第33話『ドルースス事件の余波』
ルキウス・マルキウス・ピリップスとセクストゥス・ユリウス・カエサルが執政官の年(紀元前91年)十月、ピケヌム地方アスクルム市内、ティトゥス
いつもは素焼きのオイルランプで済ませている書斎に、この夜は珍しく蜜蝋の蝋燭が持ち込まれた。ほの白い炎が机上の文書に陰影を落とし、微かな甘い香りが静けさに溶けていく。
市議会での証言を行った後、平和裏に行う外交という難問を具体化するための施策を考えていた。やはり武力による裏付けのない外交は弱い。相手に交渉のテーブルにつかせる強制力がないためだ。相手の望みを徹底的に調べ、互いに利をもたらすしか施策はない。 しかし今のローマに対し、どう働きかけるかに、頭を悩ませていた。
静かな夜が更けて行く中、くるくると部屋の中を歩き回る。昔から考えごとをするときは歩いていたっけな、と最近ではあまり思い出さなくなっていた日本での癖が出ていることに気付き、思わず苦笑いを漏らしてしまう。
あの時だってここまで切迫したことはなかった。行きつ戻りつしながら、そんなたわいもないことを頭に浮かべていると、急に扉が勢いよく開かれた。
その大きな音に合わせるように扉に顔を向ける。そこには息を切らして駆け込んできたデモステネスがいた。普段の冷静沈着な彼からは想像もできない、蒼白な表情を浮かべている。
「若様」デモステネスの声が普段の落ち着いた調子を失っていた。
「申し訳ございません、夜分遅くに。しかし、これは……」
彼の手にある書状の蝋封は既に破られており、急いで読んだ形跡があった。彼ほどの男が動揺を隠せずにいるということは——。
「デモステネス、落ち着いて。まず、この情報はどこから?」
「アッピウス商会です」彼は深く息を吸ってから続けた。
「支店長のマルクスが直接書いたものです。彼とは長年の付き合いですから、信憑性に疑いはありません。それだけに、この内容が……」
言葉を濁すデモステネスの表情が、事態の深刻さを物語っていた。
羊皮紙に記された文字を目で追うにつれ、指先から震えが始まった。書状を持つ手が小刻みに揺れ、文字が踊るように見える。
『護民官マルクス・リウィウス・ドルースス、九月二十八日、自邸前にて暗殺される。犯人不明。ローマ市内混乱。』
喉の奥が乾き、息が浅くなる。知っていた。歴史の記憶として知っていた出来事だ。それでも——いや、だからこそ——現実として突きつけられた時の衝撃は想像を超えていた。運命の歯車が、もう後戻りできない方向へと回り始めたのだ。未来を知る者としての重圧が、まるで巨石のように胸の上に圧し掛かってくる。
記憶する歴史の流れでは、この事件こそが同盟市戦争の直接的な引き金となる。護民官ドルーススは同盟市民権付与法案を推進していた唯一の実力者だった。彼の死により、平和的解決の道は完全に閉ざされたのだ。
「他に詳細は?」
「はい」彼は懐から別の書状を取り出した。
「二通目がありました。犯人については諸説あるようですが、確実なのは護民官としての職務中に殺害されたということです」
椅子にもたれかかり目を瞑る。護民官の身体不可侵権を犯すなど、この世界では神々への冒涜に等しい行為だ。これは単なる政治的暗殺ではない。ローマ共和政の根幹を揺るがす大事件である。それを犯すということは、もはや政治的殺人の域を超えている。
「若様」デモステネスが慎重に口を開いた。
「この情報をどこまで拡散させるべきでしょうか?」
これは重要な判断だった。情報の管理次第で、アスクルム市内の反応は大きく変わる。
「まず、ソフィアとアウレリウスにだけ伝えてくれ。それから」言葉を一区切りし、一瞬考え込む。
「君が組織した情報収集網を総動員して、ローマと各同盟市の動向を探れ。特にコルフィニウムとテアテの反応を重視してほしい」
この半年間、デモステネスは俺の指示で特別な情報収集体制を構築していた。表向きはクリスプス商会の販売ネットワークだが、実際は各地の軍事情報から政治動向まで幅広く収集する組織だった。普段は穀物や塩の流通に携わる商人たちが、戦時には貴重な情報源となる。
「承知しました。ただし」デモステネスが慎重に続けた。
「このような緊急事態では、通常の商業ルートも滞りがちです。情報の収集には時間がかかる可能性があります」
「構わない。できる限りでいい。それより重要なのは」立ち上がり、デモステネスの目を覗き込むように伝えた。
「明日の朝一番で、アルケウス長老に報告することだ」
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夜明けと共に街に響く鐘の音で目を覚ますと、昨夜の重苦しい現実が再び胸に蘇った。身支度を整え、石畳の道を急ぎ足で進む。
