血の記憶
シェサーナが辿り着いたとき、彼女が見たのは、一人の男と娘の姿だった。
「母さん!」
男が後ろで刃を突き立てた。
「在り処を言わなければ、娘がどうなるか分かっているのか?」
男は倒れている夫をあごで指した。シェサーナの顔は蒼ざめた。オロン……なんてむごいことを。武術も身を守る術を知らない者を、こいつらは娘が見る前で殺したに違いない。彼女は憤怒のあまり、頭が熱くなっていた。
「ちくしょう!」
シェサーナは短剣を抜き、男の前まで駆けた。何としてもエリュだけは……。男は面食らったようだが、シェサーナは目の前まで来て、動きを止めてしまった。
「母さん……」
エリュは歯の奥から弱々しく母を呼んだ。エリュ……。シェサーナは男に腹を蹴られた。刃物はだめだ。彼女は走り込み、回し蹴りをくらわそうとした。しかし、男は自分とシェサーナの間に、エリュの顔を突き出した。彼女の蹴りから勢いは失われた。
「さあ、吐け。あれはどこにある?」
このまま口を閉ざしていればどうなるかは分かっていた。彼女の頭に一つの可能性が浮かんだ。しかし、もう、今までの生活に戻ることは出来ない。
もう、今まで通りには戻らないのだ。シェサーナにはもう分かっていた。ならば、せめてエリュの生命を助けたい。化け物と呼ばれることになっても。彼女は胸に手を置いた。そこに書かれている紋章を意識して。
シェサーナの身体が赤く輝いた。彼女の姿が消えたかと思うと、魔物はエリュと男を引き離し、爪を肩に食い込ませた。男は右肩に焼けるような痛みを覚えた。彼は、恐怖に目の前の魔物にナイフを突き立て、魔物の右腕に刺した。しかし魔物は動じることなく、男を押し倒し、鋭い爪を突き立てた。男は断末魔の悲鳴を上げた。
シェサーナは彼から離れた。彼女は、腕からナイフを抜くと、地面に落とした。ナイフの刃と共に、血の紋が描かれた。
「母……さん?」
エリュが、震える目で母を見た。そこにはシェサーナの静かながらも穏和な顔はなかった。目は不吉な星のように赤く輝き、白い腕は黒い蛇に似た鱗で覆われていた。牙と鉤爪が鈍くぎらついている。その爪は男の血で赤黒く染まっていた。シェサーナは、エリュに近づいた。めまいがする。エリュは逃げはしなかった。足が動かなかった。シェサーナは優しく両手をエリュの肩に置いた。
「逃げよう」物陰のほうに逸れた目に殺気が宿った。「まだいる」
家の物陰から、剣を持った男が現れた。顔は風除け布で分からなかった。シェサーナはエリュを抱きかかえると、窓から飛び出し森に消えた。
「リュ・ウーロ族が来たの?」
シェサーナの手はすでに白い腕になっていたが、それでもこわばったとき、エリュは恐怖心を抱いた。
「そうよ、奴らが来たの」
しばらく暗闇の森を駆けると、母は娘を木陰に下ろした。
「エリュ、わたしが奴らを引きつける。あなたは音を立てないようにゆっくり進んで逃げなさい」
「母さんはどうするの?」
「大丈夫よ。追い払ってみせるから」
エリュの不安げな顔はそれでも消えることはなかった。シェサーナはそのエリュの顔を見ると、黙っていられなくなった。
「ありがとう、エリュ。最期に、聞いて――」
エリュは、耳を押さえ、首を横に振った。もし、聞いてしまったら、母と別れることになることが分かっていた。
「聞かない! だって母さんは死なないもん!」
エリュの声は、確信ではなく願望の響きを持っていた。シェサーナはうつむき、首を横に振った。
「エリュ……」
母の目を見ていると、思わず耳から手を離しそうになる。しかし、エリュは目もつぶった。いやだ。母さんとずっといたい。ここで別れるなんていやだ。恐怖がその時迫ってきた。話を終えれば、死にに行くつもりなのはエリュにも分かっていた。
「いやだ!」
「エリュ!」
母の怒号に、エリュは、目を開け、耳から手を離した。シェサーナは悲しそうな顔で、まっすぐとエリュを見ていた。
「ごめんね」
母は、娘を抱いた。いつもより堅く、押し潰さんばかりに。エリュは別れが来たことを悟って嗚咽を漏らした。シェサーナは娘の頭を撫でた。
