第三章 『英霊館』殺人事件⑪
六日前、柊尊は休日を利用し、柊唯とともに、青龍地区を訪れた。
学園長・瀬戸の計らい(尊はそう思っていない)により、彼の知人で元警視庁公安部長の綾辻青司が住む、『英霊館』に宿泊することとなった。
時は、その一回目の一日目へと遡る。
「兄さん、起きてください」
その日、尊は最愛の妹の言葉で目を覚ました。
いつもはプライドの高い女に粗暴な起こしかたをされるが、今日はそれとは比較にならないほどいい目覚めだ。基本的に朝は弱い尊だが、今日はすぐに頭もさえた。
「おはよう、唯」
と満面の笑みを見せる。
「おはようございます、兄さん」
最愛の妹がほほ笑んでくれたことで、兄は有頂天となった。そろそろ朝ごはんですよ、という言葉が、どこか遠くに聞こえた。
「そうか。そんなことより唯、今日はどこに行こうか? 行きたいところを言ってくれ。どこでもいいんだよ」
そのため、こんな返しをした。が、唯はそれでも微笑んだままだ。
「ありがとうございます。でも兄さん、そのまえに朝ごはんを食べましょう。さあ、行きましょうか」
唯が手を差しのべる。尊はやさしく手を握りかえした。
食堂の扉を開けると、『英霊館』執事、黒崎に恭しく礼をされた。
「おはようございます。柊様」
わざわざ返答する義理もない。尊はあくびをするだけで、挨拶を返すことはない。
「おはようございます黒崎さん」
自分の後ろで、唯がにこやかに挨拶をする。唯はやはり天使だな、と思った。
挨拶をかえそうがかえすまいが、黒崎は気にすまい。この男にとって、〝執事〟というものはそれ以上でも以下でもない。主人に……いや、ここ『英霊館』に仕える者としての職務を全うする。さながら決められたプログラム通りに行動するロボットのように。だから、客人はもちろん、主人でさえ、この男には大した存在ではないのだ。
それが、尊が黒崎という男に抱いた印象だった。
黒崎は能面のような顔で、無駄のない動作で一礼すると、食堂の隅に移動し直立不動の姿勢を取った。
「もう、兄さん。ダメですよ、あいさつはちゃんとしないと」
「ん? ……ああ……唯、立っていないで座ろうか。遠慮することはない」
黒崎がどんな人物であろうと、尊にはなんの関係もない。いまは、妹との時間を楽しむだけだ。
「やあ、二人とも、おはよう。昨日はよく眠れたかな?」
すでに細長いテーブルについていた男――案静が、軽薄な声を放ってきた。
瀬戸とは似ても似つかない男だが、ただ、コーヒーカップをキザな角度で持ち上げてみせるしぐさは、あの男を連想させ気分が悪い。勝手に気分を害した尊は、心中で舌打ちしてこれもスルーした。
「案静さん、おはようございます。おかげさまで、ぐっすりでした」
それを察してくれたのだろうか、唯が笑顔で応じた。
「そりゃよかった。僕はベッドが変わるとよく眠れなくて。おかげで寝不足だよ」
「ふふっ。意外に繊細なんですね」
「この年になるとね、〝変化〟っていうのが怖いんだよ、ちょっとしたことでもね。安心できないんだな」
「まだ老け込むようなお年じゃありませんよ」
「おお、それはうれしいねぇ。じゃあ、こういうのはどうかな? 今日は、その若い僕と一緒に……」
「誰も若いとまでは言ってないぞ、老いぼれ」
カフェインで頭がイカレたのだろうか、とぼけたことを言いだした老いぼれの言葉をさえぎるように、尊は割って入った。
「君は朝からぶれないな」
この期に及んで尊にからむ案静。
「君も飲むかい?」
そう言って、ふたたびコーヒーカップをキザったらしく持ち上げる。
「貴様のそういうところを見ると、気に食わん男を思い出して仕方がない」
尊は舌打ちまじりに言った。
「〝気に食わん男〟っていうのは、ひょっとして瀬戸のことかな?」
言われて、尊は案静に視線を戻す。飄々(ひょうひょう)としているように見えるが、この男、存外聡いところがある。案静は「やっぱりね」と言い、
「昔からよく言われるんだ。『おまえたちは似てる』ってね。瀬戸は毎回いやそうにしていたけど、僕はそう言われるのは嫌いじゃない」
だろうな、と尊は思う。この案静という男は瀬戸が嫌う……というより、苦手とするタイプのように思う。
「こう言うと、彼はもっと嫌がるんだ。どうだい? 瀬戸は僕についてなにか言っていなかったかな?」
「いえ、わたしにはなにも」
自分がなにも答えないと思ったのだろうか、唯が言った。事実、そのつもりだった。この最愛の妹は、いつも自分のことを察して動いてくれる。だが、せっかくだ。言葉をかえしておくのもいいだろう。
