第54話『束の間の平穏』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
翌日の朝、俺は市場を歩いていた。
朝の清々しい空気に混じって、焼きたてのパンの香りと魚の匂いが鼻をくすぐる。石畳に響く荷車の音や商人たちの呼び声が、いつもの活気を取り戻している。
しかし、よく耳を澄ませば、そこかしこでセルウィリウスの話題が聞こえてくる。彼の来訪は市民の間でも大きな話題となっており、様々な反応が見られる。
「若旦那のおかげで、何事もなく終わりましたねぇ。それにしてもあれほどの集会は初めて、でびっくりしましたよ」
八百屋の老婆が安堵の表情で言った。彼女の顔に浮かんだ心からの笑顔を見ていると、昨日の緊張が嘘のように思える。俺自身も、その安堵感に少しだけ救われた気持ちになった。
「本当に良かったです。これで安心して商売ができます」と、隣で野菜を並べていた中年の男性が相槌を打った。
「ティトゥス様のお陰で、子供たちも安心して外で遊べますよ」若い母親が幼い娘の手を引きながら、感謝の眼差しを向けてくる。
一方で、別の声も聞こえてくる。
「でも、これで本当に解決したのかね?」
「ウィダキリウス様は怒っておられるようだが」
肉屋の主人が低い声で呟くと、周囲の客たちがざわめいた。
「ローマがまた使者を送ってきたらどうするんだ?」
「今度はもっと厳しい相手が来るかもしれないぞ」そんな不安の声も混じっている。
市民の反応は分かれているが、少なくとも暴動や混乱は避けることができた。それだけでも大きな成果だ。昨日の緊迫した状況を思い返せば、これほど平穏な朝を迎えられたことは奇跡に近い。
俺の知る歴史では、この時期のイタリア各地で血なまぐさい衝突が頻発していた。アスクルムはその最たるもので、法務官セルウィリウスと副官フォンテイウスは殺され、ローマ人の住民も一緒に虐殺されていたはずだった。
しかし今、目の前には普通に商売を営み、子供たちが笑い声を上げて走り回る光景が広がっている。少なくとも今日一日は、この街に平和が保たれている。
その時、ラビエヌスが俺の姿を見つけたのか、真っすぐに駆け寄ってきた。
「ティトゥス、聞いてくれ!」
息を切らしながら近づく彼の様子に、俺の胸に嫌な予感が走った。
「どうした?」
「昨夜、ウィダキリウス派の一部が秘密会議を開いたらしい」
「何を話し合っていたんだ?」俺は思わず身を乗り出していた。
「詳しくはわからないが、『次の手段』について議論していたとか」
それは穏やかな話ではないな。ラビエヌスの表情がかなり険しくなっている。恐らく、政治的手段で失敗した彼らは、より過激な方法を検討しているのだろう。
「引き続き監視を続けてくれ。何か動きがあったら、すぐに知らせてほしい」
俺は彼の肩に手を置き、真剣な眼差しを向けた。
「わかった」
ラビエヌスは力強く頷くと、足早に去っていった。その後ろ姿からも緊張感が伝わってくる。思わず溜息をついてしまう。平和は束の間のものかもしれない。
市場から戻る途中、街の様子を改めて見回してみる。商人たちは普段通りに商売をしているが、今度はどこか落ち着かない空気が漂っているように見えてきた。現金なものだな。昨日の出来事が尾を引いているのは明らかで、ラビエヌスに会う前は見落としていたらしい。
『人間ならば誰にでも、現実のすべてが見えるわけではない。 多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』だったか、カエサルの言葉は。あいつはローマで元気にやっているのだろうか。
石畳の道を歩きながら、俺の頭の中では様々な可能性がぐるぐると回っていた。
ウィダキリウス派の動向、セルウィリウスの報復、そして迫り来る戦争の影――。午前中の市民との会話で得た安堵感も、ラビエヌスの報告によって一気に吹き飛んでしまった。屋敷に戻る頃には、陽射しも傾き始め、街に長い影が落ちていた。
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その日の午後、執務室で羊皮紙に向かっていると、使用人が慌ただしく駆け込んできた。
「若旦那様、マルシ族の人質の方がお会いしたいと申しております」
