第56話 女難
鍋倉の笛の上達ぶりはめざましかった。ただもてはやされていただけの当初と比べ、聞く方も真剣に受け止めるようになっていた。「あそこでつまづいた」とか「音色が変わった」とか皆、口うるさい。夜叉蔵と並奏する時なぞはそれが一層盛り上がる。夜叉蔵と比べてくすんだ印象を受けるのに、「どうして? 同じように演奏しているのに」と集まった人らは議論になる。
当の鍋倉はというと自分の何が悪いかがよく分かっていた。蓮阿の笙を思い出すと、やはり気が全く使えないのが致命的であった。おそらく蓮阿は、笙を好んだから丹田を荒らすことが出来なかった。鍋倉の場合、気を込めての演奏は死に至る。気功に頼らない方法を模索する以外なかった。「西行様は丹田の荒れたところから森や海や川が出来た」と蓮阿が言ったのを思い出す。
おれにもそれが出来るだろうか。
救いがたい自分には無理だと思う。それでも気の良い仲間たちに笑顔を貰い、演奏を始める。そんな矢先のことである。
不意に清が姿を現したのだ。河原を一人、水干を風になびかせ一直線にこちらに向かって来ている。突然のことで、見物人の誰かが驚いて思わず「霊王子様」と声を上げた。その名を言ってはならないのに言ってしまった。それが清に聞こえたかどうか。見物人らに緊張が走った。
清はというと、どう見ても機嫌が悪そうだった。歩いている姿は二尊院で別れた時の雰囲気そのまんま、いや、それ以上のように鍋倉には見えた。こりゃ、まじぃかな。やっぱり、まじいよな。見物人の八割は女だった。
石に腰かけていた夜叉蔵がわざとらしく慌てたそぶりで河原にひざまずき平伏する。見物人のほとんどの者が吉水教団信者であったので当然、それに続く。
清が来るまではまだ距離があった。鍋倉は笛を夜叉蔵に渡すと清に聞こえるよう大声で言った。
「ここにいるのはおれの仲間だ。ちょっとした粗相でこらしめようっていうのならおれが許さないからな」
その言葉を聞いているのかいないのか、速度が落ちる様子もなく清はすたすた向かってくる。そして目の前に来るなり拳を振り上げ鍋倉の顎目掛けてそれを放ってきた。
いきなりかよ、と鍋倉はその拳をちょいと下に払う。途端、清の体は宙でぐるりと回転した。鍋倉は両手を差し出し宙でそれを受け止めた。果たして清は、鍋倉に横に抱き上げられたかっこになってしまった。その清に、鍋倉は顔を近づけ言った。
「前は殴られて気を失ったけど、今日はそうではなかったな、清」
清が赤面し、鍋倉の頬を張ろうと手を挙げた。が、敵わないと諦めたのだろう、その手をひっこめた。鍋倉は清をそっと地に降ろした。
「盛長殿には申し上げたが、高弁という偉い僧が聖道門を一つにまとめようと計画している。そうなればあんたらに災いとなろう。なにか手を打つべきではないのか」
その言葉に清は取り乱した。
「人の心配より自分の心配をしたらどうなの? あなたなら広隆寺に忍びこんで解毒剤を奪うことも難しくはない。なのに、なんで悠長に笛なぞ吹いているの」
鍋倉は唸った。確かに考えてみればそうであった。清の言いぶりからみて、おそらくは手下の警戒を手薄にしているのだろう。武家の方にしてもあの馬面の入道蓮生である。霊王を説得してくれると言ってはくれたけれども、それは申し訳ないが期待していない。そういうのは得意そうには見えなかったし、現に法然の棺を運んだあの夜、「すーみ、すーみ」と連呼する信者たちを止めるどころか、より一層盛り上げてしまっていた。まず間違いなく霊王の説得は無理だとして、少なくとも警戒を緩めるぐらいのことはしてくれよう。
そう考えると思い当たる節がない訳ではない。広隆寺を訪れた折、山門に兵がいたにもかかわらず簡単に通された。清はおれにそれを気付かせようとわざわざここにやって来たんだ。だが、そんな簡単なことをおれはなぜ、考えなかったのだろうか。なぜ、こんなところで悠長に構えていたんだろうか。
この際、解毒剤を奪うか? いいや、例え解毒剤を奪ったとしても金神はなおも体内にあり続け、生きるという点では何の解決にもなってない。
死は先に伸ばせる。だが、それと引き換えに教団との関係、いや、清との関係を失う。そんなのに何の意味があろうか。いや、待てよ。
そういうことか! 鍋倉の頭に清の今様が浮かんだ。
おれは命より大切なものがある。もし天命があって生きられるのなら、むやみやたらに人を殺さず、美しいものをいとおしもうと心に誓った。それとてあの蓮阿様のように清の歌舞の演奏をしたい一念。今、はっきりとした。その時こそ気功を屈指する時だと。あの幸福感を味わえるとなれば命なぞもうどうでも良い。
