第四章 兄の想い①
「唯、聞いてくれ」
上半身を起こしてベッドに座る妹に、兄は言った。
「はい。なんですか、兄さん?」
「俺はこれから『騎士団』に入る。『騎士団』にさえ入れば、『安全地帯』で暮らすことができる。病院で治療をうければ、唯の病気もきっとよくなる」
「でも、兄さん。入るといっても、どうするおつもりですか?」
「このあいだ会った男を覚えているかい? スーツを着たうさん臭い男だ。やつは『騎士団』の指揮官らしい。つまり、やつに認められれば、『騎士団』に入れるんだ」
来る日も来る日も、『安全地帯』から流れてきたゴミを回収し生きていく日々。このまま『危険区域』にいても、自分たちに未来はない。
道なき道ならば、自らの力で切り開くまで。そのためには、利用できるものはすべて利用する。この少女だけは、なにがあっても守ってみせる。
「唯、一緒に来てくれるかい?」
手を差しのべる尊。もちろん、唯はその手をつかんだ。
「はい。わたしはいつでも、兄さんと一緒です」
ニコリ、と優しく微笑みかける。
ここが、運命の分かれ道だったのだ。
二人は、何年も暮らした隠れ家を出た。
振り返ることなく、さきを進む。
あの男は、今日もここに来るらしい。
『騎士団』は、『危険区域』に、散発的に遠征部隊を送りこんでいる。そうして、着々と『フレイアX』の数を減らし、この戦いに終止符を打とうとしているのだ。
ここ数日の彼らの活動により、ここら一帯の『フレイアX』の数は、目に見えて減った。かといって、『危険区域』に暮らす尊たちのおかれた状況が変わったわけではない。
この状況を変えるには、『安全地帯』に行くほかない。
住人たちの不安を体現するかのように、空には暗雲が立ちこめている。
尊は歩調を唯にあわせ、ゆっくりと歩いていく。このままいけば、あの男と合流できるはずだった。
だが、『危険区域』は彼らを逃しはしない。ビルにからみついたツタは、同時に住人も縛りつけているのである。
『フレイアX』が、彼らのまえに立ちはだかった。
「兄さん……」
恐怖を押し殺した声で、不安そうに尊の後ろに隠れる唯。
「大丈夫だよ。なにも心配しなくていい」
力強い、しかしやさしさに満ち溢れた声だった。
尊が選択したのは、『逃げる』ことだった。
むやみに戦えば、唯を傷つける恐れがある。それだけは、なにがあっても避けなければならない。この場で『逃げる』意外を選択するなど、ありえなかった。
獲物が逃げれば、当然、狩人は追ってくる。それに気づきつつ、それでも尊は逃げた。唯を抱いた状態でも、その速度は一向に衰える様子はない。
小道、曲がり角を利用し、地の利を活かして逃げ続ける。そうして、数分逃げ続けてから、ようやくその足を止めた。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
そう言って唯をおろし、一息つこうとしたときだった。
「に、兄さん……」
唯が怯えた表情で引っ付いてくる。
見晴らしのいい、死角のすくない場所。万が一襲撃を受けても、すぐに対処できるようにという考えあっての逃げ場所だったが、どうやら、それは意味がなかったらしい。
『フレイアX』が尊たちを取り囲んでいたのだ。
最初は一体だけだった『フレイアX』が、いつの間にか十体に増え、尊たちを逃がさんと包囲している。
「唯、俺の後ろに」
背に隠れたところで、その背後にも『フレイアX』はいまにも飛びかからんとうなり声を上げている。
それでも、尊は唯を守るように後ろに隠した。
グルル、と腹が減ったとでもいうように、喉の奥をならす怪物たち。
絶体絶命の窮地におちいり、思わず身を震わせる。
尊がではない。『フレイアX』がだ。
――まずい。
理性など持ち合わせていないはずの『フレイアX』の本能が告げていた。コイツは危険だ。いますぐ、ここから去るべきだ。さもなくば……。
抱いた感情をふり払うかのように、『フレイアX』は雄たけびを上げた。
つぎの瞬間、十体の『フレイアX』が一斉に尊と唯に飛びかかった。
絶え間なくはたかれるカメラのフラッシュが、中央省官房室の職員にあびせられる。
「このたびは、誠に申しわけありませんでした」
真ん中の職員がそう言うと、一斉に頭をさげる。
一分ほどたったのち、三人が着席したとたん、記者たちから一斉に声が上がる。
中央省のとある一室。
度重なる『フレイアX』侵入事件により、中央省は釈明会見を余儀なくされた。
