第58話『長い冬の始まり』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十二月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
年末が近づいた頃、市の穀倉庫の視察が行われた。アスクルムの食料備蓄状況を正確に把握する必要があったからだ。
穀倉庫は城壁内の北側にある石造りの建物で、厚い壁と頑丈な扉は攻撃にも耐えられる設計になっている。
管理責任者のマルクス・テレンティウス老人が案内を申し出てくれた。
「現在の備蓄量は小麦2万モディウスですな」帳簿を確認しながらの報告だった。
「計算上は三ヵ月分の量ですが……」
「……『しかし』があるのですね?」
「はい。この計算は平時の消費量に基づいています。戦時下では状況が変わります」
包囲戦になれば、食料の消費パターンは大きく変化する。備蓄総量と消費のギャップをできるだけ小さくしなければならない。
「具体的には?」
「まず、避難民の流入があります。周辺農村からアスクルム城内に避難してくる人々の分も考慮せねばなりません」
「どの程度の人数を想定していますか?」
「最大で3000人程度でしょう。すると実質的な消費人口は1万5000人となります」
テレンティウスの数字を頭の中で組み立て直してみると、より厳しい現実が浮かび上がってくる。 2万モディウスを1万5000人で消費すれば、約1.3モディウス/人。これは約4か月分に相当するはずだ……計算は合っているだろうか。
テレンティウスが急に手を止め、まじまじとこちらを見つめてきた。その眼差しには明らかな困惑が宿っている。
「……失礼ですが、ティトゥス様。今のお話、全てご理解いただけましたか?」
「はい。避難民3000人を含めた総人口1万5000人で、備蓄2万モディウスを消費すると、一人当たり約1.33モディウス。これは約4か月分の計算になります」
老人の口が半開きになった。しばらく言葉を失っていたが、やがて感嘆の息を漏らす。
「……恐れ入りました。私はこれまで多くの商人とお付き合いしてきましたが、十歳でこれほど複雑な兵站計算を即座に理解される方は初めてです。まさに天賦の才と申すべきでしょう」
どうやらテレンティウスは、単なる商人の息子だと思っていたらしい。
「更に問題なのは」老人が改めて気を取り直して続けた。
「戦時下では食料以外の用途も増えることです」
「と言いますと?」
「軍馬の飼料、傷病者への追加配給、……そして心理的な要因による過食です」
最後の点は特に重要である。恐怖や不安が食欲に与える影響は予想以上に大きい。これは本能に基づくものである以上、どうすることもできない。
「結論として、実質的には約三ヶ月分の備蓄と考えるべきでしょう」
三ヶ月――これは決して十分な期間ではない。
「備蓄の増強は可能ですか?」
「困難です。既に価格が高騰しており、大量購入すれば更なる価格上昇を招きます」
「クリスプス商会の備蓄を考慮に入れてはいかがでしょうか?」
「商会の分を合わせても、せいぜい一ヶ月分の延長が限界でしょう」
つまり、最大でも四ヶ月程度の籠城しかできないということだ。ローマ軍が長期包囲戦術を取れば、アスクルムは食料不足で降伏を余儀なくされる。
「節約による延命効果は?」
「配給制を導入すれば、二、三ヶ月の延長は可能です。しかし市民の健康状態と士気に深刻な影響を与えます」
テレンティウスの言葉に、しばらく考え込まざるを得なかった。軍事的な抵抗力と市民の生活—両方を維持することの困難さが改めて浮き彫りになったからだ。
現実はそう甘くはない……。
穀倉庫を出た後、重い気持ちで商会に戻る。現実は想像以上に厳しい。アスクルムが長期間の包囲に耐えることは、事実上ほぼ不可能だった。
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年末も押し迫った頃、市長老会から緊急招集がかかった。十七名家の代表者と主要市民が参加する、重要な会議だった。
商人代表として出席することになった。会場は市庁舎の大会議室で、暖炉の火だけが部屋を照らしている。外では吹雪が窓を叩いていた。
アルケウス長老が議事を開始した。
「諸君、本日お集まりいただいたのは、アスクルムの食料備蓄について重要な決定を行うためです」
重々しく響く声だった。
「管理責任者テレンティウス殿から詳細な報告をお聞きください」
テレンティウス老人が立ち上がり、先日直接聞いていたのと同じ、備蓄食料に関する内容を報告し始めた。話が進むにつれ、参加者の顔が次第に青ざめていくのがよくわかる。二ヶ月前には同じ顔をしていたのだろう……とちょっと冷静になれた。
