第5話 行き先は風の向こう
朝の光が、山の稜線をやわらかく照らしていた。
鳥のさえずりとともに、村は静かに目を覚ます。
木々の葉が揺れ、畑に広がる野菜たちは夜露をまといながら、陽の光を受けて少しずつ色を変えていく。
ティアは畑に立っていた。
両手には土のついた鍬。
彼女は丁寧に畝の土を寄せ、作物の根元に優しく触れながら手入れをしていた。
どこか、名残惜しさを感じる仕草だった。
「ティア」
声をかけてきたのは、隣の家のエルドだった。
年はティアよりひとつ上。麦色の髪に、よく日に焼けた肌。
彼は何故か背嚢を背負い、腰には剣が携えられていた。
「本当に、ひとりで行くのか?」
その声は、明るく装ってはいたが、どこか頼りなく揺れていた。
ティアは鍬を止め、静かに彼の顔を見た。
朝日に照らされたその瞳は、少しだけ赤く潤んでいるように見えた。
「うん、大丈夫。……わたしの畑、よろしくね」
にこりと笑うと、エルドの顔にぱっと光が差したような笑みが浮かんだ。
「ああ! 任せてくれ!」
大げさなほどに胸を張って見せる彼。
その背後で、風に揺れる稲の穂が、さらさらと音を立てた。
ティアはくすりと笑った。
けれど、その笑みの裏に、ほんの少しの罪悪感が滲む。
(……エルドは、付いてきたいと思ってたのかな)
けれどそれは、口には出さなかった。
何かを期待されるたびに、それに応えられない自分を知ってしまうから。
「ありがとう、エルド」
彼女がそう言うと、風が吹く。
ティアが背を向けて歩き出したあとも、エルドはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
畑の土がふわりと舞い、青空に吸い込まれていった。
そのあとティアは、村のあちこちを歩いた。
水汲み場では、リゼ婆が干していた薬草を指で一枚ずつ並べていた。
ティアも手伝いながら、無言で手を動かす。
静かな陽差しが二人の間に満ち、草の香りが鼻をくすぐった。
広場では、子どもたちが遊び回り、ティアの周りをくるくる回って「魔物をやっつけたんだって!」とはしゃいでいた。
ティアはただ、「たいしたことはしてないよ」と言って頭を撫でるだけだった。
(でも、“たいしたこと”って、なんだろう)
その疑問は、答えを持たぬまま、風にさらわれていく。
夕方、空が茜に染まり始めた頃──
ティアは背に小さな荷を負い、村を見下ろす丘に立っていた。
風は、麦の穂を揺らしながら、静かに通り過ぎていく。
鳥が高く飛び、羊飼いの犬の遠吠えが山にこだまする。
眼下には、灯りがともり始めた村。
木造の家々から立ち上る炊煙が、夕暮れの空に溶けていく。
ここで育った。ここで笑った。でも──
ティアはひとつだけ、振り返って静かに呟いた。
「……いってきます」
風が、返事をするように、頬をなでて通りすぎた。