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動き出した時

「おかえり、エリュ」

 エリュが目を覚ますと、そこにはルダンがいた。未だに彼女の手を両手で握っている。

「あったかい」

「ああ、生きているからな」

 エリュはルダンに違和感を覚え、その顔をまじまじと見た。虹色の目、しゅっとした顔立ち……あれ?

「ルダンの髪、黒くなってる」

 たしか銀髪だったのに……。ルダンはエリュから手を離し、髪を指でつまんでいじった。

「あの銀髪は異界の狭間で思考が物質として固まったものなんだ。あれが思考の樹を形作って現象を生み出すんだ。髪は元々黒かった。みんなからは〈狼〉って呼ばれていたっけ」

 ルダンはエリュの両手を握り、起こしてくれた。

「みんなが待ってる」

 エリュは寝台から降り、急いで駆けつけようとした。

「でも、待って」

 エリュが振り返ったそのとき、ルダンは彼女を抱きしめた。彼女の耳に入ってきたのは、一つの言葉だった。

「ありがとう」

 エリュは顔が熱くなるのを感じた。彼女はルダンを引き離した。

「ち、違うんだからね! 別にあなたのためにやったわけじゃないし、わたしは……その……もう! これからだっていうのに、困らせないでよ! ばかぁ!」

 エリュはまくし立てたが言葉が思い浮かばず、結果的にまとまっていなかった。エリュはそのまま部屋を出ようとして、ドアノブを回し遅れて顔をぶつけた。ルダンをきっと睨むと、ゆっくりと部屋から出て行った。

 部屋から一歩出たエリュは振り返った。

「ところで、みんなはどこにいるの?」

「ああ、外に出ている。三つの塔の誓いを破棄するかで話し合ってる」

 二人が外に出ると、すでにテルムイたちが集まり、〈最も自然に近き者〉ハーゼンと話をしていた。テルムイたちは四、五十人といったところだろうか。彼らはやってきた二人を見つけると、迎え入れた。

「目が覚めたか、エリュ」

「ありがとう! 感謝しきれないぜ。生きてるんだ!」

 ハーゼンもエリュの姿を見て取った。

「エリュ、なぜだ? なぜ〈天の邪神〉を解き放ったのだ!」

「霊名術は……技術ではなく、呪いでした。彼らから意志を奪い、隷属させるものだった」

「それで世界を以前の混沌に戻したと?」

「それは……」

 霊名術は失われた。自然を制御出来なくなった。それに違いはないし、混乱を生み出したことに変わりはないのだ。テルムイを歪んだ存在から解き放ったことは確かだけど、そこは正当化出来るものではなかった。

「あなたが〈最も自然に近き者〉か?」

 ルダンがハーゼンに話しかけた。

「彼女を非難するのは、『精霊の書』の原版を読んでからにしていただけないか?」

 ハーゼンはルダンに向き直った。

「見たところテルムイのようだが……」

「なぜセルーナが唯一著した『精霊の書』が封印されたのか? なぜ霊名術の重要人物であるセルーナの書が研究対象にされていないか、疑問に思ったことはありませんか?」

「どういう意味だ?」

「『精霊の書』にはテルムイのことが書かれていたから、後の者たちによって封印されたとしたら?」

「隠蔽したというのか? そんなこと――」

「ないと? ならば、実際にページを開いて証明してください」

「いいだろう、今取ってくる」

 ハーゼンは〈探求者の塔〉へ入っていった。

 そういえばルダンはどうして死の妖精にならず、〈探求者の塔〉をさまよっていたのだろう? ルダンにその疑問を打ち明けると、彼は答えた。

「テルムイが肉体を失ったとき、選択肢は二つあった。一つは冥界に行くこと、もう一つは何か別のものに魂を移すことだった。おれは後者を選び、『精霊の書』に宿ることにした」

 だからホルクが「霊名術は神に近づくために考え出された」という言葉に怒りを露わにしたんだ。セルーナの気持ちが本の中を通して分かっていたから。

 ハーゼンが中から姿を現した。その手には崩れてしまいそうな本があった。ハーゼンは自信を失い、しおれた木のように背は曲がっていた。

「読んだんですね?」

「ああ。これは研究書ではなかった。懺悔だったんだ。セルーナは霊名術の確立を後悔していた。セルーナの偉業がわしらの業となって今払わなければならない時期なのかもしれん。霊名術に関する全ての判断はわしに託されている――」

 ハーゼンは背筋を伸ばし、声高に叫んだ。

「これより、人間と精霊、いやテルムイの間に結ばれた三つの塔の誓いを破棄する。我らは新しい共生の時代を模索する時代に突入したのだ!」

 テルムイから歓声が上がった。エリュもまた、その喜びの渦に入っていった。アルヒテロスの言った言葉は間違っていないのかもしれない。共生が上手くいかず戦争が勃発するかもしれない。だが、未来を決めるのは歴史じゃない。現在の選択なのだ。わたしは正しいと思う道を探していこう。

 エリュは空を見上げた。冥界の天体よりも強烈な光を放つ太陽に手をかざしながら、母のことを思った。母さん、五年も経ってしまったけど、やっと死を受け入れられそうです。最後に話せて良かった。エリュは黄緑色の小袋から白い石を出した。文字は〈取消〉を意味する文字が重ねて書かれ、もう効力はなかった。エリュは石を投げようとしたが、ルダンに止められた。

「捨てることはないんじゃないか?」

 エリュは石を見つめて呟いた。

「……そうだね」

 彼女は石を黄緑色の小袋の中にしまうと、それを両手で握った。

 人間の、テルムイの、そしてエリュの止まっていた時間が動き出した――。


 エリュは息切れしながらゲ・ルイ島の森を歩いていた。森を去ってからどれくらい経っただろう? ウーロ山へ行くと決めてから多くのことがあった。ジェバさんに会った、ルダンと話した、ホルクが仕組んでいたことを知った、母さんに会った、テルムイを解き放った……。あれからエリュはアルヌとテルムイが和解し、共生するための架け橋になっていた。忙しい日々ではあったが、この日やっと休みをもらった。

 エリュは魔女が住む家まで辿り着いたとき、懐かしさで胸がいっぱいになった。先生は元気だろうか? ぎっくり腰になっていたらどうしよう。彼女は戸を叩いた。

 ヘオルグはすぐに姿を現した。エリュを見てしばらく動けなくなっていたが、やがて問いかけた。

「どちらさまですか?」

 エリュは一瞬愕然としたが、すぐに「赤の他人」になったことを思い出した。

「あ、あの……わたしはエリュっていいます。えっと……一晩泊めていただけませんか?」

「こんな森のど真ん中で?」

「はい」

「宿屋じゃだめなのかい?」

「ここがいいんです!」

「あ、そう。物好きがいたもんだね。おはいり」

 エリュは中に入った。ヘオルグが戸を閉めると、ふきだした。

「いつまで、おままごとするつもりだい?」

「からかったんですね!」

「ああ、あんたはあたしに勝てないのさ。いいかい、それだけ人は絶ちがたい縁で結ばれているっていうことさ。忘れられるわけがないだろう?」

「先生……」

 エリュは歩み寄った。

「ごめんなさい」

 ヘオルグはエリュを抱きしめた。

「いいんだよ、よく帰ってきたね」

「わたし……ヘオルグ先生のこと何度忘れかけたことか……」

「何だって!」

「さっきのお返しです」

 エリュとヘオルグは離れ、笑い合った。

「先生、これだけは言わせてください」

「『あたしのことを実際に忘れた』とかじゃないだろうね?」

 エリュは首を横に振った。

「ただいま」


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