第82話 鍵
今頃、鬼善はどこかの秘した修行場で、鬼一法眼から『太白精典』を奪った時のように技を練磨している。いや、そんな生易しいものではない。きっと身を削るような修練を行っているはず。そしてそれは、おれを倒すその一点にだけ向けられている。
鬼善は必ずや姿を現す。
その思いは鍋倉の中で風化していくどころか、鬼善の姿が見えなければ見えないほど日増しに実感となって覆いかぶさってくる。平安京に来た時の、以前の自分なら胸が躍るはずであった。しかし、今は逆に色んな思いが交差し絡んで、それが胸を締め付けてくる。
そんな消極的な鍋倉の気持ちを、佐近次は分からない訳でもない。鍋倉としては待てばいいのだ。だからこそ、佐近次は月見のもとに向かった。北の対屋へ足早に向かう。しかし………、と佐近次は思った。
なんとしてでも、鍋倉より先に鬼善に会う必要があった。そうでなければ鍋倉と戦わざるを得ないのだ。鍋倉が高弁に黙って『洗髄経』を渡してくれるとは到底思えない。
負ける? おれがか? 八龍武と鍋倉の戦いぶりを見ていた。『刹那無双』。それが頭によぎった。佐近次は心の奥底で、鍋倉を恐れている己を知る。
「月見から鬼善の所在をつかめればよいのだが」
月見は、塗籠の隅へ行って背を丸めた。そして懐に入れた小さなこぶしを胸元に出し、それをゆっくりと開ける。そこには鍵があった。「お父様」と月見は小さく言った。三年前に父、鬼善より、この鍵を与えられていた。肌身離さず持っていなさい、絶対に人に見せてはなりませぬと言われたが、なんの鍵かは言わなかった。
今となっては察しが付く。父、鬼善が出奔してから色々な人が今出川邸に出入りし、否が応でも『鍵』の話題は月見の耳に入ってくる。確かに、父は神護寺から帰ってくるなりこの鍵を、わたしのもとに借りに来た。
「なにを隠しておいでです? 姫様」
現れた侍女が目ざとく言う。月見はあわてて懐に手を入れる。侍女がいよいよ怪しいと「なんですの、なんですの」と月見の後ろに坐り込み、しきりに顔を覗き込んでくる。
「うるさい」
侍女を突き飛ばした。倒れた侍女の驚きと悲しげな表情。月見は「ごめん」とうつむく。
「いいのですよ」
侍女が身を起こし月見の手を握る。月見はもう一度「ごめん」と言った。
「でも、わたしに秘密ですか? ……少し残念です」
侍女のさみしげな顔に月見はまた「ごめん」と言う。
「なにかは教えられないの。でもきっと大事なものだと思うの。事によったらわたしとあなたの今後に係わってくるような」
「そのようなものを、わたしはてっきり鍋倉殿からの贈物と思っていました」
月見は寂しげに言った。「鍋倉殿は鬼女がお好みなのです」
「なにを気弱わな。八龍武の仁法なぞは、なぜ姫様は声をかけなさらないのか、姫様ならどんな男もイチコロなのにと、やきもきしておられます。思い切って鍋倉殿にお声を掛けてみなされ」
月見はわだかまりを捨てきれない。侍女は続けた。
「姫様、清盛公なぞは敵将の妻を妾にしたといいます。鍋倉殿にとってもそれは武門の誉れ」
「妾!」 月見は目を丸くした。
「いやだ、わたしとしたことが。もちろん姫様の場合は別です。もともと二人は許嫁なのです。姫様さえしっかりしたお気持ちを持てば」
「ならば、なぜ鍋倉殿はあの鬼女に手を貸すの? あの鬼女だって許嫁がいたというではありませんか。あなたはこれをどう説明するの?」
侍女がたじろいだ。しかし、「今日こそはしっかり言わせてもらいます」と強い口調で続けた。
「男は太刀で戦うものです。女人はその身を以て戦います。姫様はその美しさを以て鍋倉殿を得るのです。間違ってもあの鬼女には負けてはなりませぬ」
「わたしも霊王子に負けたくないわ。けれど、恐ろしい。鍋倉殿にすげなくされてしまったら、もう生きてはいられない」
侍女はそれを何度も打ち明けられていた。だからこそである。
「あの鬼女がいけないのです。あれがいなかったら今頃、姫様はお幸せになっていたはず。されどこうなった上は、是が非でも鍋倉殿を奪うのです。そしてその暁にはあの鬼女めに目にもの言わせましょうぞ。父上の今出川様もそうすれば戻って来られるやもしれません。鍋倉殿にすげなくされたらどうしようなぞと今は考えずにそのことばかりを思うのです」
そう聞かされても月見は、奮い立ちはしなかった。父が戻って来るなんて夢物語だ。かえって落ち込むというものである。月見は言葉を失い、目線を落とす。
それから二人は無言であった。
その静寂の中、
「佐近次です。入ってもよろしいでしょうか」
と、妻戸の向こうから声が入ってきた。間の悪い奴め、と侍女が強い口調で「なに用か」と問う。
「姫様に折り入ってお話が」
月見は侍女にうなずいてみせた。侍女が苦々しく「入れ」と言う。
二人の顔を見るなり佐近次は、お取り込み中であったかと察しがつく。だが、何食わぬ顔で月見の前に坐る。
「二人だけにしてはもらえないでしょうか」
月見の目が伏した。その仕草から、姫様は不遜な佐近次を追い払われると侍女はてっきりそう思っていた。だが、月見の言葉は侍女に向けられた。
