第85話 雲行き
月見らは今出川邸の門をくぐった。その姿に邸内は騒ぎとなった。消えた月見を総動員して探していたのだ。それが戻った。不可解な行動ではあったが、旅装束であることから出奔しようとしたのは明らかだった。鞍馬山の関係者は皆、月見に殺到した。無事で喜んだのは無論だったが、理由が知りたかった。責めるつもりは毛頭ない。ところがその月見は、集まって来た者たちを払うようにつぼ装束のまま鍋倉の元に向かう。
一方で鍋倉は、月見が帰って来たと道意から聞き、落ち着きを失っていた。昼の御座をうろうろしているとそこに月見が姿を現し、平伏した。即座に鍋倉はその前に滑り込む。間違いなく、昨夜のことで月見は出奔した。
断るにも、もう少しやり様があったのだろうに、月見様をあのような姿にさせて、そのうえ逃げ出すなんて。相手の身になって考えた鍋倉は謝るしかなかった。「ごめんなさい」と手を着いて頭を下げた。月見はというと伏したまま大きくかぶりを振る。そして『洗髄経』を床に置いた。
「悪いのは私の方です。鍋倉様を騙したのです。それにお父様のしたことを考えれば」
全てを知ったのか。鍋倉は呆然とした。かえって月見に同情せずにはいられない。その月見が伏したまま言った。
「わたしは鍋倉様の気も知らないで、自分ばかり」
月見は今日あったことや昨日の企み、その全てを話した。それが終わるまで鍋倉は口ひとつ出さなかった。
言い終えると月見が頭を上げた。真っ青な肌に紫がかった唇。だが、大きな眼には強い光があった。それは昨夜、誘ってきた時の強い光とは違う。父を救ってほしいのだなと鍋倉は思った。
「今日はゆっくり休んでください。後のことは全てこのおれに任せてもらいます」
月見が深くうなずいた。鍋倉もうなずき返し、侍女の名を呼んだ。
簀子で待っていた侍女が畏まって前まで来た。鍋倉は言った。
「姫様をたのみます」
侍女が平伏した。そして二人して、昼の御座から出ていく。鍋倉は『洗髄経』を懐にしまい、道意を呼ばわると「みなを集めてくれ」と命じた。
かくして昼の御座には清、夜叉蔵、高弁、八龍武の五人が鍋倉の前に居並んだ。月見の探索は広範囲に及んだので顔をそろえるまでに時間は掛かってしまっていた。因みに高弁はというと、月見がいないと聞くや否や、栂尾山高山寺から急きょ参じた。鍋倉は改めてずらりと並んだその顔を感慨深く見渡した。
ところが妙だった。清がなぜかもの悲しく見え、夜叉蔵は不貞腐れているように見える。なにかあったのかと鍋倉は訝しんだ。案の定、夜叉蔵の物言いが噛みつくようである。
「雁首揃えさせといて何用じゃ。まさか、鍋倉殿。わざわざ集めといて今出川の姫が帰って来たなんてことを言うんじゃなかろうな。帰って来たのは朝じゃぞ。時刻はもうとっくに昼過ぎじゃ」
おのおの呼び戻すため使いを送った。当然、月見が返ってきたことはみな知っていよう。
「その姫様のことなんだが、今朝、鬼善に会って来た。それだけじゃない。その場で佐近次さんが鬼善に殺されたらしい。さらには、鬼善はおれとの戦いを要求している」
小さい声だが、響く声で道意が言った。
「今出川様が佐近次を殺すところを姫様は見たのですね」
それを夜叉蔵が皮肉った。
「大方、佐近次とふたりで駆け落ちでもしようとしたんじゃろ」
やはり何かあったな。まさか昨夜、おれの塗籠に月見が来たことを、夜叉蔵は知っているんじゃなかろうな。鍋倉は清を見た。清は目をそむける。
「うーむ」と鍋倉は唸って顔を手で拭う。こうも突っかかれると話が出来ない。鬼善の事は後にしようかと思った矢先、高弁が話を進めた。
「それで戦うのはいつだ」
「明朝」
「うむ」とそれっきりで高弁が退出していった。その去っていく高弁の背中を、夜叉蔵の視線が鋭く射抜く。二人の間で何かあったな、と鍋倉は思った。とすると、清が沈んでいるのもそれに関係している。清と夜叉蔵の原因は昨夜のことではない。高弁様だ。
「手出しは無用に願いたい。それを言うがためにお越しいただいた」