それはつまり、尊が提示した『一時的な打開策』が効果を失ったことを意味している。
「質問は挙手にて願います」
真ん中の男が言うと、記者たちの声は止み、代わりに一斉に手が上がった。
「そちらの、黒いスーツの女性。媒体名からどうぞ」
記者は、言われたとおりに名乗ったあと、さっそく核心をついてくる。
「さきほど、先日発表した『限りなく実戦に近い演習、及び避難訓練』が誤りとおっしゃいましたが、どういうことでしょうか?」
「申しあげたとおりです」
今度は向かって左側の職員が言う。さきほどまでの喧騒が嘘のように、会場が静まりかえる。
「先日の侵入事件は、演習ではありません。あの『フレイアX』は本物であります」
今度は一転して、ざわつきはじめる。挙手した者も何人かいた。その一人が指名される。
「なぜ、そんなウソをついたのですか?」
「ウソ?」
真ん中に座った職員が言った。
「演習ではないのに、演習と言ったのでしょう? ウソと言わずなんと言うのです?」
「この『安全地帯』に『フレイアX』が侵入したなどと言うことになれば、大変な騒ぎになってしまいます。無用な騒ぎをさけるための、緊急避難措置であると、我々は考えております」
「そういうことではなくてですねぇ、その理由を……」
「つぎの方」
無理やり終了させられ、記者は納得いかなそうな顔をして着席する。
「いままでの侵入では、けが人、死者ともに出てはいませんでしたが、今回の侵入では、けが人十三人、死者四名という残念な結果となってしまいました。これは警保局の対応の遅さが招いた結果とは考えられませんか?」
「官房室は警保局の捜査方針についてはコメントいたしません」
「今後、中央省としては、どのような対処をしていくのかお聞かせください」
「犯人逮捕に全力を尽くす所存です」
「犯人の目星は?」
「鋭意捜査中です」
「『騎士団』を指揮する瀬戸警保局長はどのようなお考えなのか――」
プツン、とテレビが消されると、ブランド物のスーツに身をつつんだ男たちが、一斉に瀬戸をにらむ。
中央省の会議室。その一室に、名だたる幹部たちが一堂に会していた。
「さて、どのようなお考えなのか、お聞かせ願えますかな? 瀬戸警保局長」
いやみったらしい笑みを隠そうともせず言ったのは、中央省警保局、副警保局長の三雲。ウイルス蔓延前の世界では、防衛省の事務次官だった男だ。
「考え、と申しますと?」
明らかに悪い状況に立たされているにもかかわらず、優雅に足を組み、イスにふんぞり返って座っている男がいた。
瀬戸征十郎。
中央省において、警保局局長という重職を担う男である。
「『フレイアX』の侵入事件についてですよ。その“演習”ということについても、私はなにも聞いていなかったのですが……なぜ、教えてくれなかったのです?」
「わざわざお教えするほどのことでもないと思いましたので。あなたがたのお力添えがなくとも、我々で対処できると判断しましてね」
「その結果がこれですか。天下の警保局長ともあろうお方が、見誤りましたな」
まえから思っていたのですが、と三雲はまえのめりになる。
「現在、『騎士団』の指揮権は、そのすべてを元警察庁さんが担っておられます。しかし、それではいかんと思うのですよ。今回もそうです。情報と指揮権を独占し、その結果多大な被害を生みだした。潮時ではありませんか?」
「どういう意味です?」
鼻息荒く語る三雲に、瀬戸はどうでもよさそうに言った。
しかし、三雲は勢いをそがれた様子はない。どころか、余計に熱くなったようだ。
「警察庁さんの組織運営は、少々荒いようです。これを機に、『騎士団』の指揮権をべつの組織と人間に移すべきではありませんか?」
「ほう、それはおもしろいご意見ですね。移すさきは……そうだな、例えば……あなたとか?」
わざとらしく考えるそぶりを見せる瀬戸。
「さて、それを決める権限を、私は持っていませんので」
負けじと三雲も皮肉っぽく肩をすくめてみせる。
「みなさんはどう思われますか?」
そう言うと、三雲はほかの幹部たちに目をむける。
「そうですな。副警保局長のおっしゃるとおり、考え直すべきかもしれません」
「たしかに。いままでは実績があるから黙っていたが、こう不祥事が続いては、中央省の存在意義を問われかねない。住民たちから声が上がるまえに、誠意を見せるべきかもしれません」
