第52話『名家の結束』
ルキウス・マルキウス・ピリップスと セクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十一月初旬、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
「この少年の言う通りだな」
その声の主は、カエシウス・セウェルスだった。室内の空気が微かに動いたのを感じる。それまで重く沈んでいた雰囲気に、わずかな変化の兆しが生まれていた。軍人らしい現実主義が、彼の判断を決めたのだろう。小さな光明が見え始めるかもしれない。カエシウス殿のような実力者が賛同してくれたことで、ようやく風向きが変わり始めたか? だが、まだ油断はできない。
「戦略的撤退は、軍事の基本だ。今は耐え忍び、機会を待つ」
「カエシウス殿が賛成なら……」
一部の当主から賛同の声が出始めたが、全員が即座に同意したわけでもない。しかし、ざわめきの質が変わったのを俺の耳は捉えていた。潮目は変わったか?
「皆待て。商人の小僧の言葉を鵜呑みにするのか? 我々には我々の誇りがある」
ウァレリウス・マルクス(反ローマ派第5位)が立ち上がり、椅子の軋む音が会議室に響いた。俺の背筋に冷たいものが走る。会議室に再び緊張が走った。ウァレリウスは海運業で成り上がった新興勢力だが、その分プライドも高い。やはり来たか……と、心の中で苦笑する。
ウァレリウスのような新興勢力こそ、既得権益を脅かされることを最も恐れている。彼らにとって「誇り」とは、自分たちの地位を正当化する唯一の武器なのだ。
「確かに、ローマの策略は警戒すべきだ。だがそれが事実だとして、我々の屈服が本当に解決策になるのか?」
マギウス・ルフス(反ローマ派第4位)も続いた。彼の鋭い視線が肌を刺すような圧迫感を感じる。まるで槍の穂先を向けられているような圧迫感だ。
「クリスプス殿の分析は理解できる。しかし、一時的な団結で根本的な問題が解決するのか? ローマは最終的に我々を従属させることを諦めはしないだろう」
心臓の鼓動が早くなるのを感じながら、冷静に、努めて冷静に反論した。内心では動揺していたが、ここで感情的になるわけにはいかない。口の中が僅かに乾いているのに気づく。マギウス殿の指摘は的確だった。
……確かに一時しのぎに過ぎないかもしれない。だが、今この瞬間に全てを賭けて負ければ、将来への可能性すら失われてしまう。時には完璧ではない選択でも、生き延びるために必要なのだ。
「マギウス殿、私は屈服を提案しているのではありません。生き延びることを提案しているのです」
「生き延びる? それは奴隷の発想だ。我々には戦うべき理由がある」
「戦って、勝てますか?」
意図的に声のトーンを落とし、冷笑しているウァレリウスを真っ直ぐに見つめた。彼の目に浮かぶ軽蔑の色が、俺の網膜に焼き付く。
「ローマ軍団と戦って、アスクルム市民を守れますか?」
重い沈黙が室内を支配した。まるで鉛のような空気が、俺の肺を圧迫している。誰かが小さく息を呑む音が聞こえた。誰もが、ローマとの軍事的格差を理解している。
その時、意外な人物が口を開いた。
「ウァレリウス殿、マギウス殿」
ファビウス・マクシムス(反ローマ派第11位)だった。驚きで目を見開く。彼の声に込められた意外な力強さを感じ取る。中位名家の彼が、上位家の議論に参加するのは異例だった。
これは予想外の展開だな。ファビウス殿がこのタイミングで発言するということは、中位名家の中にも危機感が広がっているということか。むしろ、上位名家よりも現実的な判断ができる立場にあるのかもしれない。
「我々は理想を語っているが、市民はどう思っているのか? 彼らが望んでいるのは戦争か、それとも平和か?」
ファビウスの指摘に、何人かの当主が考え込んでいる。
彼らの表情の変化を順に観察していた。眉間に刻まれる皺、僅かに下がる視線、握りしめられる拳。
「市民の生活を第一に考えるべきです。職人たちは戦争を恐れています。家族を守りたいと願っています」
アントニウス・ヒュブリダ(親ローマ派第14位)が職人組合の代表として発言した。彼の声には、現場を知る者の実感がこもっていた。
「農民も同じです。彼らが求めているのは安定した暮らしです」
スルピキウス・ガルバ(親ローマ派第15位)が続いた。
反ローマ派の上位当主たちの顔に浮かんだ動揺の色がはっきりと見えた気がする。ウァレリウスの頬の筋肉が僅かに痙攣し、マギウスは唇を薄く結んでいる。民衆の声を軽視するわけにはいかない。今がチャンスだった。理想論だけでは民衆を説得できないことを、彼らも理解し始めている。
政治とは結局のところ、人々の生活に直結する現実的な選択の連続なのだ。俺の父が常々言っていた「商売の基本は顧客の求めるものを提供すること」という言葉が頭をよぎる。
「しかし。今回限りの団結で、根本的な解決になるのか?」
ウァレリウスの声に、先ほどまでの強さが失われているのを感じ取った。最後の抵抗のような問いに答える。
「完全な解決にはなりません。しかし、時間を稼ぐことができます。そして、時間があれば、より良い解決策を見つけることができるかもしれません」
「かもしれません?」
マギウスが眉をひそめた。その表情に、僅かな迷いの影を見逃さなかった。
