第76話『包囲三日目の決断』
ルキウス・ユリウス・カエサルとプブリウス・ルティリウス・ルプスが執政官の年(紀元前90年)十月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
十月の冷気が市内に立ち込めていた。ローマ軍がアスクルムを包囲して、三日が経とうとしている。
朝霧がまだ街を覆う中、市壁の上から眺める限り、ストラボの軍勢はまだ様子見の陣形をとっていたが、それでも明らかに輪は狭まってきている。朝の冷たい風に乗って、遠巻きに焚かれた火の煙が流れてくる。兵たちが夜通し歌を唄っているのが聞こえる。その節回しはわざとだ。焦燥と恐怖をかき立てる音だった。
石造りの建物が立ち並ぶ街角では、早朝にもかかわらず不安そうな市民たちの姿が目立っていた。普段なら商人たちが荷車を引いて賑やかに行き交う広場も、今は閑散として重苦しい空気に包まれている。子供たちの声も普段より小さく、母親たちは彼らを建物の影に隠すように歩いている。
市内は早くも限界が近づいていた。包囲網は完全に築かれ、外部からの物資搬入や人の出入りが完全に遮断されている。当然、父との情報交換も不可能となっていた。予想されたこととはいえ、状況は深刻だった。
そんな中、正午過ぎに決定的な報告が舞い込んできた。
「マルシ族の指導者、ウィダキリウスが戦死した模様です」
マルクス・ホシウス・ペルペンナが血相を変えて駆け込んできた。父の旧知であり、今では俺の手足として動いてくれる若い商人だ。書斎の重い扉を開けて飛び込んできた彼の顔は、蝋燭の光に照らされて青白く見えた。普段は冷静沈着なホシウスが、これほど動揺を露わにするのは初めて見る光景である。
この報告を聞いた瞬間、背筋を氷の手が撫でていくような感覚に襲われる。ウィダキリウスという名前が持つ重みを理解していた。彼はただの指導者ではない。同盟市戦争における象徴的存在であり、その死は戦争の趨勢を決定づける出来事なのだ。
「詳細は?」
「スッラ軍との戦闘で負傷し、その後陣没したとのことです。同盟市側の士気は大幅に低下しているようです」
これは同盟市戦争の転換点である。ウィダキリウスの死により、反ローマ陣営は深刻な打撃を受けるはずだ。そして何より重要なのは——この情報がストラボ将軍の判断に与える影響だった。
「他の戦線はどうだ?」
「サムニウム方面でもローマ軍が優勢です。ルキウス・カエサルが南部アエセルニア(現イゼルニア)を攻略し、補給路を確保したとの情報もあります」
戦況が急速にローマ有利へ傾く中、俺の脳裏に危機感が走った。これまでストラボは包囲戦による持久戦を選択していた。しかし、同盟市側の完全な劣勢が明確になれば、彼は方針を変更する可能性がある。
時間をかけて無血開城を誘う必要がなくなれば、ストラボは力による解決を選ぶかもしれない。そうなれば、アスクルムは確実に灰燼に帰すだろう。
急いでデモステネスを呼び寄せる。
「情勢が変わった。計画を前倒しする必要がある」
「承知しました。どの程度の前倒しでしょうか?」
「使節団はすでに編成されているが、長老たちは時期を決めかねている。このままでは手遅れになる」
デモステネスの表情に、一瞬の緊張が走ったのを見逃さなかった。彼もまた、この決断がいかに危険な賭けであるかを理解している。
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夕暮れと共に、空気はさらに重苦しさを増していた。
まず、食糧配給制度を再編した。従来は名家ごとに管理していたが、これを区域別に変更し、公平性を確保した。同時に、配給担当者をラビエヌスの自警団から選出し、市民の信頼を得やすくした。
陽が西の山々に沈む頃、市内の士気維持策を実施した。アルケウス長老に依頼し、古老たちによる「英雄譚語り」を広場で開催させた。松明の光が石造りの建物の壁面を照らし出し、集まった市民たちの顔に温かい光を投げかけている。ピケヌム地方の伝説的な戦士たちの物語を語らせ、市民の誇りを喚起する狙いだった。
だが、その一方で俺は密かに長老たちと緊急会合を重ねていた。蝋燭の炎だけが揺らめく薄暗い部屋で、現実的な話し合いが続いた。
今夜の会議は異例中の異例だった。既に十七名家で無血開城の方針は正式決議されており、使節団のメンバーも任命されている。アルケウス・マクシムス、クイントゥス・ピナリウス・フラクス、マギウス・ルフス、セルウィリウス・アヒラ、ユニウス・ブルータス——この五名による使節団派遣の時期と条件については、アルケウス長老に一任されていた。