「つまり」
カエシウス・セウェルス(反ローマ派第2位)が厳しい口調で言った。「我々は4か月程度しか籠城できないということか」
「最悪の場合はそうなります」テレンティウス老人が答えた。
「それでは話にならん!」ウァレリウス・マルクス(反ローマ派第5位)が立ち上がった。
「ローマと戦うなど不可能ではないか」
会議室に動揺が広がった。反ローマ派の名家当主でさえ、兵站という軍事的現実の前には動揺を隠せない。腹が減っては戦ができぬは、古今東西万国共通である。
「冷静になってください」セルウィリウス・アヒラ(親ローマ派第9位)が発言した。
「だからこそ、外交による解決が重要なのです」
「外交?」マギウス・ルフス(反ローマ派第4位)が冷笑した。
「ローマが聞く耳を持つと思うのか?」
「持たせることが政治家の仕事でしょう」アエミリウス・パウルス(親ローマ派第10位)が反論する。
その通りなのだが、その策を見つけ実行することがどれほど難しいか……。
議論が白熱する中、ピナリウス・フラクス(中立派第3位)が実務的な提案をし始める。
「諸君、理想論より現実的な対策を考えませんか?」
「具体的には?」アルケウスが尋ねてきた。
「市民への配給制度です。早期に実施すれば、備蓄の延命効果が期待できます」
これに対して、アントニウス・ヒュブリダ(親ローマ派第14位)が職人組合の立場から発言した。
「配給制は市民の労働意欲を削ぎます。職人たちのモラルに悪影響を与えるでしょう」
「しかし生存が最優先です」スルピキウス・ガルバ(親ローマ派第15位)が農民代表として同調した。
各名家の主張が激しく交錯する中、黙って様子を窺っていたが、ついに沈黙を破る時が来たと判断した。商人の立場から、この議論に新たな視点を提供しなければならない。
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「議長、商人代表として発言させてください」
その瞬間、会議室の空気が変わった。アルケウス長老は頷いたが、周囲の反応は複雑だった。
カエシウス・セウェルス(第2位)は露骨に眉をひそめ、「商人風情が」という表情を隠そうともしない。
一方、アントニウス・ヒュブリダ(第14位)は興味深そうに身を乗り出した。職人組合代表として、商業の実情を知る者の意見に期待しているようだ。
中立派のピナリウス・フラクス(第3位)は無表情を保っているが、その視線は鋭い。カピトの一件の際、ファーストコンタクトした時と同じ顔をしている。実務派として、商人の現実的な提案を値踏みしているのだろう。
親ローマ派のセルウィリウス・アヒラ(第9位)は微かに頷いているが、それが賛意なのか単なる儀礼なのか判然としない。
最も興味深いのは、下位名家の反応だった。十七名家の序列では商人など論外の存在だが、クリスプス商会の経済力と情報網は無視できないからな。
彼らの顔には困惑と計算が混在している。二ヶ月前の一体感は完全に消え失せ、今や各々の利害が剥き出しになっている。
「現在の備蓄状況では、確かに長期間の籠城は困難です。しかし問題は単純に食料不足だけではありません」
席から立ち上がると、会議室に漂う緊張した空気が肌に触れるようだった。視線を巡らせば期待と不安、敵意と計算が入り混じった表情が浮かんでいる。特にカエシウス・セウェルスの視線は氷のように冷たく、『商人の倅に何が分かる』と言いたげだった。
「配給制度の導入には、市民の心理的影響を慎重に考慮する必要があります。食料制限は恐怖心を増大させ、内部分裂を招く可能性があります」
『内部分裂』という言葉が会議室に響くと、各名家の表情が微妙に変化した。反ローマ派のマギウス・ルフス(第4位)とウァレリウス・マルクス(第5位)が意味ありげな視線を交わす。彼らにとって内部分裂は、ローマに対する抵抗を弱める最大の脅威だった。
一方、親ローマ派のアエミリウス・パウルス(第10位)は小さく頷いている。統一された指導力こそが危機を乗り越える鍵だと理解しているのだろう。
「つまり、配給制度は諸刃の剣だと?」中立派のユニウス・ブルータス(第7位)が身を乗り出した。
その通りだ。食料制限は生存に直結する一方で、市民感情の分裂も招きかねない。各名家は自らの政治的立場と照らし合わせ、この提案の意味を測りかねているようだった。
参加者の多くが言葉に注意を向ける。やはり内部分裂、という言葉は刺激的だったか。
「しかし同時に、配給制度は市民の結束を強化する効果もあります。『共に困難を乗り越える』という連帯感の醸成です」
「具体的にはどうすれば?」ユニウス・ブルータス(中立派第7位)が尋ねた。
「段階的な導入です。いきなり厳しい制限を課すのではなく、『節約キャンペーン』から始める。市民の自発的な協力を促すのです」
