第五話 朱塗りの記憶⑥
◆◇◆
「嫌な臭い」
「だな。これだけの血の匂いだ。相当酷い事になっているのかも知れない」
人っ子一人居ない、薄暗い廊下を歩く“クリュザンテーメ”と“アーベント”は、最大限の警戒態勢を取っていた。
百鬼 護が開けてくれた結界の穴からショッピングモール内部へ侵入した途端に、血の匂いがして来たのだから。
彼らが警戒しない道理が無かった。
「“アドラー”、聞こえるか? 応答しろ」
「駄目?」
内部に取り残されている筈の仲間へ通信で呼び掛けを試みるものの、応答はない。
クリュザンテーメの短い問い掛けに首肯しながら、“アーベント”は考えを纏めていた。
「聞こえていないのか、それとも応答が出来ないのか……“シュピーゲル”、こちらの通信は届いているか?」
『聞こえている。結界内部の侵入に成功したのか?』
「百鬼組の協力あってこそだ。私達だけでは難しかっただろう」
『……侵入に成功したのは良いが、それ脱出出来るんだろうな?』
通信の向こうから応じる冷静な声は、どこか動揺に似た色を含んでいる。長く敵対して来た相手と停戦しているだけでも、不安要素しか感じられないからだろう。
そんな“シュピーゲル”の心配に対し、“アーベント”は淡々とした態度で応じているのだった。
「それは百鬼組次第だな。向こうが休戦を破棄して来たらどうなるか分からん。その時は私と“クリュザンテーメ”は殺されるかも知れんぞ」
『どうってこと無いように言うな。“ゼー”はどうした?』
「後退させた。後ほど、そっちへ合流する筈だ」
『了解。結界内部はどんな状況だ?』
「人がおらず、電源などが遮断されているせいか薄暗い。それと、濃い血の匂いがする。嫌な匂いだ」
まだ、結界内部に侵入して一分ほど。周囲を警戒しながら進んでいるから、彼らの進みはそれほど早くなかった。
『……穏やかでは無いな。“アドラー”の奴、大丈夫なんだろうな? これだけ苦労させて死んでたら、ただでは置かないぞ』
「死んでしまっていたら、もうどうする事も出来まい」
『身も蓋もない事を言うな』
余りにもばっさりとした発言に、“シュピーゲル”が苦言を呈する。とは言え、状況が状況だ。冗談めかした話題をぶち壊した“アーベント”の言動は、無自覚であったとしても悪くないものである。
そして実際、ふざけてなどいられない状況である事を、“アーベント”達は悟る。
「これは……酷い」
「虐殺?」
「そう言っても差し支えないだろうな」
既に固まりつつある血の池を見下ろして、“アーベント”は眉間に皺を刻む。“クリュザンテーメ”は無表情のまま屈んで、物体の一つを覗き込んでいた。
通話状態のままになっていたシュピーゲルもその遣り取りから只ならぬ気配を感じ取ったか、重い声で問う。
『……何を見付けた、“アーベント”?』
「死体だ。それも夥しい。血の匂いの原因はこれか……」
『そんなに酷いのか?』
確認するような“シュピーゲル”の問い掛けに、“アーベント”は袖口で鼻を押さえながら周囲の状況を確認していたのだった。
「ああ、年齢も性別も関係なく、無造作に殺されている。壁や天井に血が飛び散っているし、抵抗も命乞いも許されなかったのかもしれない。何度も言うが、酷い有様だ」
薄暗い通路を一遍に満たす夥しい屍。天へ向けて助けでも求める様に伸ばされた手は、まだわずかに人であった温もりを保っているらしい。
無数に折り重なっているところもあるだけに、ここに何体の抜け殻が転がっているのか、数えるのすら簡単ではなさそうだった。
「地獄と言っても良いかも知れん」
『……お前がそういうって事は、そうなんだろうな。まさかそれ、“アドラー”がやったとかじゃないよな?』
「奴では無いな。犠牲者は全て鋭利な刃物で斬殺、刺殺されている。“アドラー”の魔法なら他にもやりようがある筈だ」
この虐殺を行ったのは、彼の良く知る人物とは明らかに違っていると、“アーベント”は瞬時に判断した。
金属魔法の使い手である“アドラー”が、刃物だけで致命傷だけを与え続けるという非効率な真似をする筈がないからである。そうでなくとも、彼がこんな事を仕出かす理由がない。
『一安心か……奴の暴走じゃないって言うんなら、じゃあ、その虐殺は一体誰が』
「この結界を張った奴しかいない。ますます“アドラー”の消息が心配になってくるな。先を急ぎたいところだが……こんな事を仕出かす存在が居るのだとすれば、油断できん」
そう言いながら死体を跨いで先へ進もうとしたその時、背後から駆け寄ってくる足音が一つ。
瞬時に身構える“アーベント”と“クリュザンテーメ”は、物陰から飛び出して来た少年を見付けて、一応の警戒を解いていた。
「……少年か。私達の後を追って、何が目的だ?」
「目を離しておくべきじゃないと判断しただけだ。思ったより遠くに行ってなくて安心したよ。……それより、アンタらの足下に転がっているのは、何だ?」
明確な警戒の色を乗せながら近付いて来る大柄な少年――百鬼 護は、その目に怒りを宿している様に見えた。
殺意すら感じられるその視線に“クリュザンテーメ”が身構え始める中、“アーベント”はあくまでも冷静だった。
「その殺意、私達に向けるのは筋違いだぞ、百鬼 護。ここに来た時点で、最初からこうだったのだから。君だって、ここへ入った瞬間に濃厚な血の匂いを感じた筈だ」
「……中に取り残されていたっていう、お前の仲間がやった可能性は?」
