第77話『機密と誘因』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
包囲四日目の朝。
昨夜の長老たちとの会議で使節団派遣の前倒しは決まったものの、実際の行動計画は依然として曖昧なままだった。アルケウスは『準備を整えてから』と繰り返すばかりで、その口から具体的な日程が出てこない。その言葉の奥には、事態を先延ばしにしたいという弱気な感情が透けて見えた。
このままでは、本当に手遅れになる。
このままでは、本当に手遅れになる。俺は、もはや長老たちの判断を待つ気にはなれなかった。自分の手でこの状況を動かすしかない。長老たちが選ぶ正式な使節団が、ストラボ将軍と直接交渉できる場をセッティングする。そのために、まずは俺が密書を将軍に届けることから始めよう。朝の冷気が肌を刺す。白い息を吐きながらデモステネスを呼び寄せた。
「ストラボ軍についての詳細な情報が必要だ。特に将軍本人の性格、判断基準、そして軍内部の状況を可能な限り詳しく調べてくれ」
「承知いたしました。どの程度の精度が必要でしょうか?」
「交渉材料を見極められる程度に。それと、軍営への接触ルートも探ってほしい」
デモステネスの表情に一瞬の緊張が走る。彼の目が、この任務の危険性を物語っていた。だが、彼は何も言わず、ただ力強く頷いた。俺の無謀な意図を、それでも受け入れてくれたことに感謝した。
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午後、デモステネスが詳細な報告を持参した。書斎の机上に広げられた羊皮紙には、ストラボ軍の編成から将軍の人物像まで、驚くほど詳細な情報が記されていた。
「精鋭軍団兵二万、補助兵一万五千、騎兵三千。投石機二十基を含む包囲兵器を完備しております」
圧倒的な戦力差である。正面からの軍事衝突は、完全に絶望的と言わざるを得ない。
「指揮官の構成は?」
「ストラボ本人が総司令官。副官にはマルクス・クラッスス、プブリウス・スルピキウス・ルフスが就いております。またクィントゥス・セイヤヌスという副官もいるとのことです。そして、最も注目すべきは——」
デモステネスが声を低くして続ける。
「若きグナエウス・ポンペイウスが騎兵隊長として従軍していることです。まだ十七歳ですが、既に父に劣らぬ統率力を見せているとの情報です」
やはりその通りであった。この情報により、ポンペイウス家への配慮がいかに重要かが再確認される。
「戦術的特徴は?」
「ストラボ将軍は正面攻撃より兵糧攻めを好みます。長期包囲により敵の士気を削ぎ、降伏を促すことを得意としています」
「だが、それだけではない。彼は政治的効果も計算に入れている。無血開城であれば、ローマでの名声がより高まることを理解している男だ」
この分析により、交渉戦略の方向性が見えてきた。ストラボは純粋な軍人ではなく、政治的計算のできる人物である。
「なるほど。では、やはり我々の戦略は正しい方向にあると言えるな」
「はい。だが、相手も一筋縄ではいきません。細心の注意が必要です」
その時、ソフィアが書斎に入ってきた。
「ティトゥス様、重要な報告が……」
「どうした?」
「ローマ軍の動向ですが、昨日のウィダキリウス・スカト戦死の報せを受けて、軍内部で戦略会議が開かれたようです。一部の将校は早期攻撃を主張しているとのことです」
予想していた事態だった。時間的猶予は確実に縮まっている。
「他に何か?」
「はい。ローマ軍営への接触について、一つの可能性を見つけました」
ソフィアが小声で続ける。
「染物屋の息子、クラウスという少年です。十二歳で、利発ですが素直な性格。軍営に食材を運ぶ商人たちに混じって、接近することは可能かと思われます」
俺は思案した。少年を使うのは危険だが、大人では怪しまれる可能性が高い。子供であれば、比較的警戒されにくいだろう。
「その少年は信用できるか?」
「はい。父親の染物屋パウルスは、昔からクリスプス商会と取引のある信頼できる商人です。息子のクラウスも、これまで何度か使いを頼んだことがありますが、確実に仕事をこなします」
「分かった。だが、まず俺がストラボ将軍に送る文書を準備する必要がある」
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夕刻、俺は一人で書斎にこもり、ストラボ将軍への書簡の草稿を練り始めた。これは正式な降伏文書ではない。むしろ、将軍の関心を引きつけ、交渉の可能性を示唆する『誘い水』のような文書だった。
机の奥の隠し箱から、父マルクスがローマから送ってきた極秘の書簡を取り出す。蝋で封印された小さな巻物には、父の几帳面な文字で重要な情報が記されていた。
『息子 ティトゥスへ。
ユリウス市民権法の準備が最終段階に入った。ルキウス・カエサルが年末の冬営時期に元老院で提案する予定だ。この法律が成立すれば、武装解除した同盟市にはローマ市民権が付与される。これは同盟市戦争を終結させる切り札だが、極秘中の秘である。情報の取り扱いには最大限の注意を払え。またソフィアに預けてある、クィントゥス・セルウィリウス・カエピオの添状は有用だ。時を見て使うがよい。
父マルクス』
この情報は決定的だった。もしユリウス市民権法が成立すれば、アスクルムのような都市は武装解除と引き換えに市民権を得ることができる。これ以上の条件はない。
だが、この情報は父も強調していたように、極秘中の秘だった。直接的に市民権法の存在を明かすことはできない。しかし、近い将来ローマの政策に変化がある可能性として仄めかすことは可能だろう。
クィントゥス・セルウィリウス・カエピオとは、父が支援している元老院議員の一人だ。歴史上小カエピオの名で通っている。あのカエサル暗殺犯の一人として有名な、マルクス・ユニウス・ブルータスの祖父であることでも有名だな。
