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掃雲演義  作者: 森本英路
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第84話 決心


 なかなか賢いな、この侍女はと佐近次は思う。実際、東夷の女を連れてなんて、かっこ悪くて帰れない。わたしが見捨てるということをこの女は分かっている。そんな佐近次の邪心もそのままに、二人は言い合うほどに険悪さを増していく。挙句、侍女の言葉に月見はもう我慢ができなくなった。表情は固く強張り、歪んで、たちまちそれも、聞く耳持たずとばかりにたれ衣で隠してしまう。


「佐近次の言い分は当然です」


 捨て鉢になって月見が『洗髄経』を差し出す。それをひったくった佐近次は震える手でパラパラとめくる。「まさしく」と言うと『洗髄経』を天に掲げ、深々と頭を下げる。


「この手に得んがため東夷に身をやつし幾星霜。それがいまこの手に」


 月見が言った。「さあ、急ぎましょう、兵庫津へ」


 佐近次は冷たい視線を月見に投げかける。


「悪いが姫様、南宋には連れて行けない。仲間に笑われてしまう」


「やっぱり!」と侍女が佐近次の手にある『洗髄経』に手をかけた。その手を、佐近次が払う。


「邪魔だてするのなら女とて容赦はしない」


 佐近次は侍女を射すくめた。侍女はというと、恐ろしくなって固まってしまった。月見の声が弱々しく響く。


「仲間とは? あなたは宰相の史弥遠しびえん様に仕えていたのではなかったのですか」


 佐近次は『洗髄経』を油紙に包むのに夢中であった。


「他国の者に言うには忍びない事情がある」


 月見の表情がみるみる青ざめていく。佐近次はというと、たれ衣の上からでもそれがなんとなく分かっていた。そんな月見に対して会釈し、「我得走了うぉでぞうるぅ再见ざいじぃぇん」と動けない二人の横を足早に通り抜けた。と、この時、鳥居の下に人影を見た。黒覆面を被った男だった。雰囲気から夜叉蔵ではない。


 ……今出川鬼善。


 月見がつけられたかと佐近次は思った。ちょっと癪にさわったので振りかえって、月見に敢えて言った。


「あんたのお父様だ。生駒で鍋倉が消えたろ。あれはあんたのお父様が鍋倉をあやめようとしたんだ。みな知っているぞ。鍋倉もな。あんたが鍋倉に嫌われたのも、当然の成り行きだ」


 月見の背中越しから言ったのもある。すぐに黒覆面の男に目を戻した佐近次は、月見の反応を見ることは出来なかった。だが、どのような顔になるかは想像して言ったし、実際に後ろから悲鳴のような嘆く声が聞こえた。


 黒覆面の男が静かに歩を進める。


 佐近次も黒覆面に向かう。


「今出川鬼善、もうそんな、くだらんかっこはよせ。本当の黒覆面、あれは夜叉蔵と言ってな、お前を追いやったあの男。ほら、今出川邸でお前が教団を囲んだろ、あの時お前を簒奪者よばわりしたあいつだ」


 黒覆面の表情は見えなかった。だが、佐近次には鬼善が覆面の奥でほほ笑んでいるように思えた。この男はずっと虚弱な善人を装っていたわけだが、佐近次はそれにずっと騙され、こき使われていた。泳がされていたともとれる。我慢強く、なかなかの知恵者なのだろうが、それだけに気味の悪いやつ。


 その黒覆面の男が歩みを早めた。佐近次もそれに応じる。


 二人は正面からぶつかり合った。黒覆面の男が右、左と素早く回転し、上下幕無しの蹴りを無数に放つ。佐近次はというと手を使わない。あしには脚を。来る蹴り来る蹴りそれぞれを、一つ一つ蹴りで迎撃していき、狙い通り右上段の蹴りが来るとそれは撥ねのけずに、止めた。刹那、その止めた脚で、黒覆面の蹴りをからめ取る。咄嗟に右に転ぶ黒覆面。佐近次は脚を極めてやろうとしていたのだ。が、技は外された。それでも余裕綽々、地に仰向けとなった黒覆面の男を見下ろす。


