27話 ずっと雨でも、いいかもしれない
雨の匂いが、少しずつ街に満ちていくのがわかる。
雲が重たく垂れはじめたのは、鍛冶屋からの帰り道だった。
石畳に染み込む湿気が、ふたりの足音をやわらかく包み込んでいく。
ティアは濡れた石を避けるように、慎重に歩いていた。
スカートの裾を指先でそっと摘んでは、また無造作に下ろす。そんな仕草が、どこか子どもっぽくて、愛おしい。
「なんか曇ってきたね」
ティアが空を見上げる。
その横顔が、なぜか少しだけ楽しげに見えた。
「うん」
本当は「見上げすぎだよ、転ぶよ」と言いかけた。
でも、その表情を邪魔したくなくて、言葉を飲み込む。
ぽつり。
冷たい雫が猫耳を打った。思わず首をすくめて空を仰ぐ。
雲はどこまでも分厚く、もうすぐ本降りになりそうだった。
「わ……降ってきた」
ティアが小さく声をあげる。
「宿までもう少しだから、大丈夫」
そう返したものの、雨脚はあっという間に強くなった。
ティアの髪が濡れて、頬に張りつく。
手を伸ばしかけて、途中で止める。自分の前髪を払う仕草でごまかした。
「ふふっ、たまには雨に濡れるのもいいね」
ティアは両手を広げて、くるりとひと回りする。
スカートの裾がふわりと舞い、すぐに水を含んで脚に張りついた。
濡れた服越しに、細い肩や背中の輪郭が浮かぶ。
(……やば。目、逸らさないと)
意識して視線を外すのに、また追ってしまう。
足元の水たまりより、ティアの姿の方がずっと気になっていた。
雨音と足音、ふたりだけの世界。
しずくが耳元を伝い、服の中に小さな冷たさを残していく。
◆
宿にたどり着いたとき、ふたりはしばらく玄関で黙って立ち尽くしていた。
濡れた服、しっぽ、脱ぎかけのブーツ。
石畳の廊下に、ぽたり、ぽたりと雫の音が落ちる。
「……今日は、夕食の前に湯浴みしよっか」
ニャエルのひと声に、ティアはこくりと頷く。
「……ニャエル、一緒に入る?」
(……い、一緒に、入るの?)
胸が跳ねた。
けれど、ティアはそっと顔を寄せて、あどけなく言う。
「別々に入ってたら、風邪ひいちゃうよ」
「あ、うん……入ろうか」
(……心臓が、うるさい)
◆
湯気の立ちこめる湯室。
湿った服を脱ぎ、白い亜麻布と湯桶を用意する。
ただそれだけの動作が、やけにぎこちなく感じられる。
脱ぎ場でティアに背を向け、深く息を吐く。
下衣に手をかけたところで、背後から声がかかった。
「ねえ、この透けるぐらい薄い布って何に使うの?」
振り返ると、ティアはすでに衣服を脱いでいて、髪布を手に首を傾げていた。
濡れた髪、透けるような肌、細い肩。
その姿に、なぜか自分の胸もほんのり熱を帯びていく。
「そ、それは髪に巻くやつ。湯に髪が入らないように……」
「ああ、便利だね!」
安心したように息を吐いて、目線を下げる。
自分の輪郭より、ティアの白さがまぶしく感じた。
「こう?」
顔を上げると、ティアは髪布をなんとか巻いているが、髪があちこちからはみ出していた。
思わず吹き出しそうになる。
「……やってあげる。後ろ向いて」
「うん♪」
なるべく下を見ないようにしながら、丁寧に髪を整えて巻いてやる。
それでも視線は、うなじや首筋、小さな背中へと引き寄せられていく。
胸の奥が、きゅっとなる。
(……巻き終わったら、振り向く)
「はい、できたよ」
ニャエルはできるだけそっけなく言って、視線を逸らした。
ティアはぱっと振り返り、満面の笑顔で礼を言う。
「ありがとう♪」
その明るさに、不思議と肩の力が抜けていく。
「濡れてて脱ぎにくいんだよね。先に入ってていいよ」
「ん、わかった」
ティアは嬉しそうに浴場へ駆けていく。
ぺちぺちと濡れた足音が遠ざかる。
「……隠す布を、もう一枚持っていこ」
服を脱ぎながら、浴場へ向かう。
湯に落ちる音が、静かに耳を打つ。
猫耳なんかなくても、ティアのいる場所はすぐわかる気がした。
◆
白く霞む浴場。
湯の香りがやわらかく満ち、窓には細かな水滴が滲んでいる。
外の雨は、少しだけ音をひそめていた。
「生き返る〜……」
ティアは肩まで湯に浸かり、目を細めている。
紅潮した頬がほんのり浮かぶ。
(湯に入ってない方が、元気だけどな)
そんなことを思いながら、自分も静かに湯へ身を沈める。
温度差がじんわりと身体をほどき、けれど呼吸は少し浅い。
ふと、ティアが湯の中で手を差し出してくる。
「ニャエルも、手」
言われるままに、そっと手を伸ばす。
並べると、自分の手の方がずっと大きかった。
そのまま、二の腕を包まれる。
触れた肌から、やわらかな熱がじんと伝わってくる。
「ニャエルの手、やっぱり大きいね」
ティアが笑って、すっと身を寄せてくる。
あたたかい素肌が重なり合い、それだけで心がほどけていく。
「……なんか、落ち着くね」
(“自分が大きい”って思われるの、嫌いじゃないかも)
窓の外にはまだ雨が残っていた。
けれど、その音はもう、ほとんど聞こえなかった。
「明日も降るかな?」
「たぶん。外套、用意しとかなきゃね」
多くを語らず、並んで湯に浸かる。
それだけで、胸の奥にあった固い何かが、静かにほどけていった。
──ずっと雨でも、いいかもしれない。
そう思って、ニャエルはそっとティアの肩に額を寄せる。
(このあたたかさが、消えませんように)
さざ波のような湯の揺れと、遠くでまだ残る雨の気配が、
ふたりだけの静かな世界を、雨と湯気が、そっと護っていた。