小カエピオは、6月に戦死した執政官ルプスの副官であり、ストラボの同僚だった。ルプス戦死後、軍団を引き継いだストラボとは異なり、体調を崩したマリウスと負傷兵を率いてローマに撤退していた。
俺は羊皮紙に向かい、慎重に文章を組み立てていく。
宛先は、ポンペイウス・ストラボ本人。
表向きは「アスクルム市民代表」の名義で、実際の署名はアルケウスの名前を使う。小カエピオの添状をつければ、確実にストラボまで届くだろう。
『ストラボ将軍閣下
アスクルム市民一同は、閣下の寛大なる支配を受け入れる用意があることをお伝えいたします。我々は無益な抵抗により貴重なローマ兵の血を流すことを望んでおりません。
市民の生命と財産の保護を条件とし、無血開城による解決を希望いたします。これは単なる降伏ではなく、新たな時代への賢明な選択と考えております。
近い将来、ローマの寛大な新政策により、同盟市に対する処遇にも変化があると仄聞しております。ストラボ将軍閣下の英明なる判断により、この歴史的転換を平和裏に実現していただければ、後世まで語り継がれる美談となることでしょう。
閣下の寛容なる裁定を、心より願っております。
アスクルム市民代表 (アルケウス・マクシムス)』
文書には、ストラボにとっての利益を暗に示唆した。無血開城による名誉、ローマでの政治的評価の向上、そして軍団の損耗回避。これらすべてが、彼にとって魅力的な条件となるはずだ。
同時に、ユリウス市民権法への言及も巧妙に織り込んだ。直接的ではないが、『新たな政策』として匂わせることで、アスクルムの降伏が単なる敗北ではなく、建設的な政治的選択であることを印象づける狙いがあった。
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翌朝早く、俺はアルケウスの屋敷を訪れた。昨晩作成したストラボへの手紙の内容にアルケウスの署名をもらうためだ。また小カエピオの添状を付け、ストラボへ届けるルートについても相談するつもりである。手紙が届かないと交渉を始めることもできないからな。
「若きクリスプスよ……」
アルケウスは全身から悲愴感を漂わせ、力のない表情で手紙を読み終えると、低い声で囁くように話を始めた。
「なぜ前法務官カエピオ殿の添状まで用意できているのかは問わない。だが、この手紙で本当にストラボ将軍との交渉に臨むことができるのだろうか」
「それはわかりません。今回の手紙は、クリスプス商会が持つ、ローマ軍への物資供給業者を接点にして届けるつもりです。もちろんこの手段だけではなく、武器・装備商人や馬匹・車両業者経由など、複数の橋渡し役を確保しています」
「そこまでとは……」
「アルケウス殿、時間がありません」
「おぉ、そうだな……」
「ストラボ将軍から返答があり次第、更に手紙を送るか、直ぐに使節団を出発させるか判断しなければなりません。アルケウス殿は五名の皆さんと準備をお急ぎください」
「わ、分かりました」
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アルケウスとのやり取りを終えると今度はソフィアと共に染物屋を訪れた。クラウス少年は想像していた通り、利発そうな目をした真面目な少年だった。父親のパウルスも同席し、事の重大性を理解した上で息子の任務を承諾してくれた。
「クラウス、この手紙をストラボ将軍の本陣まで届けてくれ。絶対に誰にも読まれるな。誰とも口をきくな。道を外れるな」
「は、はい……!」
震える手で手紙を受け取ったクラウスに、俺は優しく声をかけた。
「怖がることはない。君は食材を運ぶ商人の手伝いということになっている。自然に振る舞えば大丈夫だ」
ソフィアが段取りを説明する。
「午前中に商人たちと一緒にローマ軍営に向かいます。手紙は添状と一緒に油紙に包んであるので、食材の荷車の底に隠し、補給所で取り出しなさい。そこにはウァレリウス商会のマルクス・ペルペンナという若い商人がいるので、彼に『巻き髪の贈り物がある』と伝え、『イリリウム製の琥珀か?』と聞かれたら『菓子類五袋だ』返事をするのです。彼から手紙の存在を聞かれたら、そのままとして渡しなさい。わかった?」
「巻き髪……琥珀……菓子類は五袋。分かりました」
クラウスの声は緊張していたが、決意は固いようだった。
「無事に戻ってきたら、褒美をたくさん用意しているからな」
俺がそう言うと、クラウスは初めて微笑みを見せた。
朝霧が立ち込める中、クラウスは商人たちと共にアスクルムの城門を出て行った。俺とソフィアは城壁の上からその姿を見送った。
「うまくいくでしょうか?」ソフィアが不安そうに尋ねる。
「分からない。だが、やらなければ確実に手遅れになる。それに他の手段も同時に取るまでだ」
ソフィアに返事をしながら東の空を見上げる。
雲の切れ間から朝日が差し込み、アスクルムの街を金色に染めている。
まずはストラボに手紙を届けるのが第一。
次に彼の判断を待つ。
もし彼が俺の提案に関心を示せば、アスクルムには希望の光が見えてくる。しかし、もし拒絶されれば……。
その時はその時だ。
まだ他の手段もないわけではない。
クラウスが無事に戻ってくることを祈りながら、俺は次の段階の準備を始めた。ストラボと使節団の直接交渉が実現すれば、そこで提示する具体的な条件案も必要になる。
アスクルムの運命を賭けた、最後の勝負が始まったのだ。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(普通の日本人に降伏文書を書く機会なんて、まずは訪れませんよね)
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