精霊使い
オロンは彫刻作品を作っていた。ここカ・レア島はラヴェ・エスタ国の中心地ラル・トル島の真南に位置し、火竜アゾッカが棲む島という意味から〈火の島〉と呼ばれている。優れた彫刻家が住み、その彫刻はラル・トル島や外国で高額な値段で売られている。その出来栄えは、彫刻を見る者をも作品の一部にしてしまうといわれ、国内外で高く評価されている。
そしてここに一人、彫刻の一部になっている少女がいた。工房の片隅で膝を抱えながら見つめるその目を離さない。彼女の中で時間は止まっていた。いや、時間が彼女を置いていったのほうが合っているかもしれない。
父はカ・レア島特産の白いウォモンド石を彫り続け、滑らかな線を作り出していった。傍らで見ている少女にとって、この技術は、繊細で神秘的なものだった。彼女は、出来上がった彫刻を見るのもいいが、形作られていく彫刻を見るのも好きだった。だが、彼女が見ているのは、ウォモンド石の彫刻だけではなかった。彼女の目には、彫刻の周りで漂っている緑の服を着た老人たちも視えたのである。彼女は幻想の如く至るところにいる精霊たちに囲まれ、孤独を感じたことはなかった。
「エリュ!」
エリュと呼ばれた少女は、母の声におそるおそる振り返った。
「また父さんのところに来ていたのね? もう、髪も結わないで……」
母は、エリュの髪をつかむと、緑色の髪留めで結った。髪を結い終えると、シェサーナは、呆れたようすで娘に言った。
「父さんの仕事場に来たら邪魔になるから、来ないようにって言ったじゃない? 今日は町に楽団が来るから行くって言ってなかったっけ?」
エリュははっと口を押さえた。
「え、今日だっけ? 急がなきゃ!」
シェサーナは、工房を出て行こうとしたエリュの頭を押さえ、父に頭を下げさせた。
「この子ったら、目を離すとすぐいなくなるのよ。うるさくなかった?」
「いや、静かに見ていたよ。邪魔なんてしていないよな?」
エリュは満面の笑みを浮かべ、うなずいた。シェサーナは申し訳なさそうに笑った。
「新作の調子はどう?」
彫刻家はかすかに笑ったようだった。彼の表情を見分けられるのはシェサーナくらいだった。
「上々だよ」
シェサーナは夫の彫刻を見て、本当に調子が良さそうだと思った。まあ、相変わらず陰気くさい表情をしているが。
「完成を楽しみにしてるわ」
「おう。じゃあな、エリュ」
エリュは父に手を振って工房を後にした。父は小さく手を振って見送った。
「彫刻家ってすごいね。あの硬い石から滑らかな彫刻を彫るのよ」
シェサーナの顔に穏やかな笑みが戻った。彼女自身彫刻家は尊敬していたし、美しい彫刻を見ると、心が癒された。
「エリュは彫刻家になりたいの?」
少女はしばらく考え込むように唸った。
「父さんみたいな彫刻家もいいけど……でも母さんのような精霊使いにもなりたいしなぁ」
シェサーナの表情がこわばった。精霊使いは、精霊の名前を唱えることによって、万物の根源である精霊たちを呼び出す霊名術を使う者のことだ。人間と精霊が誓いを立てたことで得られたこの技術は生活の中に広く染みつき、ラヴェ・エスタ国では学問としても認められている尊いものだった。
「母さん?」
母の思い詰めた表情をけげんに思ったエリュが顔をのぞき込んだ。
「ん? ああ、精霊使いは誰にでもなれるわけじゃないのよ。覚えることもたくさんだし、楽しい仕事とはいえないところもあるの。何より才能の問題もあるしね」
エリュは口を尖らせた。
「『大事なのは才能より努力だ』って言ったのは母さんじゃない。いいな、母さんは精霊使いになれて――」
エリュが突然足を止め、一点を凝視した。シェサーナは、手を引きながら訊いた。
「エリュ、どうしたの?」
母の声は娘には聞こえなかった。エリュの目の前には白く輝く門が視えた。彫刻で使われるウォモンド石で出来ているわけではない。光で出来ている。こんなのを視たことはなかった。きれいな世界が向こうにある気がする。
「光る門が視える……」
エリュは導かれるようにその門へ歩いていった。シェサーナは、娘の腕をつかんだ。
「母さん……」
「気のせいよ。幻だから、何もないわ」
「何もないなら別にくぐっても――」
エリュが母から再び門のほうを見ると、門はすでになく、いつもの森があった。
「あれ? 門がない……」
シェサーナは呆れながらエリュの腕から手を放した。
「だから幻だって言ったでしょう?」
「だって視えたんだもん!」