「確実なことはありません。しかし、確実なのは、今戦えば多くの市民が死ぬということです」
長い沈黙の後、ウァレリウスが口を開いた。彼の声には、先ほどまでの攻撃性が消えていた。
「……一時的な、ということか」
「はい。永続的な屈服ではありません。戦略的な一時退却です」
「カエシウス殿の言う通り、戦略的撤退か……」
マギウスも重い口調で言った。彼の肩がわずかに下がるのが見える。緊張が解けた証拠だ。
そして、他の反ローマ派当主たちも、徐々に同意を示し始めた。室内の空気が、明らかに軽くなっていく。心の中で安堵のため息をつく。
議論はもう十分に尽くされていた。会議室を見回し、当主たちの表情を改めて確認する。カエシウス殿は確信に満ちた頷きを見せ、ファビウス殿も静かに同意の意を示している。親ローマ派の当主たちは元々俺の提案に賛成の立場だ。
問題は反ローマ派の上位当主たちだったが、ウァレリウス殿もマギウス殿も、もはや強硬な反対を続ける理由を見出せずにいるようだった。他の反ローマ派当主たちの視線も、次第に俺の提案への理解を示すものへと変わっている。
アルケウス長老は長年の経験で、この微妙な空気の変化を敏感に察知していた。議論が自然な収束点に達したことを見極め、静かに立ち上がった。
「諸君」
アルケウスの声が会議室に響く。
「十分な議論が交わされ各派の意見も出揃ったと思う。ここで、正式にクリスプス殿の提案について決を採ることをお諮りしたいと思うが、いかがか」
長老の提案に、会議室内に小さなざわめきが起こった。だが、それは反対の声ではなく、むしろ「ついにその時が来た」という緊張感を帯びたものだった。深く息を吸い、この重要な瞬間に備えた。
「では、決を採る」
アルケウスが正式に提案した。決を採る瞬間、俺の手のひらは汗ばんでいた。
結果は圧倒的多数での可決だった。反対票はなく、棄権が僅か二票。アスクルム十七名家は、史上初めて完全な結束を見せることになった。勝った。いや、まだ勝利ではない。これは始まりに過ぎない。だが、少なくとも最悪の事態は回避できた。俺の提案が、これほど多くの支持を得られるとは思っていなかった。父が聞いていたら、何と言っただろうか。きっと「まずは上出来だ」と言ってくれるに違いない。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。胸の奥で、安堵と緊張が入り混じっていた。全身の力が一気に抜けていくのを感じる。
「この決断が、アスクルムの未来を救うでしょう」
会議が終わり、当主たちが三々五々と帰途についた後、俺の耳に残ったのは静寂だけだった。アルケウス長老が肩に手を置いた。その温かさが、疲れ切った俺の身体に染み渡る。
「よくやった。ティトゥス、若きクリスプスよ」
「まだ終わったわけではありません。明日が本番です」
「そうだな。しかし、今夜で君は真の政治家になった」
長老が優しく微笑んでくれた。
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アルケウス長老の屋敷を後にし、石畳の道を歩いて自宅へ向かう。夜明け前のアスクルムは静寂に包まれ、家々の窓には蝋燭の灯りがちらほらと見える。商人や職人たちも、今頃は明日への不安と希望を胸に眠りについているだろう。俺の足音だけが石畳に響く。重い扉を開けて屋敷に入り、使用人たちが眠る中、そっと書斎へ向かった。
窓の外を見つめると、東の空が僅かに明るくなり始めていた。冷たい夜気が頬を撫でていく。政治家か。今夜の経験で、俺は多くのことを学んだ。
人を動かすのは、正論だけでは不十分だということ。
相手の立場や感情を理解し、それに寄り添うように話すことの重要性。
そして何より、完璧な解決策などなくても、最善を尽くして前に進むことの大切さを。
日本のサラリーマン時代の経験と父から受け継いだ商人の知恵が、こんな形で政治の世界に活かされるとは思いもしなかった。
だが、最も大きな変化は、俺自身の意識だった。これまでは漠然と家業を継ぐことしか考えていなかった。カエサルを救いたいと思っていたが、具体的な中身はこれっぽっちも考えていなかった。しかし今や、一つの都市国家の命運に関わる立場だ。恐ろしくもあるが、同時にこの上ない責任感と使命感が胸に宿っている。
ウァレリウス殿やマギウス殿の表情が変わった瞬間、俺の言葉が確実に人の心を動かしたのを感じた。言葉には、本当に世界を変える力がある。
明日からは、もう後戻りはできない。ローマとの交渉、市民への説明、そして長期的な戦略の構築。全てが俺の双肩にかかっている。不安がないと言えば嘘になるが、今夜の成功が俺に自信を与えてくれた。父なら「商売は信頼関係から始まる」と言うだろう。政治もまた、人と人との信頼関係なのかもしれない。そして俺は今夜、アスクルムの人々の信頼を勝ち得たのだ。
あと数時間。
足に残る疲労感を感じながら、最後の準備を整えるため、屋敷に向かった。アスクルムの命運をかけた戦いが、ついに始まろうとしていた。
俺の心臓は、まだ興奮の余韻で高鳴り続けている。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(人を動かすための苦労……いつの時代も一緒ですね)
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