しかし、彼らは慎重すぎた。
「準備不足で交渉に臨めば不利になる」
「もう少し情報収集を」
「条件をより詳細に検討すべきだ」
——こうした議論を繰り返すばかりで、具体的な行動に移ろうとしない。
ウィダキリウスの戦死という決定的な情報により、状況が急変したことを理解させる必要があった。
「アルケウス殿。ウィダキリウスの死により同盟市全体の戦況が大きく変化しています。この機を逃せばストラボ将軍の交渉姿勢も硬化する可能性があるでしょう」
俺は緊急性を強調したが、使節団メンバーでもあるピナリウス・フラクスが、商人らしい現実的な計算を述べた。
「確かに、戦局の変化は交渉条件にも影響する。ストラボが圧倒的優位に立てば、我々の提示できる条件も限定的になるだろう」
同じく使節団メンバーのマギウス・ルフスが軍事的観点から補足した。
「ウィダキリウスの死により、北部戦線の同盟市軍は完全に瓦解した。ストラボにとって、もはやアスクルムとの交渉は『必要』ではなく『選択肢の一つ』に過ぎなくなる」
アルケウス長老は深く考え込んでいた。彼の判断がアスクルムの運命を左右する。
「しかし、あまりに性急な行動は、準備不足を露呈する危険もある」
「それでも準備に時間をかけすぎて、交渉の機会そのものを失うリスクの方が大きいのではないでしょうか」
俺も食い下がる。この緊急密議の最大の意味は正式な十七名家会議を開く時間的余裕がないことだった。使節団メンバー以外にも、カエシウス・セウェルスのような影響力のある当主の意見を聞く必要があったのである。
そのカエシウス・セウェルスは、軍人らしい現実的な判断を下した。
「ティトゥス殿の分析は正しい。多くの戦場を経験してきたが、戦況の変化に応じて迅速に行動することこそ、勝利への道だ」
元百人隊長としての軍事経験に基づく彼の発言は、この緊急密議に重い説得力をもたらした。使節団メンバーたちにとってもカエシウスの軍事的権威は無視できない。
俺の胸の奥では複雑な感情がざわめいていた。十七名家の正式な手続きを踏まずに、このような重大な決定を下すことの是非。しかし、ローマ軍の包囲という現実が、そうした理想的な民主的手続きを許さない。
責任の重圧が、肩にずしりとのしかかってくる。この決断が間違っていれば、数千の市民が命を失うことになる。ラビエヌスも、師範も、黒章隊のメンバーたちも、皆が危険にさらされる。
「使節団の派遣時期を前倒しする件について、決を採りたい」アルケウスが重い口調で宣言した。
「早急な派遣に賛成の方は?」
使節団メンバー全員の手が上がった。カエシウスも賛成を表明する。
「全員一致で可決。使節団は早急にストラボ将軍との交渉に臨む準備を整える」
深夜になってようやく合意に達したが、まだ具体的な実行計画は決まっていない。長老たちは原則論では一致したものの、実際の行動については依然として慎重だった。
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夜になり、街の一角にある染物屋の裏手へ向かった。月明かりが石畳の道を青白く照らし、足音だけが静寂を破っている。そこにはホシウスが待っていた。
「ストラボ軍の動向について、詳しく聞かせてくれ」
「将軍本人は包囲完成後、積極的な攻勢に出る様子はありません。しかし、配下の将校たちの間で『早期決着』を求める声が高まっているとの情報があります」
やはりそうか。ウィダキリウスの死により、ローマ軍内部でも戦略の見直しが始まっている。
「他に気になる動きは?」
「西門の守備兵の中に、ローマと通じている者がいるようです。情報を漏らしている可能性があります」
「分かった。派手な動きは避けろ。……その件は、俺が処理する」
翌朝、俺はラビエヌスを通じて黒章隊に指示を出し、穏便な形で問題の守備兵を拘束させた。表沙汰にはしない。火種は早めに摘む。今は騒動を起こすこと自体が、毒だ。
ただ問題はもう他にも発生していた。朝の冷たい空気の中、新たな報告が舞い込んできたのだ。好戦派の一部が、夜陰に紛れて武器を携え集会を開いているという情報だった。彼らは市議会の決定に関わらず、独自の武力行動を画策していた。そこでラビエヌスに直接指示を下すことにする。
「君が止めるしかない。自警団の隊長として、堂々と行動してほしい」
「殴ってでもいいのか?」
「いや……できれば殴るな。剣ではなく言葉で市民の尊厳を守るのは、君の役目だ」
