第三章『安全地帯』①
「外に出たい?」
思ってもみない頼みごとに、尊は目を丸くする。
「はい。今日は体の調子がよくて……それに、いつも寝てばっかりだとなまっちゃいますから」
そう言って笑う唯は、たしかに調子がよさそうだ。
尊はすこし考え、
「分かった。じゃあ、一緒に散歩でもしようか」
「はいっ」
屈託なく笑う唯を見て、つられて尊も笑顔になる。
いつも着ているネグリジェを脱がせ、白いワンピースを着せ、ロケットを下げると、カーテンを開ける。
地上に続く階段は、瓦礫によって遮断されている。線路に沿って奥へと進むと、壁に取りつけられた梯子をのぼっていく。マンホールのふたを開けると、外に出ることができた。
この蓋は、外から見たらわからぬよう、表面が地面と同じようセメントで固められ、カモフラージュされている。
今日は晴れだった。雲一つない快晴。頭上でさんさんと輝く太陽の光に、思わず目を細める。
ビルが崩壊し、地面が裂けていることを除けば、普通の町だ。
「やっぱり、外は気もちいいなぁー」
麦わら帽子をかぶった唯が背伸びをしながら言う。
その姿は、まるで天使のようにかわいらしい。
「兄さん、行きましょうっ」
嬉しそうに走り回ると、尊に手をさしだす。
何気ない動作も、唯がやると一枚の絵画のようであった。
「そうだね。行こう」
手を取りともに歩きだす。
「兄さん、一緒にお散歩しませんか?」
「そんなにはしゃいで大丈夫なのかい?」
「はいっ、大丈夫です」
久しぶりに、尊と外出したのがよほどうれしいのだろう。唯は無邪気な笑顔を絶やすことはない。歩くたび、二人の首から下げられたロケットが、チャリチャリと音を立てる。
そういえば、こうして唯と出かけるのは本当に久しぶりだ。
「そうか。じゃあ、今日は一緒に遊ぼうか」
笑いかけると、唯も心の底からの笑顔を見せる。
やはり、唯といると楽しい。
最愛の妹と一緒にいることが、自分にとって唯一にして最上の時間だと感じる。
唯を笑顔にすることが、自分の人生における目的だった。
そのためなら、自分はなんだってできる。そう確信していた。
コツン、と尊の頭になにかがぶつかった。
地面に落ちると、それはカンと音を立て、ころころと転がっていく。どうやら空き缶らしい。
「おお、わりぃわりぃ」
ぶつけたらしいガラの悪そうな男が、ニタニタと笑いながら手を振っている。
かと思うと、つぎの瞬間、男の拳が尊の顔面に叩きつけられた。
「兄さんっ!」
突然のことに、唯は驚いたような声を上げる。
しかし、当の本人は涼しい顔で言ってみせる。
「デカブツめ。いったい、なんの真似だ?」
「ほう、言うじゃねぇか」
笑ったかと思うと、今度は腹部に蹴りを入れる。
「っ……」
「人のウチから食料奪っておいて、よくそんなことが言えるよなぁ! さっすが、お偉い研究者様のご子息は違う、ぜッ‼」
男の攻撃は止むことはない。止に入る者も皆無だった。離れた場所でクスクスと、楽しそうに、あざ笑うかのように見ている。
先日、尊が唯のために持ってきた食料や日常品――それは、『危険区域』の住人から奪ったものだったのだ。
それを察したからこそ、唯は“大丈夫なのか”と問いかけた。
だが、そんなことはもうどうでもよかった。
どんどんボロボロになっていく兄を見て、唯は叫び声をあげる。
「もうやめて! 兄さんをイジメないで‼」
彼女にしては考えられないほどの大声で、尊を守るかのように間にわって入る。
「なんだよ……邪魔するんじゃねぇよ!」
男は腕を振りかぶり、唯はぎゅっと目をつむんだ。
しかし、いつまでたってもなにも来ない。おそるおそる目を開くと、そこにはさきほどまで後ろにいたはずの兄の姿があった。
大の男に殴られたにもかかわらず、尊は眉ひとつ動かすことはない。
ただ一言、
「貴様……殺すぞ?」
ビクリ、と体を震わせる。
相手は子供だ。体も小さい。力比べで自分が負けるはずはない。
にもかかわらず、この悪寒はなんだ……?
