第86話 旅立ち
清は、跳ね上げられた神刀ことひらを目で追っていた。凄まじい勢いで回転し、天に小さくなっていく。それが、小指ほどの大きさになったところで動きを止めた。白刃がゆっくりと方向転換していき、切っ先が地に向いた。打って変って神刀ことひらは凄まじい速度で降下をし始め、それが加速と共に一筋の閃光へと変わる。
「あっ」と清が思わず声を出す。
神刀ことひらの輝きが鍋倉に向かっている。引き合いの際、幾分鍋倉の方が強かったのだろう。ことひらは鍋倉の側に弾かれてしまっていたのだ。それだけではない。頭によぎったことに血の気が引く。鬼善は思うだけで太刀を操れるのだ。この好機を鬼善が逃すはずはない。未だ手のひらに集中する鍋倉に気付いている様子はまるでない。神気の吸引にただ一心である。
「上ぇぇぇぇっ!」と清は叫んだ。もうその時にはことひらは、鍋倉のすぐ真上にあった。飛ばした声への反応が、鍋倉にはまるでない。清は悲鳴を上げる。
グサッ!
戦いを見届けるとは言ったが、目をそむけてしまっていた。もし鍋倉が鬼善に殺されるようなことがあったら清は鬼善に討って出、そして、死のうと思っていた。鍋倉は言ったのだ。「お前が逝くならおれも逝く」と。その気持ちは清も変わらない。恐る恐る鍋倉を見る。
神刀ことひらは鍋倉の背後、その地面に突き立っていた。
一気に感情が押し寄せてきた。うれしかったからか、あるいは緊張から解き放たれたからか、清は声を上げて泣いた。
それは、神刀ことひらが天空で折り返した時に思い付いたことだった。最大の死角、脳天から鍋倉を串刺しにする。心底たまらない考えだと鬼善は思った。操作することひらは、位置といい角度といい申し分ない。依然として鍋倉に気付く気配もない。こういう結末を御仏はこのわたしに用意してくれた。やはり神託は我にあり。鬼善は万感胸に迫る。それが逸れた。
……なぜ?
その一瞬に空白が出来た。一挙に神気が鍋倉に向けて流れを変える。慌てたっていうもんじゃぁない。何が何だかわからない。それでまた、金神の吸引を止めてしまっていた。心の中では「なぜだーっ」とどこかの誰かに向かって叫んでいた。それが事態をさらに悪化させた。
一瞬出来た空白も、見失ってしまった自分自身も、何もかも取り戻そうと鬼善は、死にもの狂いで両手に力を注ぎ込んだ。脳裏には父の鬼一法眼があった。鍋倉を後継者に指名した書状を偶然見てしまった。鬼善は父を深く恨み、老齢で弱ったのを良いことに毒を盛って地下に閉じ込めた。その上で、『太白精典』を奪いその要諦を掴んだ。金神は金星より放たれるかすかな神気を取り込まなければならない。膨大な時間と労力を必要とした。しかし、鬼善にとってはさほど難しくなかった。父から金神を奪えばいいのだ。
徐々に金神を吸収していく。一方で父の弱りようが日増しにひどくなっていく。それでも日々それを続けた。真綿で首を絞るとはこのことである。鬼善はどの時点でか、罪悪感にさいなまれるようになった。時には自分の所業に激しい嫌悪感を抱き、吐き気をもよおしたりもした。事実、今でもそれが頭から離れない。因果応報というものがある。鬼善は恐怖のどん底にいた。鍋倉に負ける? それでは自分が間違っていたということではないか。鍋倉に金神を奪われることは自分の死以上に絶対に有ってはならないことだった。
しかし、そうなることは必至だった。大海の潮流を引き戻すことが出来ないようにこの流れを変える行為そのものに意味を見いだせない。鬼善は引き合いを続けることよりも奪われないことだけに集中した。そのうえで肉弾戦をしかける。
一挙に間合いを詰め、鍋倉の胸倉を掴むや否や投げを打った。鍋倉が地面に叩きつけられ、「かはっ」と声を上げる。鬼善はその鍋倉を無理やり起こすと回転しつつ飛び、その胸に渾身の突き蹴りを放つ。その衝撃で、ふらふらと鍋倉が後退。鬼善はそれを追って二歩、三歩と助走、そして踏切り、飛ぶ。矢のごとく、空を切り裂く蹴り、それがまた鍋倉の胸を的確に強打した。すっ飛び、鍋倉は地面をばたばたと転がっていく。
「死んだか」
鬼善は己の両手のひらを見た。未だに気雲が鍋倉に向けて流れている。
震撼した。
膂力や技のキレは衰え、かえって鍋倉は力を増している。その目は爛爛と輝いていたのだ。
「しれっとわたしの前に現れて、なんの悪びれもない。許さんぞ、そんなことはぁ」
奇声を上げて鍋倉に接近すると蹴りを無数に放った。それを避けようともしない鍋倉。血反吐を吐き、無数に放たれる蹴りの衝撃で、右に左に体がもっていかれている。どう見てもやっと立っているとしか思えない。にもかかわらず鬼善は、金神を執拗に吸引していく鍋倉を止めることが出来ない。
「取るに足らないおまえがなぜだ」
今度はさらに踏み込み遮二無二、こぶしを放つ。無抵抗の鍋倉を痛めつづけた。
「なぜ、おまえばかり、おまえばかり」
確かに、と鍋倉は思った。成り行きとはいえ鬼善の人生を狂わせ、そのうえ今まさに命まで奪おうとしている。
いや、成り行きではない。
