表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/40

霊医師

 霊名術はさまざまな技術に応用されている。代表的なのは元素精霊を呼び出し、自然現象を制御する精霊使いである。精霊使いはさまざまな職業で働くことが出来る。船乗り、鍛冶屋、聖職者、祈祷師、神話学者、生物学者、王の島ラル・トル島では参謀として働く者もいる。

 シェサーナの場合は精霊使いでありながら霊医師でもあった。霊医師というのは、霊名術を医学に応用した医師であった。体内には、生きるために必要な体内精霊が存在し、これらの調和が崩れると、病になるという。霊医師は体内精霊の調和を整えることにより、病を治す者たちなのだ。

 エリュは幼い頃から、母が病や怪我を治すのを見てきた。母はあまり見られるのは好きではなかったが、娘の好奇心を肯定的に受け止めていた。

 アウラドが〈探求者の塔〉の裁きを受けるためラル・トル島への船に乗せられた頃、猟師オグトの息子トルンが連れられてきた。彼は脚を痛そうに押さえていた。

「山から滑り落ちて、脚の骨を折っちまったんだ」

 シェサーナはしばらくトルンの脚に触れ、ようすを調べた。その間猟師の息子は痛みにうめいた。

「たしかに脚を折っているわね」

 霊医師は手をかざした。

「トルンの身に流れるノーム、骨を繋ぎたまえ」

 シェサーナは数度そう唱えながら、トルンの脚をさすった。トルンの脚から緑色の霧が噴きあがった。体内に宿る地の精霊は骨格を司る。やがてシェサーナは患者の脚から手を離した。

「地の精霊の力を強めましたが、骨が治るまでしばらくかかるでしょう」

 オグトは承諾し、息子に挨拶して去っていった。オグトはずっといたいのだろうが、猟師はあまり稼げる仕事じゃなかった。少しでも狩りをしなければ、生活が苦しくなる。シェサーナは胸を痛めた。

「そこにいるのはエリュね?」

 エリュはドアを開けて、気まずそうに入ってきた。

「どうして分かったの?」

「昔から見つけるのが得意なの」

 落ち着いたようすのトルンを見て、エリュは問いかけた。

「骨を言葉で繋げるなんて、すごいね」

 シェサーナは寂しげな笑みを浮かべた。

「わたしの力ではないわ。体内には精霊がいて、その霊力がわたしの言葉に応えて、力を発揮するの」

「それでもすごいのに、母さんはなんで悲しそうなの?」

 シェサーナは、エリュの言葉に驚いているようだった。彼女は笑顔を浮かべた。

「そんなことないわよ」

 エリュは口を開きかけたが、何も問いかけなかった。

「母さん! あれ!」

 エリュは天井を指差した。シェサーナは天井とトルンを見て、はっと息を飲み、天井に向かって手をかざした。

「トルン・アルヌよ。自然界の流れにおいて、まだその肉体から離れるときではない。肉体に戻りたまえ」

 アルヌとは人間の魂の霊のことであり、体内に宿っていれば、心として働く。シェサーナはかざしている手をゆっくりと下ろした。手をすっかり下ろすと、エリュに向き直った。

「エリュ、あなたに何が視えたの?」

 娘は母のようすに不安を覚えたが、視えたものを説明した。

「……トルンさんが天井に昇っていったの。寝台を見てもトルンさんは眠っていたから、魂が抜けて死んじゃったのかと思った。母さんすごいね。呪文と手だけで元通りにしたもの」

 シェサーナは蒼ざめていた。彼女は部屋を出て行くように言った。エリュは素直に忠告を受け容れた。

 エリュが部屋を出て行くと、シェサーナはなぜ、トルンの霊が抜け出そうとしたのか考えた。病気のときなどで長い間動けない身だったら動きたいという望みを抱いて魂が抜け出すことがある。だが、トルンの場合は違うのだ。骨折するまでは動いていたではないか。ならば、なぜ? 分からないが、油断してはいけないことはたしかだ。また抜け出すかもしれない。長い間そうしていれば、死ぬことになる。なんとしても、防がなくては。