「単純に嫌われているんだろう。嫌われ者が人を嫌うなど、おかしな話だがな
」
あの秘密主義者が、聞かれもしないのに人の評価をするはずもない。飽きるほど聞いた嫌いな官僚たちへの愚痴も、どこまで本心かなど分かったものではない。
あの男はだれにも本心を見せることはない。故に、なにを考えているのかと正確に知るものは、やつ本人しかいない。瀬戸と会ってもう五年になるが、尊は瀬戸の年齢すら知らないのだ。もっとも、尊はそんなことに興味はない。奴がなにを考えていようと、自分との〝契約〟さえ守ってくれればそれでいい。
「はっはっは。なるほどねぇ。それはたしかに言えてるな。やっぱり君は面白い」
案静は本当におかしそうに笑った。いったい、なにが面白いというのか、尊には理解に苦しむ。するつもりもないのだが。
尊がうるさそうに顔をしかめたときだ。食堂の扉が開き、一組の男女が入ってきた。
痩せすぎた、案静と正反対な、〝老けている〟印象の強い男。
白いワンピースを着た、黒い髪と黒い瞳を持つ、肌の白い少女。
館の主・綾辻と、その娘、明香である。
「やあ綾辻。おはよう」
案静が軽く手をふった。
「昨日はよく休ませてもらったよ。やっぱり君のところはいいね。有能な執事とメイドのおかげでゆっくり骨休めができるし、娯楽室のおかげで退屈もしないし、なによりコーヒーがうまい。どうだい、君も一杯。まあ、元々このコーヒーは君のなわけだけど」
川の流れのようになだらかな社交辞令に、尊は軽蔑したように鼻を鳴らす。このように不毛な、バカげた会話はいつ聞いても寒気がする。
「いや、結構だ」
ここで、綾辻は咳をした。昨日も頻繁に咳をしていたが、始まったのはここ数日ではないだろう。この痩せ具合、そして飲んでいる薬からすると、おそらく綾辻は……。
「大丈夫かい? たしかに、カフェインは取らないほうがよさそうだね……」
綾辻に断られた案静は、今度は明香に言う。
「じゃあ、明香ちゃん。君はどうかな? おいしいよ。これが結構眠気覚ましにもなる。もっとも、君は普段から飲んでるだろうけれど……」
懲りずに明香に話しかける案静。このバイタリティは大したものだ。無神経なのだろうな、と無神経な少年は考察した。
「案静」
館の主もそう思ったのか、しわがれた声で口を挟んだ。
「彼女が怯えている」
「おや」
案静は綾辻の隣に腰かけている少女に視線を移すと、
「いやあ、これは失礼。いつも部下に怒られるんだけど、これがなかなか直らなくて。まあ、言い訳するわけじゃないんだけど、生まれ持った性格っていうのはそう簡単に治るものじゃ……」
などと、いまだピーチクパーチク言っている。それをさえぎるように、綾辻はゆっくりと割って入った。
「遅くなって済まない。そろそろ食事にしようか」
メイドによる朝食がふるまわれ、食後のコーヒーが出された。
それを一口すすってから案静が言う。
「そういえば、今日君たちはどこかに遊びに行く予定なのかな?」
「貴様には……」
「今日はファンタジーパーク……? へ行こうと思っています」
関係ない、と言うまえに、唯が言った。普段なら舌打ちして続けるところだが、妹が相手ならそうもいかない。
「ほう。それはいいねぇ。あそこは青龍地区で一番大きなアミューズメントパークだから、きっと楽しんでもらえるんじゃないかしら。じつはね、僕もちょっと関わってるんだ。といっても、本当にすこしなんだけど」
「そうなんですか。いったい、なにをされたんですか? ひょっとして、テーマパークを作ったのが案静さんとか?」
「いやぁ、そこまでできたらよかったんだけどね。あいにくあのときは他のことで忙しくて。ただ、出資者の一人ってだけだよ。出資者の欄にはね、僕の名前は一番上に載ってるんだ。お金を一番多く出したものだから」
「あら、立派な立役者じゃありませんか」
「そう言われるとなんだか照れちゃうなぁ。おかげで優先的に入場出来もするんだよ。いや、お金は持っておくものだ」
〝金〟。それが尊の琴線に触れた。つぎの瞬間には、軽蔑したように鼻を鳴らしていた。
そうして、自分の考えを聞かせてやったのだが、明香という少女が怯えた視線をむけ、綾辻は厳しい顔をしていた。
唯との旅行でテンションが上がり、つい言ってしまったが、こんな反応をされるとは。
まあいい。もとより理解してもらえるとは思っていないし、してもらおうとも思わない。自分はただ、自分の考えを言っただけのことだ。あとはもうどうでもいい。
が、案静は、目じりに涙をためて笑っていた。
