第54話 乱脈
「わたしが東大寺の焼け跡の中から発見したのはあなたが言うその写本です。原本は依然として大陸にあった。我が国にはありません」
そう高弁が言うと佐近次が返した。
「それでも原本には近い。わたしやあなたが写したのとは意味が違います」
「それも一理。が、わたしが所蔵しているとはいえ、あれはわたしの物ではない。この国のものです。それに写本と雖も『洗髄経』と『易筋経』の一対はあなた方から我が国に贈られたもの。大事な物を贈るということはあなた方に相当な事情があったのでしょう。それを顧みず、譲ってくれと言うのはいかがなものか。我が国とてなにかと骨を折ったでしょう。あなたがやろうとしていることはその先人たちの苦渋の決断や苦労を愚弄しているってことになる。とはいえ、私どもも偉そうにはいえない。努力を怠り、『易筋経』を平家の東大寺焼打ちで焼失してしまった。残念でなりません」
「つまり、どうしてもだめというのですね」
「佐近次さん、いや、劉枢殿。あなたは稀代の大家でしょう。されど、およしなさい。わたしは命を失うことになってもその所在を言うことはないでしょう。悪いことは言いません。写本を受け取りなされ。わたしにはいつでもそれを渡す用意があります」
そう言うと高弁が間道を先に進んで行く。佐近次は高弁が見えなくなるまでそこにいた。しばらくは放心していたが、みるみる内に表情が強ばっていく。
突然、「操ッ!」と大音声を発す。この時、佐近次の表情は鬼気迫っていた。
平安京、今出川邸の昼の御座に鬼善と八龍武の五人が集っていた。鬼善は、横一線に並んで座っている八龍武を前によわよわしく言った。
「どうしても行くのか?」
『磐座』の道意が言った。
「いや、黒覆面の一件もありますし、今出川様をお一人にすることは出来ません。ですから鬼善様にも神護寺まで御足労して頂くと言っているのです」
つい今しがた、鞍馬寺の稚児が文を届けた。それは鞍馬別当から八龍武に宛てた書状で内容は、神護寺で行われる聖道門の僉議に参加せよとのことであった。鬼善は納得がいかないのか、「あなた達は一体わたしの手の者か? それとも鞍馬別当の手の者か?」と八龍武を困らせるような言いぶりである。
そんな聞き分けの無い鬼善に、八龍武の面々は顔を見合わせていると自然にその視線は『葉隠し』の理救に集まっていった。理救はというと、え? って顔をし、嫌なのを露骨に顔に出した。それでも面々の視線は外れない。仕方ないとあきらめたのだろう、理救は嫌々言った。
「鬼一法眼様は熊野三山を出た後、鞍馬寺に席を置きました。熊野で学んだ占術で都に宅を得たといえどもやはり所属はそのまんま鞍馬寺です。もし鬼一法眼様がおられるのなら鞍馬山として神護寺に向かわれるでしょう」
鬼善がむっとする。
「親父様ならな、大手振って行くでしょう。で、わたしはあなたたちの後ろでじっとしとけと?」
道意が口調を強めた。「しかたがないのです。あなた様は陰陽師なぞと公家風を装いその身を僧籍に置かない。鞍馬との縁を遠くしてしまったのです。されど鞍馬はともかく、我々はただ今出川様を黒覆面の男から守りたいだけなのです。どうかご一緒するようお願い致します」
鞍馬別当からの書状には僉議出席とは別に、今出川鬼善をその場に連れて行くようにと書いてあった。おそらくは、『太白精典』のことでつるしあげを食うのであろう。八龍武の間ではそう意見が一致していた。鬼一法眼が雲隠れして以来、『太白精典』は誰のものかはっきりしていないのだ。熊野三山はともかく、私のものだと誰が言い出すか分かったものではない。そこへ鬼善を連れて行くのはいかがなものか。かといって、黒覆面のことがある。『変幻』の円喜が殺されたのだ。鬼善一人を置いて神護寺へ行く訳にもいかない。面々にとっては苦渋の決断だった。
鬼善は呆れ顔でため息一つこぼした。
