黒い海
エリュは、断崖絶壁に辿り着いた。灯りのない夜の森は彼女を迷わせ、逃げ道のない崖まで導いたのだ。彼女はすぐに森に戻り、村人へ伝えようとした。
物音がしてエリュはびくっとした。
「母さん?」
振り返ると、母を引きずって、鎖鎌を持った男が現れた。母は、傷だらけで、気を失っていた。
「母さん!」
「おら起きろ、シェサーナ」
男が数度小突くと、シェサーナは目を覚ました。
「さあ、あれはどこにある? 娘の命と引き換えに答えろ」
男はエリュの後ろから首に手を回し、鎌を突き立てた。シェサーナは目を閉じた。
「あれはもう失われてしまったのよ。わたしにも分からない」
「まだ言うか。娘の命が惜しく――」
エリュが男の腕を噛んだ。男が悲鳴を上げ、エリュを離した。シェサーナはその隙を見逃さず、短剣は魚を捕らえんとする海鳥の如く、正確に男の額に突き刺さった。
「おのれ!」
鎖鎌使いが、シェサーナの足に鎖を絡ませた。男は笑みを浮かべると、自ら崖へ落ちていった。シェサーナは鎖の絡まった足から崖へ引きずられていった。シェサーナは鎖を断ち切ろうとしたが、男の重みに耐えられず、短剣は弾け飛んだ。絡みついた鎖は男の怨霊が乗り移ったかのように、シェサーナを黒い海へと導いていた。
「母さん!」
エリュは母の腕をつかんだ。しかし、少女一人の力では大人二人の重さは耐えられず、すぐさま崖の先に引き込まれていった。
「エリュ! 手を離しなさい!」
「いやだ!」
シェサーナの腕は血で濡れて、エリュの手の中から滑り落ちていた。母の後ろに、黒い影が見える。死の妖精が、男の魂を奪おうと寄ってきたのだ。男は執念だけで、鎖を持つ手を離さなかった。
それでもエリュは母を引き上げようと、その手を離さなかった。シェサーナは首を横に振った。あなたは落ちてはいけない。自分はむしろ安堵しているのだ。もうこれで、罪の記憶に悩まれることはない。シェサーナは目を閉じた。エリュの今にも泣き出しそうな顔は、見るに耐えられなかった。
「エリュ……あなたは生きるのよ」
シェサーナは腰から自分の短剣を取り出すと、命綱となっている自らの腕にあてがった。エリュは目を大きく見開いた。自分の腕を切る気だ。
「だめ!」
エリュは思わず母から短剣を奪おうとして、右手を離してしまった。エリュの手から母の腕は滑り落ち、ついにエリュの手から抜けた。エリュは母の腕を再びつかもうと手を伸ばしたが、遅かった。海へ落ちていくシェサーナの表情は穏やかだった。ごめんね、エリュ。最期に、あなたの優しさを利用するような真似をして……。シェサーナは風に弄ばれたが、風にはシェサーナを押し上げる力はなく、彼女は、そのまま海の黒い口へ飲まれていった。
「母さん!」
エリュは嗚咽を漏らした。黒い海と冷たく吹く風はその声ですら飲み込み、母の耳に聞こえることはなかった。
エリュの背後で、何かを引きずる音がした。風除け布をつけた剣士がエリュを見下ろしていた。剣士は、エリュの肩に手を置いた。
「シェサーナは死んだのか?」
死の恐怖がエリュを襲った。彼女は肩に置かれた手を払い、後ずさりをして、後ろに倒れた。もう逃げられない。海に溶けそうな黒髪を海から昇る潮風が乱した。男は剣の柄に手を伸ばした。
「あれについて――〈虹霊の水晶〉について何か知っているか?」
「こっ、こうれいのすいしょう?」
エリュの反応に、知らないようだと剣士は判断した。
「忘れてくれ。なあに、忘れるのは簡単だ――」
剣士が剣を抜いたのと、エリュが手をかけていた崖が崩れたのは同時のことだった。エリュは風が苦痛の悲鳴を上げるのを聞いた。無数のシルフがエリュの顔を覗き込み、何か口を動かしていたが、風の悲鳴はそれをかき消した。冷たい海水が無数の刃のように彼女の身体に突き刺さり、エリュの涙は海水に溶け込んでいった。彼女は、ウンディーネが暗い海の中で泳ぐのを最後に視て、意識を失った。