それ以上に落ち着いて見える。


 女性は馬車を降りると、周囲の視線などまるで気にせず店へ歩いてくる。


 キリオンは目を細めた。


 どこかで見た顔だった。


 いや。


 どこかどころではない。


「……セレス?」


 名を呼ぶ。


 女性の足が止まった。


 次の瞬間。


 それまでの澄ました表情が、ぱっと崩れた。


「先生!」


「ああ。やっぱりセレスか」


 セレスティア・レインベル。


 キリオンが彼女と最後に会ったのは、何年前だったか。


 十年まではいかない。


 だが七、八年は経っているはずだ。


 当時はまだ十代半ばの少女だった。


 生意気なくらい好奇心旺盛で、分からないことがあると答えるまで付きまとってくる。


 そんな少女だった記憶がある。


 今ではすっかり大人の女性だ。


「久しぶりだな。元気だったか?」


「はい!」


「そうか。それは良かった」


「先生もお変わりなく――」


 そこでセレスの視線が止まった。


 キリオンの顔。


 正確には、眼鏡に。


「……先生」


「なんだ」


「眼鏡……」


「ああ、これか」


 キリオンは眼鏡の位置を指で直した。


「二年くらい前からな。細かい文字がちょっと厳しくなってきたんだ」


「…………」


「なんだ、その顔」


「いえ……」


 なぜか酷く衝撃を受けている。


「先生も歳を取られるのですね」


「当たり前だろ」


「なんとなく先生は五十歳になっても六十歳になっても、そのままなのではないかと」


「俺を何だと思ってるんだ」


 キリオンは呆れた。


 昔から変なところのある娘だったが、その部分は変わっていないらしい。


「それより、お前こそ立派になったな」


「ありがとうございます」


「王都にいるとは聞いてたけど。今、何してるんだ?」


 尋ねると、セレスがわずかに固まった。


「……先生」


「うん?」


「私が送った手紙は」


「ああ、読んでるぞ」


「最後に読まれたのはいつですか?」


 キリオンは考えた。


 半年。


 いや、もう少し前だったような気がする。


 工房の奥に何通か積んである。


「……去年?」


「八か月前です」


「そうとも言う」


「手紙は月に一度送っています」


「そんなに来てたか?」


「来ています!」


 声を荒らげたセレスが、はっとして咳払いした。


 町の人々の視線を集めていることに気づいたらしい。


 ほんの少し頬を赤くしてから、再び背筋を伸ばす。


「後ほど、先生の机の整理についてもお話があります」


「なんでだよ」


「重要な案件です」


「俺の机なのに?」


「だからです」


 昔より強くなったな。


 主に性格が。


 キリオンは心の中だけで呟いた。


「まあ、立ち話もなんだ。茶くらい出すぞ」


「ありがとうございます。ただ、その前に」


 セレスは姿勢を正した。


 明らかに空気が変わる。


「本日は、先生にお願いがあって参りました」


「お願い?」


「はい」


 嫌な予感がする。


 こういう顔をした教え子には覚えがあった。


 何かを決めた後の顔だ。


「先生に、王都へ来ていただきたいのです」


「…………」


「講師として」


「…………」


 キリオンは瞬きをした。


「誰が?」


「先生がです」


「どこの?」


「王都の錬金術学院です」


「俺が?」


「はい」


 聞き間違いではなかった。


 キリオンは腕を組んだ。


 そして、少し考える。


「断る」


「はい。では出発の日程ですが――」


「いや、断ったぞ?」


 セレスが止まる。


「……どうしてですか?」


「どうしてって」


 キリオンは自分の頭を指差した。


「もう歳だからだよ」


「…………」


「なんだよ」


「先生は、今年おいくつでしたか?」


「四十」


「四十」


「そう」


「……四十」


「何回言うんだ」


 セレスが額に手を当てた。


「先生。それは、引退を考える年齢ではありません」


「いやいや、もう若くないぞ。ほら、眼鏡もいるようになったし」


「眼鏡と講師に何の関係があるのですか」


「細かい字が見えにくい」


「眼鏡を掛ければ見えていますよね?」


「腰もたまに痛い」


「講師ですよね?」


「長旅もしんどい」


「馬車を用意しました」


「王都、人多いだろ」


「そこまで行くと単に嫌なだけではありませんか?」


「よく分かったな」


「先生!」


 町にセレスの声が響いた。


 キリオンは耳を押さえる。


「分かった、分かった。声を落とせ」


「分かっていません」


「だいたい、なんで俺なんだ。講師なんて王都にいくらでもいるだろ」


「先生にお願いしたいからです」


「もっと若い奴にやらせた方がいい」


「先生にお願いしたいのです」


「有名な先生とか」


「先生がいいです」


「現役の研究者とか」


「先生がいいです」


「……お前、昔より頑固になったな」


「誰に教わったと思っているんですか?」


「少なくとも俺はそんなこと教えてないぞ」


 やれやれ、とキリオンは頭を掻いた。


 どうやら簡単には引き下がりそうにない。


 だが、キリオンにしてみれば本心だった。


 今さら王都へ行って、若者たちの前に立つつもりはない。


 自分が中央の研究から離れて、どれだけ経ったと思っているのか。


 錬金術だって日々進歩している。


 新しい技術も、新しい薬も、新しい理論もある。


 そうしたものは、今の時代を生きている若い者たちが教えればいい。


 自分がすべきことは、ここで薬を作ること。


 町の子供たちに文字を教えること。


 困っている人間がいれば手を貸すこと。


 それで十分だった。


「セレス」


「はい」


「せっかく来てくれたのに悪いけどな」


 キリオンは穏やかに笑った。


「俺はもう、そういうところに出ていく歳じゃないよ」


 セレスは何も言わなかった。


 ただ、じっとキリオンを見る。


 昔から、この娘は人の目を見て話す癖がある。


 だからこそ、キリオンも視線を逸らさなかった。


 しばらくして。


「分かりました」


 意外にも、セレスがあっさり頷いた。


「そうか」


「はい」


 キリオンはほっと息を吐く。


 随分素直に引き下がったものだ。


 もっと食い下がってくるかと思った。


「では、今日は失礼します」


「ああ。せっかくだし泊まっていけばいいだろ。宿なら――」


「宿は取ってあります」


「そうなのか?」


「はい」


 セレスは微笑んだ。


「明日もまた、お迎えに伺いますね」


「…………」


 キリオンは黙った。


「今、断ったよな?」


「聞きました」


「じゃあなんで明日来るんだ」


「本日はお断りになったので」


「明日も断るぞ」


「それは明日お聞きします」


「いや、聞けよ。今の俺の話を」


「もちろん、先生のお話はいつも大切に聞いております」


「絶対聞いてないだろ!」


「それでは、先生。また明日」


 深々と頭を下げる。


 そしてセレスは、来た時と同じ優雅な足取りで馬車へ戻っていった。


 扉が閉まる。


 馬車が動き出す。


 そのまま町の通りを進んでいく後ろ姿を、キリオンは呆然と見送った。


「……昔からあんなだったか?」


 誰にともなく呟く。


 向かいの八百屋から声が飛んできた。


「先生、明日も来るってよ!」


「聞こえてたよ!」


 通りのあちこちから笑い声が上がる。


 キリオンは額を押さえた。


 どうやら、しばらく静かな日々には戻れそうになかった。


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