「だいたい、警保局長。あなたは『騎士団』の全権を持っているくせして、そのじつ、最近仕事は部下に任せっきりで、ろくに運営していないではないですか。それでは宝の持ち腐れだ」
「まったくです。逆にいままで問題がおきなかったのが不思議なくらいだ」
三雲が言ってからは、まさに流れるようだった。
みな口々に、瀬戸への不満を述べていく。
その場の全員が、瀬戸に批判的な目をむけていた。
そのなかで、三雲が勝ち誇ったかのように笑っている。
「まあ、ご安心ください。我々は一心同体。なにがあろうと、乗り越えていけますよ」
四面楚歌。
幹部たちの中には、当然、警察側の人間もいる。それが三雲についているのは、言うまでもなく、自らの保身のためだ。
前代未聞の不祥事。その責任を、瀬戸一人に押しつけようとしているのである。
この状況に置かれてなお、しかし瀬戸は態度を変えることはない。
「みなさんのお気持ちは、大変よく分かりました。しかし、ご安心ください。この事件はじきに解決します。そう、今日中にね」
あっさりと出た重大発言に、幹部たちは一瞬キョトンとしたあと、顔を見合わせる。
「そして予言しましょう。真相が明らかになったとき、あなたがたは、手首がちぎれるくらい手の平を返すことになるでしょう」
意味深な言いかたに、幹部たちは怪訝な顔をする。
「どういう意味です?」
「そのままの意味ですよ」
幹部の一人にそっけなくかえす瀬戸。
バンッ、と扉が開かれたのはそのときだった。
「会議中失礼しますっ!」
若い職員が血相を変えて会議室に入ってくる。
「なんだね? いまは会議中だぞ」
「まあ、いいじゃないですか。で、なんだい?」
三雲をとりなし瀬戸が訪ねる。
職員はおそるおそる、しかし、ハッキリと口にした。
「たったいま、『フレイアX』を『安全地帯』に手引きしたのは自分だと、警保局長秘書、丹生静香が出頭してまいりました……!」
突然倒れた唯は、すぐに病院へと搬送された。もっとも、救急車で搬送されたわけではなく、尊の尋常ならざる運動神経によって、運ばれたのだが。
医師につかみかからんばかりの勢いで駆け寄り「唯を診ろ」と言う尊。
心配した朱莉もあとから合流したが、医師の診察によると、体にはとくに異常はないらしい。久しぶりに外出し、目のまえで『フレイアX』に人が殺される瞬間を目撃したショック症状では、というのが医師の診断だった。命に別状はない、ということを聞き、ホッと胸をなでおろす。
尊は、無言でベッドに眠る妹を見つめている。無表情ではあったが、その横顔からは唯を心配していることがひしひしと伝わってくる。
さきほど、言い合ったばかりだからだろうか、会話がないのが気まずくて仕方がない。空気の重みに耐えかね、朱莉が口を開く。
「唯ちゃん、心配だね」
尊からの返答はない。さきほどのことを気にしているとは思えないが、単純に唯のことが心配なのだろう。これ以上自分がここにいても、できることはなさそうだ。
別れを告げ、部屋を出ていこうとしたときだった。
「なにもないはずはない」
「え?」
尊は何事かをぶつぶつと言っている。思考に没頭しており、朱莉のことなど目に入ってはいないようだ。
漏れ聞こえてくる言葉の端々に怒りの感情が見てとれる。冷静さを保とうとしているのは、一度感情を高ぶらせると、おさえきれないことを理解しているからだろう。
「まあ、見当はついている」
そうつぶやくと、病室にあった電話を使い、どこかに掛ける。
「俺だ。訊きたいことがある」
名乗ることすらせず、尊はいきなり本題に入る。
相手は……瀬戸だろうか。どうやら取り込み中だったらしく、文句を言っているのが漏れ聞こえてくる。
「ああ。今回の事件の犯人のことだ」
あまりにもさらりと言ってのけるので、朱莉は最初意味を理解できなかった。
「出頭? フン、やはりそうか。分かった」
言いたいことだけ言うと、尊は一方的に電話を切ってしまう。
一瞬呆れた朱莉だが、すぐにゾクッと体を震わせる。
尊から、一つの感情が濁流のようにあふれ出したからだ。
それは、殺意と呼ばれるものだ。
「柊くん……?」
「いちおう、貴様にも教えておいてやる」
相変わらずの傲岸不遜な口調で尊は言う。
「え、なにを……?」
「今回の事件の犯人。孤児院の連中を殺害したやつをだ。これを聞いてどうするか、貴様自身が決めるがいい。俺は、決着をつけに行く」
そう言うと、尊は事件の真相を語り始めたのだった。