「よく技を見切ったな。あのままならおまえは脚を極められていたぞ」 


 黒覆面の男が仰向けのまま両足を跳ね上げ、その反動で立ちあがる。


「なるほど、どういう訳か分からんが、それで黒覆面、いや、『木偶人形』と何度戦ってもおまえは生きていたんだな」


「そういうことだ。わたしには金神は効かない」


「体質か。いや、そんなのではない。術だな。よくそんな大層なのをずっと隠しおうせていれたな」


 それはお互い様だ。「やめるなら今だぞ」


「ばかな。鍋倉と戦う前にはうってつけの相手だ。それに何よりも金神が効かない人間を見過ごすはずがないだろ、このわしが」


「そう言うと思った。おれも願ったりだ。おまえらの悪辣極まりない武術に虫酸が走っていたんだよ」


 黒覆面の男が薙ぎを討ってきた。神刀ことひらを抜き放つ一連の動作からである。瞬時に佐近次は後ろに下がりつつ剣を鞘から抜いた。三尺の剣の間合いである。佐近次は黒覆面に攻撃を続けさせるつもりは毛頭ない。手を読まれぬよう軟剣特有の、剣をしならせつつささっと払うのと、刺突を繰り出すのを無秩序に織り交ぜ、放っていった。それをあえぐようによけていた黒覆面だったが、やがては、受け流す太刀捌きをちらほら見せてきていた。


 なかなか感がいい、なら、これはどうかなと佐近次は、胸元めがけた渾身の刺突を放つ。体を沈み込ませた黒覆面が掲げるように神刀ことひらを横一文字にする。水平になったその上を、佐近次の剣筋が一直線に走る。


 チンと火花が散った。瞬間、「キェイ!」と黒覆面が凄まじい気合と共にことひらを振るう。途端、軟剣は両断された。それに動じることなく佐近次は、半分先を失った軟剣を捨てる一方で、黒覆面の胸を蹴り突く。軟剣を斬るのに全神経を傾けたのか黒覆面の男はというと、その蹴りをもろに食らって後方へごろごろと転がっていく。


 間髪いれず、佐近次は猛追。起き上がろうとする黒覆面ではなく、黒覆面の手にあることひらの方に蹴りを入れ、ついでとばかりにその胸へも蹴りを入れる。黒覆面は、また後方に転がっていく。ところが、今度は追撃しない。佐近次は、地を滑って行くことひらの方を追った。


「勝負あったな」


 佐近次はことひらを踏んだ。


 金神は恐れるまでもないが神刀ことひらは正直、厄介だと佐近次は思っていた。神護寺での戦いで鬼善はことひらの力を利用しそれ自体を金神の神気で操った。それを目の当たりにして佐近次は、十分警戒に値すると思った。なにしろ紐や鎖で操作しているわけではないのだから、動きの変化はまるで際限がない。


 となれば予測は不可能。それをいま、完全に封じた。当の鬼善は、胸への一点集中攻撃を受け、もう満足には動けないだろう。その勝利を、佐近次は確信した。されど相手は邪道の輩、油断は禁物。また奪われてしまわないために、足裏の感触を失わないよう慎重に神刀ことひらを拾う。


 と、その時、どんっと後ろから押されるような衝撃を佐近次は受けた。そして、その部分から全身へ向けて高熱が広がっていくのを感じた。固唾を呑んで、己の胸を見る。


 胸から剣先が出ていた。おそらくは、背中から胸に剣が貫通しているのだろう。そしてそれは、先ほど黒覆面に両断された己の剣先であるは言うまでもない。すでに目前には黒覆面の姿があり、懐からは『洗髄経』を奪われてしまっていた。