「笛がうまくなったら、おれの演奏で歌舞いをやってくれないか。清」
清がわなわなと震えた。怒気をみなぎらせる。
「あなた、人の話を聞いていたの」
「え?」 なんで? 鍋倉には清の怒っている理由がいまいち分からなかった。
「あんたなんか、死ねばいいのよっ!」
鍋倉は面食らった。清の言いぶりはもう捨て台詞と言って良い。清はすたすたと行ってしまった。その背中は振り返ることなくどんどん遠ざかって行く。
ずっと平伏していた夜叉蔵は立ち上がり、脛に食い込んだ砂利を払う。
「あぁあ、怒らしちまって。ああいうことは機を見て言わなくちゃいかん。雰囲気あるところで、盛り上がって来た時に。なのにおまえさんてやつは。ぽっと頭に浮かんだら考えもなしに、すっと言いよって」
そうじゃないよ、考えた挙句なんだ、夜叉じい。鍋倉はなごり惜しそうに離れていく清をじっと見ていた。見物人らはというと緊張が解かれたようだった。清を、いや、霊王子を見られた幸運に皆、興奮していた。中には初めて見た者がいたであろう、喜びの声を上げる者もいた。
一人落ち込む鍋倉。そこへ性懲りもなく夜叉蔵が肘でつっついてくる。うるさいなと思いつつ、「わかった、練習だろ」と鍋倉は手を差し出す。預けていた笛が置かれるのを待っていたがそれは一向に手渡されない。「どうした?」と夜叉蔵に目をやると夜叉蔵はこれ見よがしに咳払い一つする。そして清が消えた方と別の方向、遠くを指差した。今度は何なんだと鍋倉は、その方向に目をやる。遠目に月見とその侍女の姿があった。
その月見はというと、鍋倉と霊王子のやり取りを全て見てしまってひどくうろたえていた。そこに突然の鍋倉の視線である。ドキッとした月見は心の内を悟られまいとして、慌ててその場を後にした。
鍋倉はそんな月見の変心に全く気付いていない。可哀相な月見様。けど、おれには何も出来ない。遠ざかる月見に向けて鍋倉は小さく頭を下げた。夜叉蔵は、にしゃっとする。
「おまえさん、ここにきて女難だな。こわい、こわい」
ところが不快になって帰って行ったのは、清や月見だけでない。盛長もそうだった。広隆寺から清が出て行くのを見とがめ、行き先は鍋倉のところだろうとその清に悟られないよう別の道を使って鴨川の河原にやって来ていたのだ。
果たして清は鍋倉に会っていた。というか、抱き上げられていた。後のことは知らない。それを見た途端、怒り心頭に発しその場を去ってしまっていた。
「もし、『撰択平相国』を十巻耳を揃えて持って来たとしても絶対に解毒剤を渡さん」
そう雑踏の中で吐く。かくして広隆寺に着くころには、渡さない理由を幾つか思いつき、むしろ楽しい気分になっていた。
平安京での比叡山と吉水教団の激突から今日で一月と二十余日。
暗雲垂れこめる中、聖道門の各山はおのおの十数名程連れだって高雄山神護寺の境内に次々と姿を現した。僉議は空の下で行われる趣向となっていた。互いに信じる教えが違うための配慮である。すでに高弁が待ち設けていて、境内に用意された床几におのおのの代表を案内した。
坐する位置は、平安京から見た各山の方角を模して円形に並べられた。鞍馬山から右回りに比叡山、三井寺、西大寺、東大寺、興福寺、元興寺、唐招提寺、大安寺、薬師寺、熊野三山、大峰山、高野山、愛宕三山、栂尾山とした。代表者は各々の席に着き、随行団はその後ろに固まる。
かくして各山の席は時間の経過と共に順調に埋まっていき、最後に鞍馬山を残すのみとなっていた。いまだ定刻には至っていない。各山の代表者は鞍馬山を気にするそぶりもなく雑談を始めた。
話題は僉議の本論、だれを盟主に据えるかだった。場を仕切る高弁はそれを捨て置いた。時刻からいって会は始まっていないし、何よりすでに根回しにより南都北嶺の交代に決していたからだ。
各代表者らもそれが分かっていたので、だれを盟主にするのかという言葉の裏におべっかをのぞかせ、比叡山と興福寺に一生懸命取り入る。そのおべんちゃらもたけなわとなった頃、熊野別当快命が場の雰囲気をがらりと変えた。鞍馬山が遅いのを良いことに遠慮なしに言う。
「鞍馬山は今出川鬼善を庇護し、熊野三山の秘宝『太白精典』を返却しようとしない。あらたに盟主になった方はこの問題を解決してくれるのであろうなぁ」
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