時が止まったかのような、永遠とも思える時間が流れる。
「そこまでだ!」
それを打ち破ったのは、よくとおる男の声だった。
すると、急に周囲がざわめきはじめる。
男を扇動していた者、面白そうに見ていた者、見て見ぬふりをしていた者、やさぐれた様子で地べたに座っていた者、寝そべっていた者、全員が、ある一点に視線をむけた。
そこを、ある一団が歩いていた。
先頭を行くのは、年齢は五十代ほどだろうか……上背のある男。長い髪を後ろへなでつけ、白い団服に、刀を一本腰に差している。後ろに十数名の男たちを従え、まるで英雄の凱旋のように、威風堂々と歩く。
十年前、ウイルス蔓延によって結成された討伐組織――。
「『騎士団』……」
その圧倒的な存在感から、だれからともなく、一団の名を口にさせる。
「大丈夫か、ボウズ?」
先頭の男が尊に声をかける。
服を着崩し、無精ひげを生やしているが、不思議とだらしないという印象はない。匂っているのは香水だろうか。
彼らにむけられているのは、羨望のまなざしなどでは決してない。
そこに宿っているのは、妬ましい、あるいは、恨めしいと言った、敵意さえはらんだ感情だ。
そんななか、尊だけが、彼らとは違う視線をむけていた。
この瞬間から、いまなお続く尊の計画が動きだした。
リビングに入ったとたん、尊はいぶかしげに眉をひそめた。
「あ、おはよう柊くん。早いんだね。低血圧だから朝が弱いって聞いてたんだけど……」
朱莉が台所でせわしなく動きながら、顔だけを振り向かせて言った。
「……貴様、そこでなにをしている?」
朝、目覚めた尊をいつも出迎えていたのは律子だった。
なのになぜ……この少女が、いや、なぜよりにもよって、この少女がここにいるのか。
「なにって、朝ごはんの準備だよ?」
「律子はどうした?」
「鬼柳教官は、これから仕事で忙しいから、しばらく来れないんだってさ。そのあいだ、代わりをお願いできないかって、学園長に頼まれたんだ」
チッ、と尊は舌打ちをする。
――征十郎め、余計なことを。
気を紛らわすようにテレビをつけると、ニュースでは先日の『避難訓練』について、コメンテーターが意見を述べていた。
『騎士団』を擁護する意見が多いのは、このテレビ局が『騎士団』の息のかかったテレビ局だからだ。問題が起きた際、『騎士団』にとって有益となることを報道するかわりに、定期的にネタを提供する。持ちつもたれずの関係だ。
もっとも、これも単なる時間稼ぎにすぎない。このすきに、『フレイアX』を操り、『安全地帯』に侵入させた犯人を見つけて事件を内々に処理しなければ。
ニセの情報で住人たちをおさえ込んでおけるのは――。
「三日、と言ったところか」
「なにが?」
いつものくせで、つい考えていたことが口を出てしまった。
料理をテーブルに運んでいた朱莉が不思議そうに首をかしげている。
私服にエプロンという姿なので、律子のような妙な感じはしない。
ただし、朱莉が着ているシャツとジーンズはサイズが合わっていないのかブカブカだった。恐らく律子からの借りものなのだろう。まえに着ているのを見た覚えがある。エプロンも、律子のものを借りているらしく、大きさがあっていなかった。
「……なんでもない」
「そう?」
特に追及することもなく、朱莉は料理を並べていく。
ふんわりと柔らかそうな卵焼きに、こんがりと焼きあがったソーセージ。海苔に味噌汁。そして、茶碗には白く光るごはんがこんもりとよそられている。
「多くないか……?」
山のようによそられたごはんを見て、尊は眉を引きつらせる。
「そうかな? 育ち盛りだから、これくらい食べるかなと思って……」
「朝からこんなに食えるか」
尊の言葉に、朱莉は残念そうに肩を落とした。
「そっか……じゃあ、もどしてくるね……」
「待て」
茶碗を持っていこうとした朱莉だが、尊の手が横からかっさらっていった。
「もったいないことをするな。あるなら食う」
卵焼きを口の中に放りこむと、ご飯の量も減らしていく。
食事を進める尊を見て、朱莉はうれしそうに目を細める。
「じゃあ、私も食べようかな」
エプロンを外してイスに座り、「いただきます」と言うと、自分自身も食事を始める。
「どう? おいしい?」
「ああ」
