表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/40

黒い海

 エリュは、断崖絶壁に辿り着いた。灯りのない夜の森は彼女を迷わせ、逃げ道のない崖まで導いたのだ。彼女はすぐに森に戻り、村人へ伝えようとした。

 物音がしてエリュはびくっとした。

「母さん?」

 振り返ると、母を引きずって、鎖鎌を持った男が現れた。母は、傷だらけで、気を失っていた。

「母さん!」

「おら起きろ、シェサーナ」

 男が数度小突くと、シェサーナは目を覚ました。

「さあ、あれはどこにある? 娘の命と引き換えに答えろ」

 男はエリュの後ろから首に手を回し、鎌を突き立てた。シェサーナは目を閉じた。

「あれはもう失われてしまったのよ。わたしにも分からない」

「まだ言うか。娘の命が惜しく――」

 エリュが男の腕を噛んだ。男が悲鳴を上げ、エリュを離した。シェサーナはその隙を見逃さず、短剣は魚を捕らえんとする海鳥の如く、正確に男の額に突き刺さった。

「おのれ!」

 鎖鎌使いが、シェサーナの足に鎖を絡ませた。男は笑みを浮かべると、自ら崖へ落ちていった。シェサーナは鎖の絡まった足から崖へ引きずられていった。シェサーナは鎖を断ち切ろうとしたが、男の重みに耐えられず、短剣は弾け飛んだ。絡みついた鎖は男の怨霊が乗り移ったかのように、シェサーナを黒い海へと導いていた。

「母さん!」

 エリュは母の腕をつかんだ。しかし、少女一人の力では大人二人の重さは耐えられず、すぐさま崖の先に引き込まれていった。

「エリュ! 手を離しなさい!」

「いやだ!」

 シェサーナの腕は血で濡れて、エリュの手の中から滑り落ちていた。母の後ろに、黒い影が見える。死の妖精が、男の魂を奪おうと寄ってきたのだ。男は執念だけで、鎖を持つ手を離さなかった。

 それでもエリュは母を引き上げようと、その手を離さなかった。シェサーナは首を横に振った。あなたは落ちてはいけない。自分はむしろ安堵しているのだ。もうこれで、罪の記憶に悩まれることはない。シェサーナは目を閉じた。エリュの今にも泣き出しそうな顔は、見るに耐えられなかった。

「エリュ……あなたは生きるのよ」

 シェサーナは腰から自分の短剣を取り出すと、命綱となっている自らの腕にあてがった。エリュは目を大きく見開いた。自分の腕を切る気だ。

「だめ!」

 エリュは思わず母から短剣を奪おうとして、右手を離してしまった。エリュの手から母の腕は滑り落ち、ついにエリュの手から抜けた。エリュは母の腕を再びつかもうと手を伸ばしたが、遅かった。海へ落ちていくシェサーナの表情は穏やかだった。ごめんね、エリュ。最期に、あなたの優しさを利用するような真似をして……。シェサーナは風に弄ばれたが、風にはシェサーナを押し上げる力はなく、彼女は、そのまま海の黒い口へ飲まれていった。

「母さん!」

 エリュは嗚咽を漏らした。黒い海と冷たく吹く風はその声ですら飲み込み、母の耳に聞こえることはなかった。

 エリュの背後で、何かを引きずる音がした。風除け布をつけた剣士がエリュを見下ろしていた。剣士は、エリュの肩に手を置いた。

「シェサーナは死んだのか?」

 死の恐怖がエリュを襲った。彼女は肩に置かれた手を払い、後ずさりをして、後ろに倒れた。もう逃げられない。海に溶けそうな黒髪を海から昇る潮風が乱した。男は剣の柄に手を伸ばした。

「あれについて――〈虹霊の水晶〉について何か知っているか?」

「こっ、こうれいのすいしょう?」

 エリュの反応に、知らないようだと剣士は判断した。

「忘れてくれ。なあに、忘れるのは簡単だ――」

 剣士が剣を抜いたのと、エリュが手をかけていた崖が崩れたのは同時のことだった。エリュは風が苦痛の悲鳴を上げるのを聞いた。無数のシルフがエリュの顔を覗き込み、何か口を動かしていたが、風の悲鳴はそれをかき消した。冷たい海水が無数の刃のように彼女の身体に突き刺さり、エリュの涙は海水に溶け込んでいった。彼女は、ウンディーネが暗い海の中で泳ぐのを最後に視て、意識を失った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