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49  作者: 蒼治
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後日談:1010(10)

 最後に。

 子供が生まれた晩のことを思い出しておこう。


 常盤美鶴さんがいつの間にか消えて、ほぼ同時に……まるで推し量った入れ違いのようなタイミングで夫が現れた。それからかれこれ一晩、夜明け前に無事出産となったわけである。

 私としてはちょー難産、きっと私の痛さは特別級、陣痛だって長すぎるぎぎぎ死ぬ死ぬとなったわけだが、助産師さんが産後朗らかに「初産とは思えない安産でよかったですね」と宣言して、もう己の打たれ弱さにげんなりときたものだ。


 産後すぐ、子供を抱いた夫はなにか感動的なことを言ったのかもしれないが、すみません正直疲れ果てていて彼が何を言ったんだか覚えていません。


 当然のように個室で子供と一緒にいたのだけど、夫は私に付き合って徹夜明けでそのまま出勤していった。まあここにいてもあまりしてもらうこともないしね。夫が出勤して行ってから私が爆睡したのを責める人はいまい。

 そして夕方に夫は少しだけいつもより早い時間に病院にやってきた。個室はベッドだけじゃなくソファやテーブルもあってワンルームアパート程度の広さはある。のそのそとベッドから降りて私は彼が入れてくれたお茶を飲んだ。

「……お疲れ様でした」

 改まって彼がそう言って私はそこで、彼が出産直後もそう告げたことを思い出したのだった。


「どういたしまして」

 答えてから私は微笑んでさらに言葉を付け足した。

「でも結構普通の言葉でしたね」

 夫は肩をすくめた。

「心を打つような言葉は普段職場で散々口にしているからな。アホ真っ盛りの高校生を操るにはそれなりに言葉が必要だ。プライベートでまで感動的な言葉を用意するのは面倒くさい」

 そういってから少しだけしまったという顔をする。

「そういう言葉が必要だったか」

「……そうですねえ。せっかくだから聞いてみたいような気はします」


 しゃあしゃあと返してみれば夫は珍しく困ったような顔をする。彼は少しだけ無言で考えていたけど立ち上がってベビーベッドの中を覗き込んだ。私に背を向けてベッドに差し入れた手はきっとそのなかのとても小さく温かい手に触れているのだろう。

 今日、母乳を上げたりしたけど、産んだ私ですら頼り無く感じる小さな存在。

 それなのに夫の背はまるでそれにすがっているようだ。


 ややあって彼は振り返って私を見た。

「悪いが思いつかない。感謝もしているし感動もしている、嬉しいし少しだけ心細いような気もする。ナベも子供を愛している。それなのにうまい言葉がない。そうだ!ナベがうまい見本を見せてくれたら出来るような気がする」

「えーと、無茶ブリしてすみませんでした」

 私は素直に頭をさげた。

 その時ベビーベッドの中から小さな声が聞こえた。泣き声とも違うただ漏れ出た空気のような呟き。それなのに、その一瞬だけで私達はベッドに無理やり意識を持ってかれる。でもその後なにも続くことなくまた眠ってしまったらしい。

 夫はこちらに戻ってきた。


「あの女から一つだけ連絡があった」

 気候の話かと思うようなさりげない口調で、彼は爆弾投げてきた。まずい、そういえば公園のカフェであっていたこともちゃんと説明していなかった。

「もう、連絡はしないと」

 私は息を飲んだ。

 彼女がその言葉にこめた意図は私には全てを探りきる事はできなかった。

「あと藤織の今の家長からも正式に、子供について介入するつもりは無いという言質も取った。多分これで、誰もあの子を誘拐したり懐柔させたりしようとはしないと思う」

「……あの人が何か進言したのでしょうか」

「……さあ」


 夫にももしかしたらまだ推測しきれていないのかもしれない曖昧な返事だった。ある程度は気をつけているにしても、あま無茶な事は起きないだろうと確信している顔、でもどうしてこうなったのか理解していない表情だった。

 彼の遺伝学上の母親の複雑な心情を私が推し量る事は無謀すぎる。


「よかったです。ありがとうございます」

 私は安心だけを言葉にした。

「まだ僕は何もしていなかったのだがな……いろいろと手段を考えてはいたのだが」

 ……なぜ二言でこれほどに危険な空気を匂わせることが出来るのだろうか。

「円満解決でよかったじゃないですか」

 向かいに再び腰を下ろした夫の顔をなんとなく私は眺めてしまう。


 私も言葉なんて持っていないのだ。

 彼の心の深いところにある、暗い亀裂を直すような魔法の言葉なんて。

 まだ良く見えない。触れることなんてとてもできない。癒すなんて、なんて奢った発言だろうと思う。でもそのままの彼をまるごと受け入れるなんていうのも妙だ。だって藤織さんが穏やかな気持ちでいられるのならその方がいいに決まっている。


 後ろめたい思いがあった自分の姉妹をずっと守って生きてきた(つもりだったというのがまあ間抜けなんだけど)ともかくそのつもりだった。彼女が結婚してなんにもなくなったというのに、気がついたらまた守らなきゃいけないものがあったことに改めて驚いていた。

 子供だけじゃなくて夫も私が守らなきゃなんて。

 藤織さんのほうがよっぽど強いのにね。でもそう思うのだ。


「なぜ僕を凝視している?」

「御礼を言うべきかどうか考えているんです」

「……言わなくていい」

 何を察したのか、夫はすいと目をそらした。勝手に察して勝手に照れているとは相変わらずである。

 あの時……まあいっぱい『あの時』はあるんだけど、とにかくあの時死ななくてよかったな。って考えていたんですよ。とりあえず、刺された時に助けてくれてありがとうって。

 という言葉はしかたないのでとりあえずしまった。

 いつかもっと適切な『言うべき時』はあるだろう。

 いまはもっと、別に。

 ただその名を。


 だから私は夫を呼ぶのだ。


 彼の苗字ではなく、その名で。





 49 後日談1010 おわり

後日談おわりです。

昔描いたSSなどが見つかったらUPするかもしれませんが、これにて完結です。

お付き合いいただきありがとうございました。

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