かえってきたのは空返事だった。
しかし、いちおう会話は成り立っているので、もうすこし会話を続ける。
「柊くんって、どういうごはんが好きなの?」
「ああ」
「鬼柳教官と仲いいよね」
「よくない」
「いつもどんな話してるの?」
「ああ」
「ここって、立派な部屋だよね。『騎士団』の人ってみんなこんな部屋に住んでるの?」
「ああ」
ちなみに、全員が豪華な部屋で暮らしているわけではない。それは隊長職以上の団員だけで、残りの団員はすべて相部屋だ。
なのだが、地上三十階建ての高層ビル、室内廊下には常にクラシック音楽がかかり、床に敷かれた赤じゅうたんにところどころに置かれた絵画や調度品という内装は、まるで高級ホテルのようである。
騎士団養成学園に似た内装から分かるとおり、このビルも瀬戸によって建てられたものだ。言うまでもなく、『騎士団』の存在を大きく見せるための措置の一つである。……もっとも、瀬戸の趣味でもあるのだが。
と、そこで尊の視線が下をむいていることに気づいた。
テーブルの下をのぞきこんでみると、スマートフォンをいじっているではないか。
しかも、なにが面白いと言うのか、ニタニタと笑っている。
「ちょっと、柊くん! ごはん食べてるときに携帯いじっちゃダメだよ!」
注意する朱莉に、律儀に舌打ちをしてから、尊はまるで壊れたラジオでも見るかのような視線をむける。
「なんだ、べつにいいだろう」
「よくないよ!」
「なぜだ? だれにも迷惑をかけてはいないはずだ」
「そ、そうだけど……お行儀悪いでしょ?」
「おまえには関係ない」
「関係あるよ! 学園長と鬼柳教官から、ちゃんと面倒見るようにって言われてるんだから!」
「おい、俺は子供か?」
うん、と言う言葉を、朱莉は危うく飲みこんだ。
「俺のいない間に、どんな取り決めをしたか知らんが、俺にはなんの関係もないことだ。貴様らのお遊びに俺を巻きこむな」
そう言っている間も、尊の視線はスマートフォンから離れることはない。
律子曰く、これは毎朝の光景だそうだ。なんでも、入院している妹とやり取りをしているそうだが……。
困った朱莉は、律子から教わった“カード”を切ることにした。
「柊くん」
「くどいぞ」
「もう、ちょっとは妹さんのことも考えなよ」
「なんだと?」
「もしかしたら、妹さんも食事中かもしれないでしょ? それに、そんなところ看護師さんに見られたらどうするの? 困るのは妹さんだと思うけど」
「……」
尊は、まるで一時停止のボタンでも押されたかのようにしばらく止まっていたが、やがてつまらなそうに鼻をならす。
「まあ、そういうことにしておこう」
そう言うと、スマートフォンをテーブルの上に置く。
朱莉はニコリと笑う。
「さすがだね。柊くんなら、分かってくれると思ってたよ」
「その口調をやめろ。不愉快だ」
相変わらず朱莉と視線を合わすことなく、尊は言う。
「勘違いするな。貴様の言うことを聞いたわけじゃない。べつに、取り急ぎ話す必要がないからだ。今日は、たっぷりと時間もあるしな」
「うん。もちろんそうだよ」
そう言ってまた笑いかける。
尊は不機嫌そうに舌打ちをすると、ソーセージを口に運ぶのだった。
唯に対しては一切妥協することのない尊が素直に言うことを聞いたのには、無論理由がある。
病室に入ると、そこにはすでに律子の姿があった。あろうことか、唯と楽しそうに談笑しているではないか。
自分の存在を二人に知らせるため、あるいは会話の流れを断ち切るために、尊はなにもそこまでしなくてもと言いたくなるほどの舌打ちをしてみせる。
「兄さん。おはようございます」
「あら、おそかったわね」
最愛の妹と半同棲相手に出迎えられても、尊の不機嫌そうな顔がはれることはない。
もっとも、唯が微笑みかけたためか、さきほどよりは機嫌がよくなったようだ。
「おはよう、唯」
律儀に、妹にのみ返事をかえす。
「兄さん。そちらの方は?」
尊の後ろに立っていた朱莉を見て、唯が不思議そうに言う。
「なんでもないよ。オマケみたいなものだ」
にこりと笑いながら失礼極まりないことを言う尊。もうなれたのか、朱莉は曖昧に笑っただけだった。
そんなことには構わず、尊は話を進める。
「律子。貴様いったいなんのつもりだ?」