ラビエヌスは驚いたように眉を上げたが、彼は頷いていた。
そしてその夜、ラビエヌスは自警団を引き連れて集会の現場へ向かった。秋の夜は早く、街に闇が深く降りていた。十数名の若者たちが武器を手にしていた。彼らの前にラビエヌスが立ちはだかる。
「退け。ローマ兵を殺して、誰が得をする?」
「お前、クリスプスの犬か!」
「いや、おれはティトゥスの"友"だ。だからこそ言う。今ここで暴れれば、ティトゥスの描いた計画はすべて無駄になる」
「……無血で勝てるはずがないだろう!」
「だからこそ、やるんだ!」
沈黙が走った。彼らの多くは、内心で敗北を悟っていた。ただ、認めたくなかっただけだ。
この時のラビエヌスの様子を、後に目撃者の一人が俺に語ってくれた。
「ラビエヌス殿は、まるで戦場の将のようでした。声を荒げることもなく、しかし誰も逆らえない威厳がありました」
確かに、ラビエヌスにはそういう資質があった。生まれながらの戦士であり、指導者でもある。だからこそ、俺は彼を信頼していた。
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深夜、商会でラビエヌスと会った。額に汗を滲ませ、吐息も荒い。夜露が彼の髪を濡らし、疲労の色が濃く表れていた。
十月の夜気は肌を刺すように冷たく、彼の息が白く宙に舞っている。街の向こうではローマ軍の篝火が規則正しく燃え続け、包囲の現実を絶え間なく突きつけてくる。
「何とか止めたよ。誰も殴らず、剣も抜かずにな」
「ありがとう。……君は、やっぱり、信じられる男だ」
ラビエヌスは疲れた表情で腰を下ろした。月明かりが彼の横顔を照らし出すと、普段の快活さとは異なる、何か重いものを背負ったような影が見えた。
「俺はな、ティトゥス……」
彼が口を開くまでに、少し間があった。まるで言葉を選んでいるかのように。
「お前ほど器用じゃない。頭も良くないし、先のことを考えるのも苦手だ。でも、どうしても、お前を信じたくなるんだよ」
その言葉には、彼なりの苦悩が込められていた。理屈では理解できないことでも、友情だけを頼りに行動する——それがラビエヌスという男の本質なのだろう。
俺は彼に、自分の決意を伝えることにした。
「ラビエヌス。俺は明日から、より積極的に動く。長老たちは慎重すぎる。このままでは本当に手遅れになる」
「どういう意味だ?」
「使節団の準備は整っているが実際の行動に移すには時間がかかりすぎる。だから俺は別のルートでストラボ将軍にアプローチしてみる」
「それは……危険じゃないか?」
「危険だ。でも、今行動しなければ、もっと危険なことになる」
ラビエヌスは長い間沈黙していたが、やがて、重々しく口を開いた。
「ティトゥス。俺には、お前のやろうとしていることの詳細は分からない。でも、一つだけ言っておく」
「何だ?」
「もし何かあったら、俺は俺なりの方法で街を守る。お前を、そしてこの街を」
その言葉に込められた決意の重さを感じ取った。ラビエヌスもまた、自分なりに覚悟を固めているのだ。
「君の師範なら、きっとこう言うと思う。『真の戦士は、何を守るべきかを見極める者だ』って」
「そうかな」
「間違いない。君は今夜、本当に大切なものを守ったんだ。この街の人たちを、そして俺たちの友情を」
ラビエヌスは少し驚いたような顔をした。
「友情を、か。そんな大げさな……」
「大げさじゃない。君がいなければ、俺はただの小賢しい子供でしかない。君がいるから、俺も人間らしくいられる」
「ティトゥス」ラビエヌスが俺の言葉を遮った。
「お前は難しく考えすぎなんだよ。俺には政治も駆け引きも分からない。でも確信してることがある」
「何だ?」
「お前は、絶対にこの街を裏切らない。俺たちを裏切らない。だから俺は、お前についていく。それだけだ」
——友
その単純で、それゆえに重い言葉が、俺の心に深く刻まれた。窓の外では夜明け前の静寂が街を包み、新たな一日の始まりを静かに告げていた。東の空には、まだ見えないが、やがて太陽が昇り、俺の新たな計画が始動する日が来ようとしている。
明日から俺は長老たちとは別に独自のルートでストラボ将軍への働きかけを開始する。時間はもうない。アスクルムを救うため、最後の賭けに出る時が来たのだ。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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