一瞬手を止めて、その子の顔をまじまじと見つめてしまった。ルキウス・マルスクスが自ら面会を求めてくるとは珍しい。
これまで彼は必要最低限のやり取り以外は控えめで、積極的に話しかけてくることはなかった。何か重要な話があるのだろうか。『通してくれ』と答えると、間もなく彼の姿が現れた。
いつもより表情が引き締まって見える。扉が閉まると、部屋には静寂が訪れた。
「ティトゥス殿、お話があります」
彼の声は以前より落ち着いていた。何かを決意したような、静かだが芯の通った口調だった。
「何でしょうか?」
「昨日のセルウィリウス殿とのやり取り、お見事でした」
正直、驚いた。彼がそのような評価をするとは思わなかった。敵対する部族の人質が、俺の対応を評価するなど想像もしていなかった。リクトルから聞いたのだろうか。
「あなたは冷静に、そして論理的に対応されたようだ。また感情に流されることなく、事実に基づいて行動された」
「ありがとうございます」
「しかし、問題はこれからです」
「どういう意味ですか?」
「マルシ族の間では、戦争の準備が進んでいます。アスクルムが今、平和を保つことができても、やがて戦火に巻き込まれるでしょう。私は人質として送られてきましたが、実際には情報収集が目的でした」
彼の表情がみるみる曇っていく。彼の話を聞いているうちに、胸に重い石でも詰め込まれたような感覚が広がった。やはりそうだったのか。まぁ、それはそうだよな。こんな時期にやって来ているのだから。
「どのような情報を?」
「アスクルムの戦力、市民の意識、そして指導者の人柄です」
「それで、どのような報告をするつもりですか?」
ルキウス・マルスクスは少し考えてから答える。その間、彼の表情を注意深く観察していた。嘘をつくような顔ではない。
「ティトゥス殿は信頼できる指導者だと報告します。しかし、それが戦争を止めることになるかは分かりません」
彼の正直さに心から感謝の念を抱いた。敵になるかもしれない都市の人間に対して、これほど率直に話してくれる勇気は並大抵のものではない。
「ありがとうございます。正直な話を聞かせていただき、感謝します」
「私も、この街で多くのことを学びました。戦争が始まれば、我らは敵同士になるかもしれませんが、個人的にはあなたを尊敬しています」
彼のその言葉に、俺の胸は複雑な思いで満たされた。戦争は個人の感情など容赦なく踏みにじってしまう。その後の彼との会話も貴重な情報に溢れていた。同時に、戦争が個人的な関係をも破壊することの悲しさを実感させられた。
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夜が更けると、俺の書斎では蝋燭の炎が静かに揺らめいていた。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った屋敷で、俺はデモステネスとソフィアと共に今後の方針について話し合うことにした。重厚な木製のテーブルに羊皮紙を広げ、三人で向き合う。窓の外では虫の声だけが夜の静寂を破っている。
「ルキウス・マルスクスの話を聞く限り、戦争は避けられそうにありませんね。だとすれば、我らも準備を整える必要があります」
「準備って、武器を集めるということですか?」
デモステネスが深いため息と共に重い口調で言った。その表情には、長年の経験から来る深い憂慮が刻まれていた。続いてソフィアが心配そうに身を乗り出しながら尋ねてくる。
俺はその質問に対しては首を横に振ることで答えるが、彼女の表情が晴れないのを見て、もっと詳しく説明しなければと思った。
「武器ではない。もっと根本的な準備だ」
「根本的、と言いますと?」デモステネスがやや眉をひそめながら問い返した。
「この街を守るための、総合的な防衛計画だ。軍事的な面だけでなく、経済的、政治的な面も含めて」
俺は羊皮紙を広げ、アスクルムの地図を描き始めた。二人が真剣な眼差しで見つめる中、ペンを走らせながら考えをまとめていく。
「まず、食料と水の確保。包囲戦になった場合、これらが最も重要になる」
「商会の備蓄庫を拡張し、医薬品を集めましょう」ソフィアが即座に提案してくる。さすがは商会の娘だ。的確な提案をしてくれる。
「それから、市民の結束。内部分裂があれば、外敵に付け込まれる」