「なにがよ? 唯ちゃんと話してたこと、そんなに怒ってるの?」
「それもそうだがそうではない」
尊はちらりと朱莉を見て、
「なぜ、コレをよこした?」
「物みたいに言わないでちょうだい。美神さんは人間なのよ? ……あんた、どうかしたの?」
腹をさすっている尊を見て、律子が眉を寄せる。
「……なんでもない。そんなことより、俺の質問に答えろ」
律子は、もはや日課となったため息をつき、
「美神さんから聞いてないの? 私が行けなくなったから、代わりにあんたの世話をしてもらうのよ」
「人を子ども扱いするな。そんなものは必要ない」
「あるわよ。お目付け役がいないと、あんたなにしでかすか分からないんだもの」
いまさらなにを言ってるの、とでも言いたげな様子の律子。尊と関わるうち、彼女にも遠慮と言うものが欠如し始めているのかもしれない。
「唯ちゃん。あの人はね、美神朱莉さん。尊のクラスメイトよ」
「そうだったんですか」
唯は体を朱莉のほうにむけると、ペコリと頭をさげる。
「ベッドに座ったまま失礼します。柊唯です。兄がいつもお世話になっております」
「唯。兄さんは、こんなやつの世話になど……」
「あんたは黙っててちょうだい。話が進まない」
律子にスパンと頭を叩かれる。
「あいかわらず、仲がよろしいんですね」
二人のやり取りを見て、唯がクスクスと笑う。
「仲よくなんてないよ。こいつが勝手に、兄さんにからんでくるんだ」
律子や朱莉にたいしては、当然のように舌打ちをするくせに、唯にたいしては優しげに言う尊。それが妙におかしく、思わず朱莉は笑ってしまう。
しかし、それも無理はないのかもしれない。
尊と唯は、『危険区域』にいたときから、肩をよせあって生きてきたと瀬戸は言った。特に唯は、昔から病弱でそれはいまも治っていないらしい。
今日は、その唯の検査の日なのだ。月に一度のこの検査で、身体に異常がないか、くまなく調べる。なにも異常がなく、体調も良好な場合は外出許可もでる。
唯と一緒に出かけることのできるこの日を、尊はなによりも楽しみにしているのだ。
「さて、そろそろ時間ね」
病室の、ファンシーなクマの時計――無論、これも尊のプレゼントである――を見ると、針は九時をさしている。
律子の言葉を合図としたように、医師と数名の看護師が入室してきた。
唯の検査に立ち会うため、病室を出たときだった。後ろから声をかけられ、一同はふり返る。
そこに立っていたのは、ブランド物のスーツを着崩し、無精ひげを生やした男――騎士団養成学園の学園長兼中央省警保局局長、瀬戸征十郎だった。その後ろには、丹生の姿もある。
「尊、鬼柳ちゃん、ちょっといいか?」
そう言って目配せをしてくる。どうやら、かなり重要な話らしい。
「兄さん」
唯は尊に笑いかける。
「わたしなら大丈夫ですから。行ってください」
「……分かった。すぐ戻るよ」
尊も笑顔をかえす。
「すまないね、朱莉ちゃん。悪いが、きみだけでも立ち会ってくれないか?」
「おい、待て。なぜそいつに……」
「はい。分かりました」
朱莉は二つ返事で了承する。
「ふざけるな。俺は認めんぞ。こんなやつに……」
「兄さん。クラスメイトの方にそんなことを言ってはダメですよ。美神さん、よろしくお願いしますね」
「うん。よろしくね」
「唯。本当にいいのか……?」
「はい。せっかくですから、すこしお話もしたいですし……同年代の方とお話しする機会なんて、ありませんから……」
妹にそう言われては、尊は武器を失ってしまう。いまだ納得いかなそうな顔をしていたが、けっきょく引き下がるしかない。
「悪いね、唯ちゃん。ちょっと借りるよ」
物の貸し借りのように、軽い調子で言う瀬戸。
「大丈夫ですよ。気にしないでください」
本当に気にした様子がないので、尊は落ち込んでしまう。
「兄さん。お仕事がんばってくださいね」
「ああ。唯も頑張ってくるんだぞ。貴様、万が一のことがあったら、体を張って唯を守れ。最悪死んでもだれも困らん」
「困るわよっ!」
ふたたび律子に頭を叩かれる。
なんてわかりやすい……。
律子が手を焼くこの男を、ここまで自在に操るこの少女こそ、じつは一番の上位存在なのではないか、と思う朱莉だった。