アスクルムの街はいつもと変わらない雰囲気に包まれていた。ドルースス暗殺の噂は未だ市内に広まってはいないのだろう。市場の商人たちは特に不安げな表情を浮かべているわけではないようだった。
アルケウス長老の邸宅に到着すると老執事に案内されて私室に通される。アルケウスは既に起床しており、難しい表情でこちらを迎え入れた。
「ティトゥス殿、このような早朝に。何かあったのですか?」
書状を差し出す手が僅かに震えている。アルケウスの信頼に満ちた眼差しが、胸に鋭く刺さった。この老人はまっ何も知らない。これから告げる知らせが、彼の希望をどれほど無残に打ち砕くかも知らずに——。
「ローマから」声が掠れそうになるのを必死に抑えた。「重大な報せが届きました」
わずか数行の文章が、一人の人間の表情をこれほどまでに変えてしまうものなのか。アルケウスの顔から血の気が引いていくのを見ながら、自分が運命の使者としてここに立っていることの残酷さを痛感した。歴史を知る者の孤独が、改めて心の奥底に沈み込んでいく。
「これは……」彼の声は震えていた。
「ドルースス殿が? 護民官が暗殺されるなど……」
「神々への冒涜です」重々しく言葉を返した。
「そして、これで同盟市の市民権獲得は絶望的になりました」
アルケウスは長い間沈黙していた。窓の外から聞こえる鳥の鳴き声だけが、重苦しい空気を破っている。
「ティトゥス殿」彼がようやく口を開いた。
「この情報を知っているのは?」
「今のところ、商会の中核メンバーのみです。しかし、間もなく市内全体に広まるでしょう」
「そうですな」アルケウスがため息をついた。
「そして、その時に起こることは……」
そこで生まれる混乱が容易に目に浮かぶ。アルケウスも同じなのだろう。急進派は、"ローマとの対話は無意味"と主張し、武力闘争への道を歩み始めるだろう。穏健派は希望を失い右往左往することになる。
「アルケウス殿、事前に対応策を講じる必要があります」
「どのような?」
「まず、十七名家の緊急会合を開いてください。この情報を統制しつつ、統一的な見解を示すのです」
アルケウスは考え込んだ。
「しかし、あの準家の小倅、パピリウスがそれに従うでしょうか?」
「だからこそ、早急に行動する必要があります。彼らが独自の動きを始める前に、名家としての統一見解を固めるのです」
さらに続けた。
「また、リクトル殿との対話も重要です。彼の理想主義は揺らぐでしょうが、それを建設的な方向に向けることができれば……」
「なるほど」アルケウスの表情が少し明るくなった。「対立を煽るのではなく、まとめる方向に動くと」
「はい。ただし、時間は限られています。この情報が完全に公になる前に、基本方針を固める必要があります」
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長老の邸宅の重厚な扉が背後で閉まる音を聞きながら、足早に商会へと向かった。朝の市場では既に商人たちが品物を並べ始めており、平穏な日常の光景とは裏腹に、胸中では様々な策が駆け巡っていた。
商会に到着すると、デモステネスとソフィアが既に会議の準備を整えて待っていた。
「昨夜から今朝にかけて、どこまで分かった?」
「一晩中走り回った甲斐がありました」デモステネスが苦笑いを浮かべながら答えた。
「ローマでは元老院が緊急招集されています。ただし、あの連中のことですから、責任の押し付け合いに終始している可能性が高いでしょう」
デモステネス特有の辛辣な政治観が顔を覗かせる。
「コルフィニウムの様子はいかがですか?」ソフィアが心配そうに尋ねた。どうやら仲良くなった八百屋の婆さんの故郷がそこに近いらしい。その都市の動向は、優しい彼女にとって他人事ではないようだ。
「残念ながら、君の懸念通りかもしれない」
デモステネスの表情が曇った。
「マルシ族が動き始めている。それも、かなり本格的にだ」
「ポッパエディウス・シロが各部族の代表者との会談を重ねているという情報があります」
背筋に冷たいものが走った。歴史上、シロは同盟市戦争の中心的指導者となる人物だ。彼が動き始めたということは、軍事的対決が現実のものとなりつつあることを意味する。
「テアテはどうだ?」
「サムニウム族も同様です」デモステネスが続けた。
「ただし、各都市の反応には温度差があります。即座に武力闘争に傾くところもあれば、まだ様子見を決め込んでいるところもあります」
「アスクルム市内の反応は?」
「徐々に噂が広まっています」ソフィアが心配そうに答えた。
「特に若者たちの間で、『ローマは我々を裏切った』という感情が高まっています」
やはりか‥‥‥‥内心で頭を抱える。予想通りの反応だとはいえ、これが暴発すれば取り返しのつかないことになる。