エリュはしばらく門のあったところを見ると、肩をがっくり落とした。
「おかしいな――」
「さあ、行きましょう」
エリュはしょんぼりしたようすで歩き出した。彼女は新しいものを見つけると、知りたくてうずうずした。それが新しい彫刻でも、精霊でもだ。そしてそれを逃すと、今度はそれはどういう感触をしていて、どれくらいの重さがあって、どういう理由でそこにあって……としばらく考えて上の空になるのだった。この日もあれが何なのか考え出した。きっと異界の王宮にでも繋がっている門なんだ。きっと威厳のある国王さまと、きれいな王妃がいるんだろうな。門の先に行けなかっただけに、残念だった。
サウラの町は、森を越えたところにある。その日シェサーナは集会堂に用事があった。精霊使いたちは週に一度集会を開く。そこで天候の予測や予想される自然災害の対策を立てる。
二人は集会堂を通り過ぎた。エリュは集会堂に手を伸ばしたが、どんどん離れていった。
「え? 行かないの?」
「楽団まで送るわ」
「集会堂も興味あるなぁ」
シェサーナはかすかに笑った。
「集会堂で話されることが外に漏れたら、混乱を生むことがあるのよ。あなたは連れて行けないわ」
町の広場にはすでに楽団が来ていた。楽団たちは噴水の前で縦笛や弦楽器で、穏やかな音楽を奏でていた。噴水から流れる水ですらその音楽の一部のように響いていた。これは自然の音と合わせて楽器を奏でるラヴェ・エスタ音楽の特徴でもあった。
「終わったら迎えに来るから、ここで待っているのよ」
エリュはこくんとうなずき、人だかりをかき分けていった。シェサーナは来た道を戻り、集会堂に入って行った。
集会堂には精霊使いたちが集まっていた。町長でもあり、集会を進めるハクルが咳き込んだ。集会堂の中心には精霊使いのアウラドの姿があった。その配置を見てシェサーナは緊張を覚えた。これは尋問の配置だ。アウラドは何をしたというのだろう?
「では、始めようか」
シェサーナは精霊使いの輪の外に座り込んだ。
「アウラド、そなたはハウナ山に火をつけたのか?」
シェサーナはその言葉に衝撃を受けた。数日前の山火事は放火だというのか? アウラドはためらわずに答えた。
「はい」
「なぜ?」
「正義のためです」
精霊使いたちがざわめいた。アウラドは続けた。
「あそこには山賊がいました」
「マロスの一味だな」
罪人はうなずいた。
「彼らはこの島の財産とでもいうべき彫刻を商人から奪い、それを売り払っていた。わたしにはそれが許せなかったのです。だから、この島の象徴でもある火の精霊で、奴らが根城としているハウナ山を焼いたのです」
アウラドは立ち上がった。
「自分は間違っていない。カ・レア島のためだったんだ。サラマンダー! 我はそなたの存在を認める。我が身に入れ!」
集会堂の精霊使いたちが火をつけられまいと、水の精霊を呼び出した。
「ウンディーネ! 我はそなたの存在を認める。我が身に入れ!」
火と水の精霊が集会堂に同時に呼び出され、対極の精霊がぶつかり合うと、互いの霊力をかき消し、霧散する。集会堂が白い霧に包まれた。アウラドは霧に紛れて集会堂から逃げ出した。
精霊使いたちは集会堂から出て行った。
楽団は集会堂から出た霧に混乱し、中断になった。エリュは母が心配になって、集会堂に向かった。何があったんだろう? エリュの目には、霧が火の精霊と水の精霊が入り混じっているように視えた。
「母さん!」
エリュは母が集会堂から駆け出すのを見つけた。娘は駆け寄ったが、シェサーナは気づかず、そのまま駆けていった。後から集会堂に集まっていた精霊使いたちが追いかける。
エリュは霧に消えかかる母が何か恐ろしいものに見えた。何というか、獲物に飢えた狼のような。娘も母の後を追った。
アウラドは町から出て、森の中に走っていた。ここなら見つけにくいし、人も少ない。シェサーナがすぐに追いかけてきた。後から精霊使いたちが追ってくる。アウラドは向き直った。
「おっと! それ以上近づくな。おれはこの森を燃やすことだって出来るんだぞ?」
ハクルが首を横に振った。
「しかし、制御出来なかったではないか?」
「はったりだと思うなら、試してみればいい」
木の陰からようすを見ていたエリュはつばを飲んだ。この森を燃やす気だ。エリュはあの精霊使いを見たことがあった。火傷の治療をしてほしいと母さんのところにやって来た人だ。でも、どうしてこんなことを?