「一割の節約で足りるのか?」老議員の一人が震える手を挙げた。
「一割で足りなければ、二割、三割と段階的に強化していきます。しかし最初から厳しい制限を課せば、市民の反発を招くでしょう」
「では、最終的には武力に頼るしかないということか?」別の議員が質問した。
深く息を吸い込むと、胸の奥で決意が固まっていくのを感じた。この瞬間こそが、アスクルムの運命を左右する正念場なのだ。
「食料が尽きれば、どれほど武器があっても兵士は戦えません。飢えた市民に武器を持たせても、ローマ軍には勝てないでしょう」
会議室に重い沈黙が訪れた。その言葉の現実味を誰もが理解していた。兵站こそが戦争の生命線であり、アスクルムの命運を握っているのだ。
アルケウスが投票を提案した。
「それでは、段階的配給制度の導入について決を採る」
結果は賛成十三、反対四だった。
拍手は控えめだったが、アスクルムの生存のための重要な第一歩が踏み出された。
会議を終えて商会へ向かう足取りは、決議の重要性とは裏腹に重く沈んでいた。配給制度の導入は決まったものの、それだけでは戦争の足音を止めることはできない。街を血で汚さないための最後の数字が決まったが、これだけで戦争を回避できるわけではない。
真の戦いは、これから始まるのだ。
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年が明ける前夜、商会の屋上で星空を見上げていた。雪が止み澄み切った夜空に無数の星が輝いている。するとそこへデモステネスとソフィアが俺を探しにやってきた。すっかり行動パターンが読まれているな。やれやれ。
「ティトゥス様、風邪を引かれますよ。これを羽織ってくださいね」ソフィアが毛皮のマントを持参していた。
「ありがとう、ソフィア」
ソフィアが差し出すマントを受け取りながら、二人の忠実な眼差しに支えられているのを改めて実感する。
しばらく黙って夜空を見上げていた。
見上げた夜空に散らばる星々が、まるでアスクルムの未来を占うかのように瞬いている。
意を決して、しかし重苦しくならないように注意し、二人に声をかけた。
「来年の方針を伝える。まず情報収集の強化だ。特にストラボの動向は最優先で追跡する」
「全支店の人員を総動員しますか?」デモステネスが真剣な表情で頷いた。
「その通りだ。クリスプス商会の全精力を注ぎ込むつもりだ。そして同時に、アスクルム内部の結束も図らねばならない。十七名家の分裂は深刻だが、諦めるわけにはいかない」
「具体的にはどうされるのです?」ソフィアが尋ねた。
「情報格差の解消だ。我々が持つ情報を、適切に各名家と共有する。机上の空論を現実的な判断に変えるのだ」
デモステネスが頷くのを見て、言葉を続ける。
「具体的な準備も進めなければならない。まず、ブリンディシウムとタラントゥムの支店に緊急時の資産移転計画を指示する。戦火が広がれば、アスクルム単体では持ちこたえられない」
「逃げる準備、ということですか?」ソフィアが眉をひそめた。
「逃げるためではない。アスクルムを守るためだ。商会の資産と情報網を分散させ、どんな状況でも市民を支援できる体制を作る。そして……」
少し言葉を選びながらもきっぱりとした口調で続けた。
「ローマ側との接触ルートも確保しておく必要がある。戦いを避けるため、あらゆる手段を用意しておくのだ」
「それは……非常に危険な綱渡りですね」デモステネスが鋭い視線を向ける。
「だからこそ、信頼できる君たちと事前に計画を立てておきたい。来年三月までに、各名家との個別会談も必要だろう。分裂を修復するには、一対一の対話が不可欠だ」
来る前90年はアスクルムの運命を決する年となる。同盟市戦争の本格化、ストラボの侵攻、そして包囲戦—すべてが待ち受けているだろう。場合により、それが複数年続く可能性あるのだ。気を抜くことはできない。
「そして最も重要なのは……市民の生活を守ることだ。戦争が始まっても、人々が希望を失わないよう支え抜く。絶対に守り抜く」
遠くで新年を告げる鐘が鳴り始めた。前90年の始まりだ。『絶対に守り抜く』という言葉が唇から漏れると、それは単なる決意ではなく、祈りにも似た重い誓いとなって夜空に響いた。
アスクルムの長い冬が、ついに始まろうとしていた。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(兵糧、兵站、戦略物資‥‥‥言い方は様々ですが、とにかく飯がなければ戦は出来ぬ、と申します。これは普遍の真理、ですね)
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