第80話 況んや悪人をや
法然の死に、夜叉蔵は立ち直れなかった。一時は後鳥羽上皇を殺してやろうかと考えたが、法然を思うとその気にはなれたかった。何もかも面白くなく、そんな夜叉蔵に吉水教団の者らは、法然のごとく気安く声を掛けてくる。堪らなくなって夜叉蔵は吉水教団から姿を消した。
巷に出た夜叉蔵はもう生きる気力さえない。廃人同様鴨川の畔を何日もさまよっていたが、ふと、法然の言葉を思い出すのである。
善人尚以って往生す、況んや悪人をや。
夜叉蔵はそれで黒覆面の男となった。世間への復讐にもなったし、やることが出来て生きる気力も湧いてきた。だが、心は満たされたわけではない。命はなんとかつなぎ止めた程度のことであった。
かくして月日は経ち、鎌倉の三代目実朝暗殺の報を聞く。源家はこれで完全に滅んだことになる。夜叉蔵は喜ぶというよりむしろ、愕然としてしまった。さらには承久の乱。あれだけ恨んだ後鳥羽上皇が幕府に負け、島流しにあってしまう。
これはいったいどういうことなのか。夜叉蔵は混乱してしまっていた。この世には何一つ確かなものはない。そう思うとなぜか義経と静御前の今様が頭の中に蘇るのである。あの歌声、あの音色。その手では掴めなかった。だが、確かにあれはあった。今も頭の中にはっきりと残っているし、実感もある。心が満たされていくのである。そんな時、夜叉蔵は鍋倉と出会った。
法然の遺骸が運ばれたあの夜、霊王子と並ぶ鍋倉にすぐさま義経と静御前を連想した。もしかしてやつならわしの願いを叶えてくれるかもしれない。竜笛を教えてみたり、霊王子を連れて逃げろとそそのかしてみたり、それこそ師、鬼一法眼の書状を盗んでみたりと、色々手を尽くしはしたが。
事は想像したのとは別の方向へ行こうとしている。あの書状のせいであり、それを押して無理矢理、いや、騙してでもいい。二人に今様をさせることも考えられなくもない。だが、二人の気持ちが一つにならねば何の意味がある。あとは二人の問題なのだ。夜叉蔵はもう、見守るしかなかった。
わしもざまぁねぇな。若い頃、戦場で染み付いた、まず行動という己に課した規範が二人の間では全く通じない。出来ることと言えば手をこまねいている己を罵ることだけ。実際、色恋沙汰は苦手だった。夜叉蔵はそういう想いを抱いたことがなかったのだ。
やることを失ってしまって、だらしなく過ごす夜叉蔵。その一方で二人の仲を阻もうとする元凶がそろいもそろって向かって来ている。透渡殿の勾欄に手を掛け寝そべる夜叉蔵の横を避けるように彼らは進んでいた。普通なら蹴とばされるだけでは済まないだろう。寝そべった夜叉蔵はニヤついて聖道門の歴歴を仰ぎ見る。当の歴歴は見て見ぬフリ。彼らにとって夜叉蔵は、目に触れるにも汚らわしい存在といったところか。
夜叉蔵はふと、その中の一人が比叡山の鶴丸であることに気付く。神護寺で今出川鬼善と最初に戦った男であった。鶴丸は鶴丸で「はて? この男、もしや」と、だらしなく寝そべっているのが夜叉蔵であることに気付く。すっと聖道門の歴歴から離れ、夜叉蔵の前でしゃがむ。
「夜叉蔵! やはりおまえか。平安京をにぎわしていたかと思えばこんなところに」
その頃、昼の御座で昔話を語る快命とさし向いで鍋倉は、暗澹と寂寥感を交互に味わっていた。そもそも鍋倉は、夜叉蔵がどういう人かまったく知らなかったのだ。快命は言った。
「味方の裏切りで自害に追い込まれた義経公は左胸の下に太刀を刺すとそこから三方に腹をかき切り、臓腑を散々に引っ張りだしたといわれる。この時、夜叉蔵も傍にいたそうじゃ。それからそのお遺骸を守り奉らんとたった一人で矢面に立ったというが、生き延びたのじゃなぁ」
そういうと快命は目を瞑った。
「わしも源平の合戦に参加したが、その折、夜叉蔵を見たことがある。やつは身分は下郎ではあったが、馬上を許された豪の者と聞いた。絶えず義経公に近侍していて、そう、神護寺で貴殿に再会した時とその光景が重なった。それでもしやと思ったんじゃ。義経公のように貴殿なら人がやれないことをやってくれるとな」
快命の満面の笑みに鍋倉は、手放しで喜んでいられなかった。もの寂しさが心から離れない。
「ところで、鍋倉殿、鬼善のやつは?」
「あ、はい」と鍋倉は襟を正した。「佐近次という者が鞍馬二百、霊王子が手下二百で追っていますが、未だに」
「是非もない。その二人ではあの天魔を取り押さえようなぞ無理な話じゃ」
鍋倉が手を下さないことには埒が明かないと快命が暗に言っているのだ。しかし、鍋倉は気乗りしていなかった。
「あの二人はどうしても今出川鬼善を捕らえなければならない理由があります。ですが、おれには」
清のことを考えた。結果的に鬼善は清に指一本触れることはなかった。
「あれだけ世間を騒がせてもか?」