「当然じゃ」と今度は夜叉蔵が席を立った。清はというと八龍武に目配せをする。八龍武の五人は今出川鬼善が清の仇だと知っている。果たして清だけが残った。
「澄、わたしもそこに行く」
そう言って見据えられた。だが、清の希望を叶えられそうにない。ついて来るかどうかではない。鍋倉はどうしても鬼善を殺す気にはなれなかった。
「すまない。仇を討ってあげられそうにない。懲らしめるだけだ。勝手な言い分だがそれで何もかもお仕舞いにしてくれ」
「あなたの思うがままにすればいい。でも、見届けたいの」
本当は連れて行きたくなかったが、それで矛を収めてもらえるならば。
「いいのか?」
「もう、そう決めたの」
「?」
《そう決めた》っていうのはどうもしっくりこない。おれが鬼善を許すことをなぜ知っていたのか。快命様にはそれらしきことを言ったが、命を助けるとは誰にも言ってはいない。いや、おれが決めたことに逆らわないと決めたのか? ややこしいっていうか、そもそも月見様とは許嫁の関係にある。清は身を引くつもりなのか? たのんでもないのに? おれは月見様と夫婦になるとは言っていない。それなのにさっきの夜叉蔵。実際あの態度はおれに対して怒っている。
それともなにか。おれはもう婿気取りで、月見様のためにきっと鬼善を許すだろうと夜叉蔵は思っているのか。それでまさか、そんな馬鹿な話を清にしたんじゃないだろうな。鬼善を許すのはそんなんじゃない。
いや、高弁様だ。清と夜叉蔵がおかしいのは高弁様が関係している。《決めた》って何を決めたのか。問い詰めたい。だが、出来ない。その答えに嫌な予感しかしない。そんな雰囲気をまさに清が醸し出している。
清が立ち上がり背を向けた。こちらから何も言わなければそのまま行ってしまう。
「あのっ」と思い切る。
清が歩みを止めた。鍋倉はもう一度、呼び止めた。
「あのっ」
清は振り向いた。だが、鍋倉が言おうとした言葉を遮るように、にこっと笑顔一つ置き、足早に去って行ってしまった。
鍋倉と清は日の出前に今出川邸を出た。清は相変わらずよそよそしい。馬に揺られたその横顔もどことなく憂いを帯びている。この前まで鬼善をあんなに憎んでいたのにどういうわけか。どうして霊王の仇討ちをあきらめたんだ。それとも、他に何か理由があるというのか?
清が何を考えているのか。心当たりがある鍋倉は戸惑う想いを抑えられない。何でもない話題を振って様子をみるが、相変わらず返すのは笑顔のみ。清の真意はどこにあるのか。かくして長岡天満宮の鳥居を前にした。空は叢雲が広がり、そこに朝日が朱を滲ませる。
二人は下馬し鳥居をくぐる。鍋倉は清の顔色が変わったのに気付いた。緊張しているのか強ばっている。大丈夫、心配はない、清には指一本触れさせないから。
ほどなく今出川鬼善の姿を見た。社殿を後ろに半身となって腕を組んでいる。鍋倉は鬼善まで百歩ほどの所で、「ここまでだ」と清をその場所に置き、なおも先へと進んだ。
鬼善も進む。
二人はあっという間に二十歩ほどの間合いとなった。そこで鬼善が神刀ことひらを鞘から抜き放ち、猛然と間合いを詰めてくる。鍋倉はというと、それを待ち構えた。
鬼善は、生駒で手加減をしたことを後悔していた。一気に間合いを詰めるべく気合一声、飛んだ。瞬殺してやる! 落下するのと縦一文字にことひらを振り下ろすのを合わす。強烈な一撃が鍋倉の脳天に向かった。
が、空を切った。おかしいと鬼善は思った。着地点の目測が狂ったのか。それとも瞬時に鍋倉が移動したのか。鍋倉がいつの間にか間合いの外に立っている。天魔め! 二の太刀を入れるべく振り上げた。ぱっと鼻先に、鍋倉の姿があった。
鬼善は、はっとした。生駒でのことが頭によぎる。その手を見た。太刀が無かった。あの時は自分が鍋倉に合わせその太刀を跳ね上げた。それがまったく逆のかたちになっている。それほどまでに力の差が開いているというのか。
それでも鬼善は絶望しない。鍋倉に出来ないことをやってやると、トンボを三回切って後方に下がる。そして跳ね上げられた神刀ことひらに集中する。
さあ、ことひらよ、鍋倉の背中を貫け!