「『自分は間違っていない』ですって?」
シェサーナの言葉に一同は彼女に振り返った。
「山を、森をためらわずに燃やそうとしているあなたは、精霊使い失格よ」
シェサーナは一歩近づいた。彼女の青緑色の目は、怒りに燃え上がった。彼女の中でハウナ山の山火事に巻き込まれて火傷を負った者たちの苦しげな顔が浮かんだ。
「来るな!」
アウラドが叫んだ瞬間、シェサーナは駆けていった。罪人が火の精霊を召喚しようと口を開いたとき、エリュの母は彼の側頭部に回し蹴りをくらわした。アウラドは倒れ込み、シェサーナが拳を握ったのを見て恐怖の叫びを上げた。
「そこまでだ、シェサーナ」
ハクルの言葉にシェサーナは正気に戻り、みぞおちを打つと立ち上がった。アウラドはすでに気絶していた。呆気に取られていた精霊使いたちは正気を取り戻すと、アウラドを取り押さえた。
エリュはそのさまを見て、しばらく動けなかった。目の前の母さんがいつもの穏やかな母さんと別人のように見えた。
ハクルはシェサーナの肩に手を置き、耳打ちをした。
「またやったな」
「……申し訳ございません」
「まあ、今回は取り押さえるためだったのだ。以後気をつけよ」
「はい」
母が広場に迎えに来るころには、エリュはすでに広場で待っていた。
「集会堂から霧が出たけど、何があったの?」
「ああ、天候に関わる実験をしたら、失敗したのよ」
エリュは母の言葉が嘘だというのは分かった。しかし、彼女はそれ以上聞かなかった。
家に帰ると、いつものように母と夕飯を食べ、眠りについた。だが、その日は眠れなかった。彼女は石造りの天井を眺めた。夏だと布団が冷えて気持ちよく眠れるが、今はさらに彼女の不安を逆撫でするようだった。夕飯にチャト(穀物を煮込んだスープ)を飲んでいたときの母は、いつもの穏やかな顔だった。だが、アウラドに怒りを露わにする母さんはいつもと違う、何か恐ろしいものだった。
エリュは思わず寝台から起き上がっていた。母さんはいつも、寝るまでは自分の部屋で霊名術の研究をしていた。エリュは母の部屋で扉を少し開け、覗き込むと、母は、机の上で、本を広げ、何かをメモしていた。しかしおもむろにペンを止めた。
「エリュね?」
エリュはぎくっとした。シェサーナは微笑み、こちらを向いた。エリュは扉を開け、中に入った。
「霊名術の研究?」
シェサーナは苦笑いを浮かべた。
「ちょっと息抜き」
エリュは母が読んでいる本の表紙を覗き込んだ。
「『セルーナの誓い』? これって霊名術が始まった時の話だよね?」
「そう、セルーナは世界最初の精霊使い。セルーナが人と精霊の間に三つの塔の誓いを立ててたおかげで、ラヴェ・エスタ国内で霊名術が使えるようになったの。三つの塔の誓いは〈王の島〉ラル・トル島に立つ〈王者の塔〉、〈預言者の塔〉、〈探求者の塔〉のことで、それぞれ『永遠の忠誠』、『平穏な未来』、『共存と繁栄』の誓いを込めた。これが霊名術とラヴェ・エスタ国の始まり。その本は三つの塔の誓いが立てられるまでの物語なのよ」
「セルーナの伝記?」
「そう」
エリュは本を開き、読み始めた。しばらくすると振り返って、ページの中の文字を指差した。
「これ、何ていう意味?」
シェサーナはエリュが指差しているページをのぞき込んだ。
「〈天の邪神〉。セルーナの時代には人間と〈天の邪神〉が争っていたの。彼らはセルーナに諭されて、元素精霊になるのよ」
「じゃあ、精霊は神さまだったの?」
シェサーナは目を輝かせながら問いかけるエリュの目を複雑な心境で見つめた。
「そう。悪い神さまだったの」
「でも神さまって感じがしないね。地の精霊なんか、ずうっとボーっとしている感じだし」
シェサーナの腕に力が入り、エリュは心配げに顔をのぞき込んだ。
「エリュ、あなた、誰かに視えること言った?」
エリュは小さい頃から視えることを言うなと口止めされていた。エリュは首を横に振った。
「ううん。父さんと母さん以外は。ねえ、わたし精霊使いの才能ある?」
母はエリュから目を逸らした。
「……精霊使いでも出来ないことなのよ。彼らは名前を唱えて、初めてそこに精霊がいるのが分かるようになるから――」
エリュは母の顔をのぞき込んだ。
「母さん……いけないことなの?」
シェサーナは、エリュの頭をなで、笑みを向けた。
「悪いことではないわ。でも、あまり視えると言ってはダメよ」
母は再び念を押すと、娘の顔を覗き込んで訊いた。
「エリュ、眠い?」
娘はろうそくとセルーナの物語で輝く目を母に向けた。
「ううん」
シェサーナは困ったように笑った。
「オロンとそっくりね。あの人は徹夜は得意だけど、早起きは苦手で」
その後もシェサーナはエリュと話をしたり、本を見せたりした。やがてエリュは眠くなっていった。気がついたらまぶたが瞳を覆い、寝息を立てていた。エリュは自分が徹夜が得意だと思っているが、一度も徹夜したことがない。
シェサーナはエリュを起こさないように抱きかかえ、寝台に寝かせた。自分がこの生活をしていて善いのだろうか? 毛布をエリュにかけながらシェサーナは思った。暗闇の中でシェサーナは白く見える手を見つめながら、この手を赤く染めていたときのことを思い出すと、下唇を噛んだ。