「佐近次よ、驚いたか。見ろ、修練して精度を上げたぞ。今や、金属なら何でも自在に宙を飛ばすことができる。ま、それもこれも神刀ことひらのおかげだがな」


 まさしく邪法。しかも背後から。佐近次の目が猛り狂っていた。だが、それも一瞬。佐近次がうつむきに倒れていった。


「これは遊びではない。殺し合いだ。知らなかったのか? 佐近次」


 さげすんだ目で、横たわる佐近次にそう言うと黒覆面は手に有る奥義書の油紙を剥いでいく。血は付いてないのに一安心したが、油紙を除いてみるとそれが『洗髄経』であったのに目を剝く。


「いよいよおかしなやつよ。『太白精典』がほしいのではなかったのか? 最後の最後まで訳のわからんやつだった」


 黒覆面は月見に向かって歩を進めた。


「お父様なの?」


 月見が怯えて足をすくませている。黒覆面はその月見に『洗髄経』を押しつけた。


「鍋倉はなぜ生きている」


 その言葉で、まちがいなく父だと月見は思った。でも、どうして。


「なぜ生きていると聞いておる」


「あ、はい。毒蟲は『太白精典』で退治できると」


 はっとしたのであろう、黒覆面が一瞬動きを止めた。かと思うと、黒覆面は空に向けて大音声で笑った。その光景はあまりにもまがまがしく、その声色は、もし鵺がいたらこういう鳴き声をするのだろうと月見に思わせた。ガタガタと体が震えだす。鬼善が言った。


「鍵を出せ」


 びくっとした月見。固唾を飲んだ。


「鍵を出せ」


 このままではいけない。月見は力を振り絞った。


「もうやめて。それでわたしとどこか遠くに行きましょう」

「鍵を出せ」

「お父様」

「うるさい。だれが最強か? わたしだ。それを証明する」


「証明? お父様はもう十分お強いし、それを知らない人なんていないわ」


 その言葉を聞いて鬼善は、ふんと鼻で笑った。


「我が父はまだそう言ってくれない。だから証明する。そしたら父といえどもぐうの音も出ないはずだ」


 月見は愕然とした。おじい様は、そういうお父様に殺されたのよ。それをまだ、お父様はおじい様が生きていると信じている。


 いま、父が生き地獄にあると月見には思えた。それを救ってやれることはもう自分には出来ない。そして、鍋倉ならばあるいは、と考えた。だが、頼っていいものか。『洗髄経』を盗んできたのだ。すげなくされたからというだけで。しかも、鍋倉の立場がどうなるかも考えずに。


 わたしはなんと情けない女。それで鍋倉様のことを心底想っていたといえるのでしょうか。さらには父を救うため、わたしは鍋倉様に命を掛けさせようとしている。


 月見は悪寒が止まらない。震えておぼつかない手で懐から鍵を出し、首に掛けた紐をやっとのことで外す。それを差し出そうとしたところで、待ちきれなかったのだろう鬼善にひったくられた。


「月見よ。今更佐近次なぞとなぜ落ち合った」


 月見は答えることが出来ない。


「我が父の命でお前は鍋倉の妻にならなくてはならぬのだ。だからこそ、わしは一人で出奔した。お前はあそこにいれば安心だとな。それを鍋倉、あの気狂いめが」


 鍋倉様には想い人がいることを知らないんだ。されど、言うことは出来ない。鍋倉様憎しのあまり霊王子に類が及ぶ。そう思った月見はまだ落ちぶれてはいなかった。


「鍋倉様は何も悪くはございません。悪いのはこのわたし」


 鬼善は鼻で笑った。「やはり、あそこにはいづらいか。ならば尚更だな。鍋倉に言え。鍵が欲しくば明日この時間にここに来いと」


 月見は気が遠退いた。ふらりとしたところを侍女に支えられた。「大丈夫」と月見は自らの力で立つ。そう、わたしは情けない女。自分では何も出来ぬ。でも、出来ぬからこそ、やらねばならぬことがある。


 そこにはもう、鬼善の姿はなかった。


「鍋倉殿のもとに向かいます」








読んで頂きありがとうございました。投稿は毎日更新9時とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。

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