「大丈夫。悲しいのは一瞬だけ。その後に喜びはやって来る。喜びも長くは続かないかもしれない。それでも、その一瞬が生き甲斐になるから」
シェサーナは耳を澄ませた。
「――奴らが来る。行って」
シェサーナはそう言うと、娘に背を向けて森の闇に飛び込んだ。エリュはその背に死の妖精がいるのか、見極められなかった。エリュはためらいがちに振り返ると、森の奥へ駆けていった。
シェサーナの目の前から、三人の戦士がやって来た。三人は裏切り者を囲んだ。
「あれを渡してもらおう」
シェサーナは矢を抜いて、それを構えた。
「知らないわ」
鎖鎌使いは舌打ちをした。
「娘を捕まえて来い」
エリュを捕まえようとした男が一歩踏み出そうとすると、シェサーナは相手の懐に飛び込み、胸に短剣を突き刺した。嫌な感触だ。彼女は己の持つ刃に――離れられぬ宿命に――嫌悪を感じた。彼女は息絶えた男の胸から短剣を抜くと、腰からもう一本の短剣を抜いて、それを構えた。
風除け布をつけた若き剣士はシェサーナに警戒し、剣を引き抜いた。
「ここから先へは行かせない」
シェサーナの言葉に、鎖鎌使いは嘲りの笑いを浮かべた。
「半殺しにされてもか? 娘が大事だろうなあ。だが、忘れるな。お前は生命を育む者ではなく、生命を奪う者なのだぞ? あの娘よりも小さい頃から、お前は戦いの中でしか生きてこなかった。まさか、忘れてはおらんだろうな?」
シェサーナは鎖鎌使いの目を見ていた。おそらく外套の下には文字術の入れ墨がびっしりと刻まれているはずだ。
「最期に聞こう。あれはどこにある? もし正確に答えなければ、あんたを裏切り者として裁く」
シェサーナは長く息を吐いた。
「分からないわ。あれは異界に失われた」
「まだ隠す気か。だが、この世界を駆け巡ることになろうとも、必ず見つけ出す。情報を引き出せないとなれば、邪魔な裏切り者だ」
先に仕掛けねば、守りに回ることになる。シェサーナは胸の入れ墨に意識した。黒い魔物と化した彼女は戦士たちに跳び上がった。剣士は素早く後ろに跳び上がり、なぎ払った。シェサーナは屈みこみ、距離を縮めた。剣士は守りに回り、距離を置こうと後ろに下がった。
鎖鎌が飛び、シェサーナがそれを払うと、剣士が隙を見て剣を振り下ろした。彼女はそれを二本の短剣で受け止め、弾き返した。剣士は後ろに跳び上がり、間合いを取った。
剣士は自らの剣が刃こぼれしているのに気がついた。あの短剣、異様な硬さだ。
「その短剣……竜の鱗を溶かして鍛えたものではないか?」
剣士の言葉に、シェサーナは薄ら笑いを浮かべた。
「カ・レア島特産のアゾッカ竜の鱗。包丁にすれば切れない肉はない。結構高いのよ」
「なるほど。ならば、ノーム! 我はそなたの存在を認める。我が刃に入れ!」
緑色の霧が木々から溢れ出し、剣士の刃の周りをうごめいた。シェサーナは距離を置いた。剣は地の精霊の力を吸い込み、刃こぼれしていた部分も元に戻った。剣士はシェサーナに突いた。シェサーナはそれをかわし、距離を置いた。
「サラマンダー! 我はそなたの存在を認める。我が剣に入れ!」
シェサーナが唱えると、赤い霧が彼女の短剣の周りに漂った。彼女は剣をかわしながら狙いを定め、投げ放った。炎の短剣は彼女の狙いから逸れ、剣士の肩に突き刺さった。だがそれでも充分だった。刃にこもった熱は肩を焼き、剣士は悲鳴を上げてそれを抜いた。隙が出来たとシェサーナは懐に跳び込み、回し蹴りをくらわした。剣士は気を失い、倒れ込んだ。
シェサーナはもう一匹の魔物によって地面に押さえつけられた。それはあの鎖鎌使いだった。頭に石がぶつかり、意識が朦朧とした。昔だったらもっと動けたのに。鎖鎌使いが魔物の力を失ったシェサーナの顔をのぞき込んだ。鎖鎌使いの魔物の顔は狼に似た恐ろしいものだった。
「ただでは吐き出すまい。娘を見つけたほうが早いな」
「あの子には……手を……出さないで」
弱々しい声でシェサーナは乞った。だが、彼はそれを嘲ることもなく、冷酷に鎌の柄で彼女の腹を突いた。シェサーナは痛みと共に意識を失った。