「実は事情が有って鬼善はまたこの屋敷に戻って来るかもって思ってるんです。だからおれと夜叉じいがここに留まってるわけで」
「事情?」
鬼善が出奔した際、奥義書のある隠し部屋の鍵も持って行かれたこと、そこには仕掛けがあるかもしれないことを告げた。
「じゃあ、各山の奥義書はそこから取り出せない訳か」
「鬼善をどうしても責めきれないんだ。やつはなんだかんだいって正々堂々と戦った。高弁様との戦いにしたって、経絡を一瞬ですが、絶ったというじゃありませんか。その気になれば最初にそれをすることだって出来たんだ」
「買い被るな、それが出来ないからこぶしをぶつけ合ったんじゃろうに」
「太刀を動かしたというじゃありませんか。あれはあの時、初めて出来た技だと聞きます。試合後、鬼善がそれを自慢げに八龍武の面々に話したそうです。ただ神刀ことひらでしかその技は使えないとも聞きました。けど、現にそれをやってのけた。高弁様と戦った時には『太白精典』は完成していたことになる」
鍋倉の言い分は別として、なんという恐ろしい術であるか。改めてそう思った快命は唸る。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。鬼善を認めるわけにいかないのだ。
「鬼善が自在に相手の経絡を絶てたとしてだ、鬼一法眼はどう説明する? 噂で聞いたぞ。この屋敷の地下で殺されていたというではないか」
鍋倉らは鬼一法眼の遺体を発見した後、その地下から遺体を引き揚げた。その時、今出川邸は蜂をつついたような大騒ぎとなった。
「これは定かでないんですが、どうも鬼一法眼は『太白精典』を使って清盛公を死に追いやったらしい。その鬼一法眼を鬼善がこらしめたともとれるでしょう」
実際、清は複雑な気分であったろう。霊王を殺したのは鬼善だったが、鬼一法眼が清盛公を殺したと霊王がもし聞いたならば、鬼一法眼の誅殺を最も望んだのは他ならぬ霊王本人に違いない。
「滅多なことを言うもんではない。貴殿は鬼一法眼殿の後継者。鞍馬の僧兵を束ねる者であり、聖道門の盟主でもある。鬼善はあくまでも反逆者なのだ。それに平家の残党の首領、霊王も、鬼善に殺されたというじゃぁないか」
「それはおれに責がある。夜叉じいや佐近次さんにさんざん言われていたんだ。霊王の解毒剤を盗めって。そうしていたらこんなことにはならなかった」
「いや、貴殿がためらったからこそ、逆に不要な争いが治まろうとしているんじゃ。わしはのぉ、貴殿に祝いを言いに来たのと同時にお願いにも来た」
「『太白精典』ですか?」
「いや、それはこのまま貴殿に預かっていてほしい。それより!」
てっきり快命が『太白精典』を取り戻しに来たかと鍋倉は思っていた。
「鍋倉殿、貴殿は月見殿と夫婦になれ。貴殿はふらふらしてどうも危なっかしい。っていうか、お人よしすぎるんだ。自分を置いといて人の事をなんて出来ないよう、お子を造れ。わしは貴殿がこのまま盟主の座に坐っていてほしいんじゃ。それが皆の安寧に繋がるというもの」
またその話か。鍋倉はため息をつく。それは八龍武の面々から耳にたこが出来るほど聞いていた。いらぬ噂も広がっている。それでか分からないが、困ったことに月見はというと、隠し部屋に籠って誰とも会おうとしない。
道意が現れた。そして、「聖道門のお歴歴のおなりです」と畏まる。快命が「さっそく、おでましか」と憮然とする。かくして聖道門の歴歴十三人が鍋倉を取り囲んだ。
「して、今後どうなさるおつもりじゃ、盟主殿」
開口一番、比叡山の慶海が同盟の諸事をどうするか突き付けてきた。もとよりそんなことなぞ考えたこともない。鍋倉としては流れでこうなったのをむしろ、なげいている。
「鍋倉殿、約定を御存じかな?」と冷ややかな目の慶海。
鍋倉は、一度さんざんに蹴られた慶海には良い想いを持っていない。そんなことしるか、と内心口汚く罵った。当の慶海はというと、嫌われているのを十分承知している。今更どうってこともないとあくまでも強気を通すつもりのようだった。
「当然、知る訳もないか。なら、この同盟はご破算じゃな。奥義書は返還してもらおうか」
慶海のやつめ、約定なぞと偽りを申しよって。皆で決めたことは、勝った者は盟主となり、今出川邸を政庁とする、ということ。各山の奥義は盟主の管理下に置かれ、伝授は盟主の裁量で行われる。それ以上でも以下でもないのに慶海め。快命は、向かっ腹が立った。ぎゃふんと言わせねばなるまい。
「その奥義書をしまってある部屋に鍵がかかっておってな、その鍵は鬼善のやつが持っているのだと。無理に開ければ仕掛けが働くらしい。ほしくば貴殿のその手で鬼善を捕まえることじゃな」
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