「いやぁ、柊君、君はやっぱり面白いなぁ」
「面白い? 悲劇を面白いとは、よほど根性のひねた男だな」
「君の主張にも一理あると思うけど、君だってそういううちの一人なわけだろう? それについてはどう思っているのかな?」
――バカめ。
尊は本心からそう思った。自分にとって、それは愚問であるからだ。それ故に、胸を張って答える。
「おれか? もちろん俺は貴様らとは違う。俺は自分のためになど金は使わない。俺の金は唯のためにある。俺は貴様らと違い、自分を安売りなどしない。唯は俺が自分をささげるに足る素晴らしい少女だからな」
「兄さん……またそんな……」
唯は照れ臭そうに尊を見る。妹の視線に気づいた兄は、ニコリと微笑んだ。やはり唯は天使のような少女だ。
「なるほどねぇ。要するに、なににお金を使ったかが問題なわけだ。自分自身を売って手に入れたものなわけだからね。どうせ使うなら有意義に使わなきゃいけない。君にとって、他人の目を気にするのは、〝バカげたこと〟ってわけだ」
ほう、と尊は思った。面白そうにニヤリと笑う。
「すこしは話が分かるじゃないか。貴様は見所があるぞ。すくなくとも、征十郎よりはな」
「それはうれしいねぇ。でもね柊君、僕はマウントを取るために多く出資したわけじゃないんだ。僕は昔から楽しいことが好きでね。いまはこういう状況だから、皆に笑顔になってもらうために、あそこを作ったのさ。病は気からってね。〝笑う門には福来る〟。笑顔はやっぱり大事だよ」
なにやら語りだした案静だが、興味ゼロの尊は、『でもね、柊君』以降はまったく聞いていなかった。だが、自分の話を理解する程度の頭は持つ男のようだ。最低限の敬意は払ってやる。
「それは素晴らしいな」
本人にとってはそのつもりなのだが、はたから見れば上の空でしかなかった。
それから、食堂に気まずい沈黙がおりた。コーヒーを啜る音や、明香の本のページをめくる音……その沈黙を破ったのは、館の主である綾辻だった。
「柊君、君に一つ頼みたいことがあるのだが」
「断る」
せっかく唯と休養に来ているのだ。何人であろうと一切の邪魔立ては許さん。鋭く一言断言し、コーヒーを一口啜る。
しかし、そんな尊を唯が「兄さん」と短くたしなめた。その後の言葉は想像ができた。
「なんでしょう? もし、私たちにできることでしたら……」
……やはり、そう言うのか。唯はやさしすぎる。そのやさしさに、綾辻は付け入るように(尊個人の感想)言う。
「ああ、そうだな。こういうことは、君のほうが適任かもしれない」
いままで何度も経験した展開だ。しかし、妹のすることには口を挟まないというのが尊の信条である。綾辻に対し、鼻をフンと鳴らして顔をそむけることで不快の意を綾辻に表した。
綾辻は唯に向き直り、
「今日、出かける予定があるのなら、明香を連れて行ってはくれないか?」
その言葉は明香にとっても予想外だったのだろう。彼女は本から顔を上げると、怪訝そうに綾辻を見た。
「明香さんを? はい、もちろんいいですよ。明香さんさえよろしければ……」
明香は不安そうに唯を見て、ふたたび視線を綾辻に移す。
「ご一緒してきなさい。ずっと館に閉じこもっていては気が滅入るだろう」
「はい……」
明香はうつむきながら、消え入りそうな声で言った。
「そういうわけだ。悪いが、よろしく頼むよ」
「はい。任せてください」
その様子を見て穏やかな気持ちでいられないのは、もちろん尊だ。せっかくの妹と共に過ごせる休日に、なぜどこの誰とも知らん女を交えなければならない。だが唯のすることに対して以下略である。
「唯君」
と案静が言った。
「あそこに行くなら、はやめに出たほうがいい。なにせ混むからね。園長には僕から話を通しておくから、優先的にアトラクションにも乗れるし、入園もできる。だから、そこは安心してくれていい。それと、あそこは売店で売っているアイスが絶品でね。ぜひ食べてみてくれ」
尊の眉がピクリと動いた。甘いものが好きだからだ。
「柊君、君も普段から瀬戸にこき使われて疲れているだろう。仕事のことは忘れてゆっくり遊んでくるといい。明香君も、楽しんできてくれよ」
しかし、もちろんそれを表情にだすような真似はしない。
尊は案静を一瞥するとフンと鼻を鳴らし、
「おまけがついてこなければ、俺もその言葉に気の利いたことを返せるんだがな。人生というのは本当にままならないものだ。そう心配するな、面倒ごとには慣れている。貴様の箱入りも、せいぜい楽しませてやるさ」
と、本人的には殊勝な口を利くのだった。