「だいたい、あなたたちは寄ると触ると喧嘩ばかりでまとまりがない。それどころか仲間の一人、陽朝が失せてしまっても気にする様子がない。よくもまぁ別当も、あなたたちを鞍馬山の代表に選んだものだ。鞍馬山を貶めて帰って来るのが関の山だというのに」
驚くことに、今までおどおどしていた鬼善がどういう訳か手の平を返したのだ。目を白黒させた八龍武の面々だったが、はたと我に返りいきりたつ。とはいえ、悪態となれば『かぶとわり』の仁法が八龍武では一馬身ほど抜けていた。
「今出川さんよ、いまのはちょっと捨てがたいな。鞍馬山別当はすでに比叡山とも連絡を取っているんだ。根回しをしてるわけ。分かる?」
鬼善は鼻で笑った。そして言う。
「鞍馬寺は比叡山の言うてみれば末寺扱い、当然だろ。そんなことよりお前らはどうするつもりだ? 同盟を結ぶとなれば、当然、盟主を選ばなければならん。となればふつう盟主は南都北嶺と称される興福寺か比叡山だ。その興福寺は南都七大寺の一だ。他の六寺の推挙は固い。そこに今回の発起人、高弁の栂尾山を入れてみろ。あやつは東大寺の学頭だぞ。神護寺に結集するのは十五山。つまりだ、お前ら鞍馬寺は人数合わせにもなっていない上、『太白精典』をめぐるいざこざで仲間内からも集中攻撃を受ける」
気に入らないのが仁法の表情に丸出しである。
「数の上で不利だろうが、比叡山は何か考えが有って高弁の話に乗ったんだ。そうじゃなきゃ初めから突っぱねているさ。比叡山が加わらないとなれば同盟といってもないものと同じだからな」
「めずらしく良いことを言ったな。しかし以後、お前はわしの許し無くしゃべるな。気分がめいる」
「なにおぉ」と仁法一人が再びいきり立ったが、鬼善は気にとめることなく続ける。
「比叡山は今頃、興福寺と協議を繰り返しているだろう。つまりだ、やつらは盟主を交互に就こうと考えている。いずれにしても『太白精典』はやつらに奪われるだろう。それでだ」
鬼善は懐から『太白精典』を取り出した。途端、八龍武の表情に色が消え失せた。思考が停止したのか『太白精典』にくぎつけとなる。
「他がどうだこうだと言うより先ずは何と言っても鞍馬山を一つにすることだ。だがこれは殊の外簡単。八龍武は横一線というのがよくない、お前らもそう思っているだろ? で、この『太白精典』だ。これを一番早く取った者を首領とするっていうのはどうかな?」
………『太白精典』。 鬼一法眼は名声をほしいままにし、その弟子義経は当時不可能と思われた平家打倒を成し遂げた。鬼善は、それを床に置くと無頓着に床に滑らせた。白い冊子が薄墨色の床を回転しながら走って行き、八龍武の三歩程前で止まった。途端、八龍武の誰もが構えを見せた。それ目掛けて飛ぼうというのだ。
が、「待てっ!」と『磐座』の道意が待ったを掛ける。鬼善はというと、せせら笑い、言った。
「はて、大嫌いなわしに無理矢理付き従っていたのはそれが目当てだったからではないのか?」
顔を赤らめた道意が「公平ではない」と振り絞るように声を出す。確かに道意は横に並んだ一番左端であった。一斉に飛びかかったとして『太白精典』をその手に握れるのか。否。考え得るは『かぶとわり』の仁法だろう。速度が持ち味であり、遠藤為俊との戦いではその使い方次第で軽功も硬功に勝るとも劣らないことを証明して見せた。
とはいえ、『葉隠し』の理救も侮れない。その手はすでに袖の裾に隠されていた。暗器の名手。袖にはどの様な暗器が隠されているのか。おそらくはそれを投げ、自分の手元に『太白精典』を引き寄せるつもりなのだろう。そして『谷潜り』の潤煙。四つん這いからの攻撃を得意とし、地を走り、頭上高く飛ぶ。座っているこの姿勢からであるならばあるいは、仁法よりも早く『太白精典』を手にするかもしれない。だが問題は、そこからなのである。
読んで頂きありがとうございました。次話投稿は日曜日とさせていただきます。今後ともよろしくお願いします。