「それもない。死体を検分すれば分かるが、全て刃物に拠る致命傷だ。“アドラー”は剣士では無いからな」
「じゃあ、この人達は……!」
「この結界を作った存在が行ったとみるのが妥当だ。結界が維持されているのだから、そいつはまだ中にいると判断した方が良い」
互いの距離が十歩ほどのところで、護は歩くのを止めた。その目は折り重なるように倒れた無数の死体に向けられ、酷く動揺している。それだけショックな光景なのだ。
(これが休戦中でなかったら、絶好機なのだが……)
そんな事を思いながら、“アーベント”は護への攻撃を思い留まる。状況が彼自身にとって不利すぎるからだ。何より、今は利益が無い。
「君が驚いているところ悪いが、私達は失礼するよ。“アドラー”を探さねばならないのでね、先を急がせて貰う。“クリュザンテーメ”、所見は?」
「……ここの死体はまだ新しい。結界が展開された直後に殺されたとしても死後四十分程度。体温はまだ下がり切らず、死後硬直も始まっていなかった」
「今もまだ、虐殺が続いている可能性がある、か」
“クリュザンテーメ”を連れ、死体を跨いで“アーベント”はさらに先を目指す。しかしそこで一度、首を巡らせた。
「百鬼 護。君も急いだ方が良いのではないかな?」
「……俺に助言か?」
「好きに受け取れば良い。ただ一つ言えるのは、ここで無駄な時間を食っていると、新たな犠牲者が出る可能性がある、だけだ」
そこまで言い終えて、“アーベント”はもう二度と振り返る事はしなかった。
少年の姿が角に隠れてすっかり見えなくなった頃、“クリュザンテーメ”が不思議にそうに問う。
「どうして、何もしなかった? 隙だらけだった」
「今はそれどころではない。それに私の気持ち的にも、あんな状況で、あんな心情の少年を手に掛ける気持ち悪さは、味わいたくない」
「……やれば一瞬で終わったのに」
ちら、ともう見えない通路の角に、“クリュザンテーメ”が目を向ける。
しかし、“アーベント”は廊下に倒れ伏す死体を一つ一つ確認しながら言うのだった。
「いずれ分かるさ。人の感情は機械では無いのだから」
「デザイナーベイビーの私でも?」
「遺伝子操作されただけの、ただの人間だろう? 前頭葉を摘出した訳でもないのだ、いずれ分かる」
「……そっか」
「そうだ」
実際のところ、“クリュザンテーメ”が深くは理解出来ていないのは分かり切っていた。
でも、彼女は敢えて踏み込んだ質問はしないし、彼も教えようとはしなかった。
ただ、“アーベント”は無数に転がる死体の顔を確認しながら、告げるのだ。
「沢山の人の死を前にして“クリュザンテーメ”、お前は何を思う?」
「……良く、分からない」
「すぐに答えを出す必要はない。出す気が無くても勝手に出てくるものだ」
不意にそこで言葉を打ち切った“アーベント”は、足を止めた。そこにあったのは、激しい戦闘の痕跡。
コンクリート製の壁がまるで蒟蒻のように切り裂かれていて、綺麗に切断された金属製の分厚い板が転がっている。
「鉄……“アドラー”だな」
「でも、死体はない」
“アーベント”の言葉に引き続いた“クリュザンテーメ”が拾い上げたのは、切断された人の腕だ。その肌の色と言い、大きさと言い、二人には見覚えがあって。
「まさか、やられたのか……?」
「死体は、無い」
もう一度言われた“クリュザンテーメ”の言葉に、“アーベント”は溜息を吐いた。
「だとすれば逃げたか。もしくは敵を討ってその際に負傷したか」
「逃げたと推測。討ち取って勝利したなら、縫合の為に腕も確保する筈」
「……綺麗な切り口だからな。確かに縫い合わせるのも難しくなさそうだ」
とはいえ、もう再縫合は無理だろう。時間がそれなりに経過しているし、治癒技術に秀でた魔導士はこの場に居ない。
“クリュザンテーメ”もそう思っているからか、腕を静かに床へ置いていた。
「破壊の痕はこっちに続いている。血痕も」
「片腕を失って碌な手当てをしてないのだとすれば、失血量が心配だ。急ぐぞ」
『無線で呼びかけても応答がなく、片腕を斬り落とされた痕跡もある……生存は絶望的だな』
「死亡が確定した訳でもないのだ、打ち切るには早い」
“シュピーゲル”の無線にそう応じながら、“アーベント”達は血痕を追跡していく。
その間にも幾つか、纏まって殺されたであろう人々の群れを確認して、自然と彼らの心は下向いていた。
『静かだな“アーベント”、いつにも増して』
「一般人の死体を大量に見せられて鼻歌を歌っていられるほど、私はイカレた感覚をしていない。貴様とてそうでは?」
『正直、報告を聞いているだけで気が滅入っている。“ゼー”なら違うかも知れんが』
「奴はそういう男だ」
嫌悪とも、尊敬とも取れる“アーベント”の呟きの後、一向は沈黙に包まれた。
後は黙々と、居る筈の同僚の姿を探していたのだ。
そして。
「見つけた、“アドラー”」
「……居たか」
その姿を見付けるのは、難しくなかった。
そこは、フードコートの中心付近だ。
見晴らしのいい場所で、他の人と比べて目を引く殺された方をしていたから、簡単に見付けられたのだった。
「相当激しく抵抗したのだろうな」
『死んでるのか?』
「ああ、床に叩き付けられた上で心臓を一突き。心臓破壊に伴う、即死だな。まだ温かい」
『……間に合わなかったか』
イヤホンを通して聞こえた“シュピーゲル”の呟きに、“アーベント”は拳を握り締めた。
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