「下がっておれ、呼ぶまで戻るな」
面食らった侍女は、「姫様」と口走ったが、逆らう余地はない。しかも、人前である。侍女は言葉を呑んで退室する。
去っていく姿を見ながら月見は「なに用ですか」と問う。すげなく目線を外されたままの佐近次ではあったが、別段気にするまでもない。「実は頼みたいことがあって参りました」と切り出す。そして、「姫様は、すでに八龍武から聞いているとは思いますが」と前置きし、自分が南宋人であると言った。この国に来た経緯や目的、それを話したうえで、誰にも言っていない自分の胸の内を語って聞かせた。
鍋倉らとは成り行き上、行動を共にしていただけで、仲間だとは思っていない。だから、今出川鬼善と敵対するつもりは毛頭なく、ましてや命を欲しているわけでもない。今出川鬼善が鍵を渡してくれるならその身の安全は保障する。
当然、月見は、鍋倉の命で佐近次がここに来たのだと思っていた。それにかこつけて、心変わりした月見に恨みつらみを訴えてくるだろうと身構えもしていた。が、虚をつかれた。月見のことは頭越しであり、話すことは自分のことばかり。しかも、いけしゃあしゃあと嘘をばらした。九州の国人の次男であったはず。月見は佐近次が話せば話すほど内心、穏やかではなくなる。鍋倉を知るまで佐近次とはただの仲ではなかったのだ。
佐近次は南宋人でお偉いお方。今も昔もずっとわたしは佐近次に軽んじられていた。月見は表情を曇らせる。一方で佐近次は、その沈んでいく月見を知りつつも熱のこもった口調を止めることはしなかった。自分でも不思議ではあったが、感情の高ぶりが抑えられないのである。あるいはこれは仕返しなのかもしれない。そんなことを思いつつ佐近次はこう締めくくった。
「どうしても『洗髄経』を持って南宋に帰らなければなりません。そのためには隠し部屋の鍵が必要なのです。今出川様には決して危害を加えません。どうか今出川様の居場所をお教え願えないでしょうか」
熱く語る佐近次に目もくれず、月見はうつむいていた。真実を知って相当な衝撃を受けたのだろうと佐近次は推測する。部屋の隅に向けていた視線が今はもう自分の膝にあった。おれの話を、最後まで聞けたのだろうか。佐近次には月見が上の空のように見えた。
ところがどういうわけだろう、うつむいている月見の肌に赤みが帯びているように、佐近次には思えた。表情が見えないので何とも言えないが、怒りに身を震わせているわけではなさそうだ。むしろ、色香を漂わせている。火照っているのか? と佐近次は艶かしい月見を訝しむ。この女、何を考えている? その月見が口を開いた。
「よいでしょう。ただし、わたしもその南宋に連れて行くのが条件です」
佐近次は、月見の態度と言葉が違うのに一瞬戸惑って、慌てて確認する。
「で、では、今出川様の居場所をお教え願えるのですね」
「いえ、違います。ですがその『洗髄経』を持ち出すことは出来ます」
咄嗟に佐近次は状況を把握した。月見は鍵のありかを知っている。月見が続けて言う。
「どうやって持ち出すかは秘密です。ですからあなたにもそれは見せられません」
嬉々とした佐近次であったが、ここで月見にヘソを曲げられては目も当てられない。今出川門弟だった頃の佐近次を装う。
「姫様にそのような泥棒まがいのことはさせられません。わたしにお任せ下されば」
「いいえ、いいのです。わたしが持ち出します」
あくまで鍵の場所は教えないというのか? 一緒に南宋に渡ると言っておきながら? 佐近次はまた劉枢を呼び覚ます。月見は言った。
「平安京の西、長岡天満宮に明朝、わたしが持っていくことにします。あなたは先に行って待っていてください」
邸内でお渡しになってもよいものを。これは何かの陰謀か? そう思った佐近次であったが、この機を逃して『洗髄経』を得られようか。虎穴に入らずんば、である。さて、鬼が出るか蛇が出るか。佐近次は平静を装って、長岡天満宮で待つ約束に返事をし、立ち上がる。月見が言った。
「きっと、わたしを南宋に連れて行くのですよ」
佐近次は、はっとした。またそこに坐る。月見の連れて行けという言葉に違和感を覚えずにはいられなかったのだ。
「一つ聞いてもよろしいですか?」
「なんなりと」
「なぜ、わたしと行く気になったのです」
「最近の騒動で忘れていました。わたしが好きだったのは紛れもなく佐近次、貴方だったのです」
やはりなと佐近次は思った。本当は鍋倉が好きなのだ。だが、鍋倉のやつは霊王子を好いている。月見はいたたまれずこの屋敷を離れるか。哀れな女だ。そんな思いもおくびにも出さず佐近次は、笑顔を造ってその場を去った。
その佐近次の笑顔に笑顔を返していた月見であったが、佐近次は大事なことを忘れていた。なぜ、月見が一瞬色香を漂わせたのか。もちろん、佐近次を恋しく想ったわけではない。月見は、佐近次が消えると抑えていた胸の高まりを解き放ち、侍女の名を連呼した。
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