鍋倉は隠し部屋の鍵だけを必要としていた。月見のことも考えて金神を最小限にとどめ鬼善に余命を与えようと考えていた。それがあの瞬間に変わった。神刀ころひらは当たらなかったのだ。
いや、あれは間違いなく神刀ことひらが自分を避けたのだ。あの時、鍋倉は御仏に運命をゆだねた。それが鬼善への責であり、月見を苦しめた責のように思えた。それだけでない。鴨川の隣人への責、霊王への責、今出川一門への責、殺さなくても良かった恵沢禅師への責。流罪になった教団幹部の三人へも。
御仏に運命をゆだねる。それが馬鹿で不甲斐ない自分が行えるたった一つの償いだと思えた。その上で命を拾った時、なぜか自分の手で全ての決着をつけなければいけない、とそう感じた。鍋倉は、容赦なく鬼善の金神を吸収していった。鬼善のこぶしが威力を徐々に失って行き、やがて胸を打つ一撃で、それは尽き果ててしまった。
鍋倉は目を閉じた。
あんたには悪いことをした。ごめんよ。
そこに立つのは今出川鬼善の抜け殻であった。それがゆっくりと仰向けに倒れていく。
静寂の中、地を打つ音。清が駆けよって来た。そして胸に飛び込んでくる。鍋倉はしっかりと受け止めた。抱いた清の体が小刻みに震えている。鍋倉を見つめる清の瞳が、涙に溺れている。ぎゅっと締め付けた腕を鍋倉は緩めた。そして清の背にその手の平をやさしく置く。胸にうまった清は暖かかった。
しばらく二人は、そのままでいた。
それから十日経った。今出川邸に清の手下らを中心に吉水教団の者らが結集していた。荷駄が十ほど並び、列をなしている。皆、旅支度は済ませていた。清が先頭でその横には夜叉蔵が並んだ。清の号令で行列はぞろぞろと動き出す。寝殿から鍋倉と月見は無言でそれを見守っていた。清らはこれから伊勢の工藤領に向かう。
―――時は今出川鬼善と戦った夜にさかのぼる。
昼の御座で気息法を行う鍋倉のところへ夜叉蔵がやって来た。そして唐突に、清と一緒に伊勢に旅立つと言い、それは霊王子、清が決めたことだとも言った。それで鍋倉は納得がいく。鬼善をたすけたいと言った時、清はこのことを言っていたのだ。
「だがなぜ?」
「高弁のやつに、鍋倉をこのまま盟主にしておくのなら身を引けって言われてな。あの高弁のくそがきゃ、おまえに平安京を去れって言っておきながら、今度は霊王子に去れという」
鍋倉は怒り心頭に発した。
「ならば、おれも出て行く」
「まぁ、待て。おまえさんが盟主だと吉水教団も都合が良いのじゃ。これは霊王子の願いでもある。法然様の遺骸も落ち着かん今、おまえさんだけがたよりじゃ。それにおまえさんがここでがんばってくれたら聖道門もおいそれとは教団の者を捕らえて咎人にすることも出来んじゃろ」
鍋倉は夜叉蔵の言い分に言葉も返せず、じりじりしていた。夜叉蔵が続けた。
「さすれば霊王子とその手下も用なしじゃ」
「用なしだからといって平安京を去れと? 人をなんだと思っているのか」
夜叉蔵が鍋倉の憤慨に構わず続ける。
「それにな、高弁は霊王子に《許嫁がいたんでしょう、死んだからといって鞍替えはよしなさい》と言ったらしい」
清が自分の品位を大切にする誇り高い女ゆえ、高弁の言葉がその胸をえぐったに違いない。そしてそう言われた以上、清がここにはいられないのは火を見るより明らかなのだ。
「鍋倉よ、霊王子が決心した以上、その手下らもあとに続くであろう。せめて霊王子らに代わって教団を守ってやってはもらえぬか」
鍋倉は憤りを感じた。しかし、ここまで話を聞いて夜叉蔵の申し出を断れるほど、もう安直ではなかった。鍋倉はうなだれるようにうなずいた。
「そう、がっかりするな。前にも言ったが霊王子はわしが守ってやる。それにおまえさんを見捨てる訳でもない。遠くから見守ってやる。おまえさんはなにかに導かれとる。おまえさんが何をなすのか、わしゃぁ興味が尽きんでな」
鍋倉はかんねんした。手をついて、頭を下げた。
「夜叉じい、ありがとうごさいました。御恩は一生忘れません」
夜叉蔵がへへっと笑った。
「わしはおまえさんが笛を吹いて霊王子が歌舞いするのを見たくてこうして付き合っていたんだ。全てはわし自身のため。礼にはおよばんさ。っていうか、いじいじするおまえさんには正直、閉口したぞ。押したり引いたりで、わしも無い頭を相当ひねったぞ」
「すいません」と鍋倉はまた頭を下げた。
夜叉蔵がひゃっひゃ笑った。
「結局、つまらんことであった」
そして今度は声を殺して言った。
「別れまでに一晩、いっしょにいてやれ」
夜叉蔵がまたひゃっひゃ笑って昼の御座を出て行く。それから十日経ったが鍋倉は、一度も清と顔を合わせられなかった。それは清とて同じであったろう。決心が鈍ってしまうのだ。その清が今日、最後の挨拶に現れた。盛長の時とは逆に、月見を幸せにするように、と清に言われてしまっていた。鍋倉は、うなずくことしか出来なかった。
清らの一団のほとんどはもう今出川邸の門をくぐっていた。余すところ数えるばかりである。鍋倉と月見は寝殿を降り、門まで出た。先頭の清の姿は辻を曲がって、もう見えなくなっていた。
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