「ウィダキリウス派との和解は可能でしょうか?」デモステネスが慎重に切り出した。
「難しいが、試してみる価値はある。少なくとも、彼らが暴走しないよう監視は続ける必要がある」
その後、夜遅くまで防衛計画を練り続けた。
転生者として知っている歴史を変えることは容易じゃないが、可能性がゼロではない限り、諦めるわけにはいかない。
この秋の終わり、アスクルムは重要な分岐点に立っていた。
これからの決断と行動が、この街の運命を決めることになる。人々の命を背負う重さを感じながら、やれることをやっていこう。目立つのは本意ではないが、背に腹は代えられない。
「まぁ、とにかくひとまずはセルウィリウスを凌げたことは確かだ。だが、彼の恨みを買ってしまったことは間違いないだろう。今後はさらに警戒が必要だ」
デモステネスはいつものように落ち着いた眼差しを向け、慎重に頷いた。
「その通りです、若様。しかし、今回の一件に関しては、我々は最善を尽くしました。何よりも市民を守るという目的は達成されました」
彼の口調には、常に礼節が含まれているが、その奥には父親が息子に向けるような温かみが感じられた。それがどこか懐かしく、心をそっと落ち着かせる。
その横で、ソフィアが大きくため息をつきながら呟いた。
「あのセルウィリウスがもう私に近寄らないことを心底願います。本当に、気持ちの悪い人でした……」
その率直な言葉に、思わず微笑んだ。彼女の気持ちは十分に理解できる。彼女の肩にそっと手を置き、力強く告げた。
「心配するな、ソフィア。君のことは必ず俺が守る」
言葉に彼女は一瞬驚いたように目を見開き、それから嬉しそうな微笑みをその秀麗な顔に浮かべた。
「ありがとうございます、ティトゥス様。その言葉を信じております」
場に穏やかな笑いが広がったが、胸には新たな不安が芽生えていた。ふとデモステネスと目が合うと、彼もまた静かに頷いていた。口を開く前に、彼が低い声で言った。
「若様、おそらくセルウィリウスはローマ元老院に対して『アスクルムに謀反の兆しあり』との報告をするでしょう。今回の出来事は確かに未遂で終わりましたが、彼はそれを自分に都合よく利用するはずです」
その考えには同意せざるを得なかった。セルウィリウスのような小心で執念深い男は、確実に報復を狙ってくるだろう。
「その通りだな、デモステネス。彼がローマでどのような報告をするかは容易に想像がつく。おそらく、今回の事件を大袈裟に報告し、次にローマが派遣するのは、より強硬な手段を講じる者だろう」
重い口調で言うと、ソフィアが不安げに眉をひそめた。
「それでは、この街はまたすぐに危険に晒されるということですか?」
「残念だがその可能性は高い。次にやって来るのは、セルウィリウスより遥かに厄介な相手だ。おそらく、ポンペイウス・ストラボだろう」
その名前を口にした瞬間、部屋には沈黙が訪れた。
窓の外の暗い空を見つめながら、内心で決意を固めていた。
――これから起こるであろうポンペイウス・ストラボの包囲戦に備えて、街の防衛策を徹底的に練り直す必要がある。
「デモステネス、ソフィア。これからはさらに厳しい状況になるだろう。しかし決して諦めない。街の人々を守るため、これまで以上に策を練らなければならない」
二人は真剣な眼差しで頷いた。
「もちろんです、若様。我々はあなたと共にあります」
デモステネスの言葉に続いて、ソフィアも力強く同意した。
「どんなことがあろうと、私も最後までお供いたします」
その頼もしい言葉に、心からの感謝を込めて微笑んだ。
外では延期になっていた秋の祭典の焚き火の残り火が静かに揺れている。遠くから聞こえる夜警の規則正しい足音が、街の平穏を物語っている。街はようやく訪れた久方ぶりの静かな夜を満喫しているように見えた。
だが、この静寂がいつまで続くかは分からない。蝋燭の炎が小刻みに震え、机上の地図に踊る影を落としている。三人の顔には決意と不安が入り混じった表情が浮かんでいた。
窓越しに見える星空の下で、この街の運命が静かに動き始めているのを感じていた。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(マルスクス少年の出番は、今後もありそうです)
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