鬼善に操られたことひらは空中を旋回し鍋倉の背目掛けて飛んだ。寸前のところで半身となった鍋倉の胸元をことひらが通過、追い打ちをかけるべく鬼善はそれをとって返えす。ところが、そのことひらが鍋倉との間合いの中間、その宙で静止した。
そこからピクリとも動かない。押そうとも引こうともことひらが言うことを聞いてくれない。ふと、鍋倉の二の腕が鮮血に染まっているのを見とがめた。ことひらに接触した際に神気を注入した?
背筋に悪寒が走った。
ということは、今、ことひらを操っているのは鍋倉。……ばかな。ありえない。そう思った矢先、鬼善はぐんっと、体を持って行かれるのを感じた。踏ん張って持ちこたえたところで気付く。体のあちこちから霞立ち、それが鍋倉の方へと棚引いている。
血の気が引いた。鍋倉の手のひらが向けられている。
果たして己の神気が触手を伸ばすようにぐんぐんと鍋倉に向かっている。
「!」 まさしくこれは、金神使い同士の戦い。
考えてみればそうなのだ。弱者の金神は強者に奪われてしまう。鍋倉が戦いの最中にそれをしかけてきた。だが、そのような展開を予想だにしていない。先手を取られた感は拭えなかった。鬼善は、自分自身に問う。鍋倉が理解しがたく、油断ならんと肝に銘じていたはずではなかったかと。
とはいえ、神気はというと鍋倉には届いていない。鬼善と鍋倉の間にある神刀ことひらにぐんぐんと吸い込まれていっている。ますます鍋倉のやろうとしていることが分からなくなる。それでも鬼善は、手をかざす他なかった。このままみすみす神刀ことひらに神気を奪われるわけには行かない。渾身の気合を発した。それに呼応したのだろう、鍋倉の体が靄がかり、それが棚引きだす。当然、途中に神刀ことひらがある。鍋倉の神気も吸収し始めた。
糞太刀め!
鬼善は己の体を見る。まだぐんぐんと神刀ことひらに向けて神気は流れていっている。一方の鍋倉もしかり。お互いに流れは抑えられていない。だが、鍋倉に限っては様子が違う。焦りが見えないのだ。ただ一心に手のひらに集中している。己の金神をも神刀ことひらに封印しようとしているのか。
この気狂いめが!
こうなったら神刀ことひらごと引き寄せてやる。鬼善はさらに気合いを発する。強力な引き合い。中央の神刀ことひらを取り巻く神気に乱流が起きる。ことひらはまるで荒波に浮かぶ笹舟のようであった。刀身と柄を交互に上下、あるいは左右に激しく振っている。そこへさらに強力な引き合い。神気が渦動を始める。ことひらは渦に巻き込まれる笹舟のごとくぐるぐると回転しだす。だがそれは、水平方向だけではない。縦、横、斜めと態勢を刻一刻と移していき、挙句、光る球のようになってしまった。
「うおぉー」と、気勢の声とも悲鳴ともつかない声で、鬼善はもう一方の手のひらもかざす。片手だけでなく両の手を使って神刀ことひら諸共、全ての神気を引き寄せようというのだ。瞬間、弾かれたようにチンッと、神刀ことひらが天高く飛んで行ってしまった。強烈な渦動と強力な引き合いで思いがけない力が掛ったに違いない。
回転することひらの恐ろしい風切り音が、空いっぱいに響き渡る。だが、結果的に邪魔ものは消えた。鍋倉の目論みはもろくも崩れ去ったといえよう。鬼善は嬉々とした。両手のひらに、さらに力を入る。
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