 それからシェサーナは不眠でトルンを治療しながら、見張るようにしていた。そして、度々トルンの魂が抜け出すようなことがあった。

「トルンさん、何か悩みでもあるのですか?」

 若き猟師は首を横に振って答えはしなかった。

 数日間不眠でそういった生活をしていると、シェサーナの目の下にくまが出来て、目まいを覚えるようになった。

「母さん、わたしも手伝おうか?」

 朝食を食べているとき、エリュが訊いてきた。シェサーナは笑顔を浮かべた。少し疲れがにじみ出ているような笑みだった。

「大丈夫よ。ありがとう。そうだ、トルンの相談に乗ってくれない?」

「トルンさんの?」

「病室で一日過ごすのは退屈だろうし、元々猟師だからじれったいと思うの。話でもすれば気が紛れるんじゃないかな」

「分かった」

 エリュは納得すると、すぐに病室の中に入って行った。トルンは困惑したようだった。

「今日は娘さんか?」

「……その……母さんが来るまで話し相手になってくれない?」

 トルンは快くうなずいた。

「ねえ、トルンさんは猟師なんでしょ? 一番大きな獲物ってどれくらいあった?」

 トルンは両手で大きさを示そうとして、突然やめた。

「ぼくはまともに狩りが出来たことはないんだ。獲物を逃がしてばかりで……そうしなければ食っていけないことだって分かっているのに、手が震えるんだ。それで放った矢は大きく逸れてしまう。猟師なんて向いていないんだ」

 トルンははっとして、エリュを見た。

「いや、すまない、つまらないこと言ってしまって。父さんと協力して獲ったものはこんなに大きな大鹿だった。あれは高く売れたね」

 トルンは両手を大きく広げた。エリュはトルンの手の中に大鹿を描き、目を輝かせた。

「そんなに大きいの!」

「ああ、是非きみにも見せたかったな。――だけど、ぼく一人ではまだ……」

 それからも、エリュとトルンはさまざまなことを話したが、トルンは度々暗くなった。エリュははっとした。トルンの後ろに黒い影が付き纏っているのだ。それはのように揺らめきながら、踊っていた。その影はエリュにも手を伸ばしてきた。

 エリュは思わず何も言わないで出て行ってしまった。

「母さん!」

 エリュは母を捜したが、家中どこ見てもいなかった。あの黒い影は何か不安にさせた。

「ここよ」

 シェサーナは、玄関からやって来た。手には土のついた薬草が握られている。エリュは震えていた。

「トルンさんの周りに黒い影が……」

 霊医師は急いでトルンの元に駆け寄った。トルンはすでに横になって眠っていた。脈に触れると動いていなかった。

「トルン! トルン・アルヌ! 自らの身に戻りたまえ!」

 シェサーナはトルンの心臓を何度も押し、トルンの霊の名前を唱えた。やがてトルンは息を吹き返し、周りを見渡した。

「どうしたのです?」

「いや、ぼうっとしたら……」

 シェサーナはトルンの目を見て、問いかけた。

「何か、夢を見ませんでした?」

 トルンは一瞬目を逸らし、首を横に振った。

「いいえ」

 エリュの母はそれ以上何も訊かなかった。


 トルンはその一ヶ月後、退院した。彼は父が止めるのを聞かず、森の中を本調子が戻らないまま狩りに出かけたという。夜になっても帰ってこなかったので、オグトの家族は森に入って捜した。

 大鹿の角がトルンの身体を貫き、さらに後ろの木に突き刺さっているのが見つかったのは、その次の日だった。トルンと大鹿はどちらも死んでいた。オグトは息子の血のついた角と毛皮を取り、肉は高く売った。その鹿はオグトですら獲ったことのない大物だった。

 シェサーナは知らせを聞いたその日、椅子に座り込んで、うなだれていた。エリュは不安そうに母を見ていたが、シェサーナは娘が目に入ると、エリュの頭を抱き込んだ。

「エリュ、あなたは名前が無くても精霊が視えるのよね。あなたは知っていたほうがいいわ。生命界には、人間の魂を冥界へ引き込もうとする死の妖精がいるのよ」

「死の妖精?」

「死神って呼ぶ人もいるわね。あなたが言った黒い影のことよ。トルンさんが退院したとき、あなたは死の妖精の影が視えた?」

 エリュは一瞬ためらいながらもうなずき、母に顔をうずめた。母は怒りはしなかった。シェサーナはあえてエリュに黒い影が何なのか、トルンが死ぬまで話さなかったのだ。

「死の妖精はね、誰も本当の名前を知らないから、誰にも支配することは出来ないの。わたしは時々虚しくなるのよ。死の妖精に魂を奪われる運命の人を助けて、自分は救っていることになるのかと。でも、正直に死の妖精のことを言っても、その人の死を早めることになるかもしれないわね……」

 シェサーナはそこで口をつぐんだ。エリュは何も問いかけなかった。なんでそんなに苦しそうなの? その一言は、エリュの口から漏れることはなかった。訊くのが怖いのもあったが、訊けば母をさらに苦しめることになるのが分かっていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