「デモステネス、情報収集網に新たな指示を出してくれ。各同盟市の軍事準備の状況、特に武器の調達や兵士の動員について詳しく調べてほしい」
「承知しました。ただし」彼が慎重に言った。
「こうした軍事情報の収集は、より高いリスクを伴います」
「わかっている。だが、今は背に腹は代えられない。戦争の準備がどこまで進んでいるかを把握しなければ、適切な対応ができない」
ソフィアへと視線を向けて指示を出す。
「ソフィア、君には街の人々の声を聞いてもらいたい。君なら市民の本音を引き出せるだろう」
「承知しました、ティトゥス様」ソフィアは一瞬躊躇してから、慎重に口を開いた。
「ところで、ラビエヌスにはお話しされます? 彼は正義感が強すぎるきらいがありますから、この知らせを聞けば、きっと……」
彼女の懸念はもっともだった。ラビエヌスの実直な性格は美徳だが、時として融通の利かなさにもつながる。
「君の心配はよく分かる」顎に手を当てながら考え込んだ。
「確かにラビエヌスの協力は不可欠だが、感情的になられても困る。伝え方を工夫する必要があるな」
「でしたら」ソフィアが良いアイデアを提案してくれた。
「デモステネスから話していただいては? 彼ならラビエヌスも冷静に聞いてくれるでしょうから」
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太陽が中天に達する頃、商会での緊急協議を終えて街の中心部へと足を向けた。噂の広がり方を肌で感じ取るには、人々が最も多く集まる中央広場に身を置くのが一番だった。予想通り、ドルースス暗殺の知らせは既に街中に広まっており、人々の表情は不安と怒りに満ちていた。
「若旦那様」八百屋の婆さんに呼び止められので近づいていく。
「本当なんですか?ローマで護民官様が殺されたって?」
「残念ながら事実のようです」俺は慎重に答えた。
「しかし、まだ詳細は不明な部分も多いのです」
「そんな……」婆さんの顔が曇ったので、優しく婆さんの肩に手を置いた。
「お気持ちはよくわかります。しかし、こういう時こそ冷静になることが大切です」
「でも、若旦那」別の商人が割り込んできた。
「これでローマとの話し合いは終わりでしょう?我々はどうすればいいんです?」
これこそが、最も恐れていた反応だった。市民の間に絶望感が広がれば、急進派の主張に耳を傾ける者が増える。そうなれば制御不能な事態に陥る可能性が高い。
「皆さん」声を張り上げた。
「確かに大きな試練ですが、まだ希望を捨てる必要はありません。アスクルムには知恵と勇気があります。必ず道は見つかります」
しかし、群衆の表情は依然として暗いままだった。言葉だけでは、人々の不安を払拭することはできない。
その時、群衆の向こうからパピリウス・ルクルスの声が聞こえてきた。
「市民諸君! ついにローマの本性が明らかになった!」
パピリウスの声が広場に響いた瞬間、背筋を冷たい汗が伝った。心臓の鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。これは単なる政治的演説ではない——戦争への扉を開く鍵となる言葉だ。
「ドルースス殿の死が何を意味するか、もはや明らかだろう! ローマは我々を対等な存在として認める気など毛頭ない! 奴らにとって我々は永遠に従属民でしかないのだ!」
群衆の一部から上がる賛同の声が、まるで遠雷のように響く。手のひらに汗が滲み、無意識のうちに拳を握りしめていた。歴史の転換点がこうして作られていく様を目の当たりにする恐怖——そして、自分がその只中にいるという現実の重さが、足元の石畳さえも不安定に感じさせる。一歩間違えれば、自分自身もこの狂気の渦がもたらす暴力に飲み込まれてしまうかもしれない。そんな危機感が、全身の神経を研ぎ澄まさせていた。
「今こそ立ち上がるべき時だ! ポッパエディウス・シロ将軍が既に行動を開始している! 我々も遅れをとってはならない!」
パピリウスの演説は巧妙だった。市民の怒りと絶望感を利用し、武力闘争への支持を拡大しようとしている。
その場から離れ急いで商会に戻ることにする。状況は予想以上に深刻だった。
本作品は生成AIを活用しつつ、作者自身の構成・加筆・編集を加えて仕上げた創作小説です。AIとの共創による物語をどうぞご覧ください。
なお作者は著作権法上の問題はないと判断のうえ、投稿を行っております。安心してお楽しみいただければ幸いです。
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(いよいよ歴史が動き始めます。)
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