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麻布十番の居候  作者: そーた
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最終日 天使のような悪魔の笑顔

物語もここから一気にクライマックスに入ります。


 それからはまた、普通にみんなで歌を歌い回した。


 その後は比較的穏やかに時間が流れて行ったように思う。特段たいしたトラブルも起こらなかった。特筆すべき事も無い。しかし、唯一変わった事と言えば、俺がなーちゃんの吸っていた電子タバコを勝手に吸って、彼女にドン引きされたことくらいである。俺は紙巻きタバコだったために部屋の中で喫煙するわけにもいかず、いつのまにか俺の隣に座っていたなーちゃんがスパスパと美味しそうに電子タバコを吸っていた為に、『せこい』と一言だけ言って彼女の電子タバコを分捕ってやったのだ。だいぶドン引いていた事を記憶している。そんなにドン引くとは思わなかったのだ。



 閑話休題、それはそうと、やはり歌に関しては、俺の腕は鈍ったままだったらしい。その証拠に、その後俺がいろいろな歌を歌っていた最中、なーちゃんがふとこんな言葉を居候に溢していたのを小耳に挟んだ。


「すーちゃんすごいよね……めっちゃキーの高い歌でも全然ヘーキで歌えるじゃん……本当に、マジで歌上手いんだろうね」


 彼女のその一言によって、俺は『ああ、やはり自分は歌が下手になったんだな』と改めて再認識した。


 先述の通り、俺は今までの人生、散々歌が“上手かったり”、“下手だったり”してきた。だから目の前の人間が言う俺への褒め言葉が、本心からのものなのか、それともただのお世辞なのか、俺にはすぐに分かってしまうのだ。


 真に、俺の歌に圧倒された人間というのは、得てして決まった反応を示す。その二つの反応というのが、いささか意外なものであり――ただひたすらに笑うのみか、もしくは絶句するか――のどちらかである。本当に歌の上手さに圧倒された人間というのは、もはや『上手い』という言葉すらも満足に言えないものなのだ。


 一方、パチパチと拍手をしながら『すごーい!うまーい!』と褒め称えてくる場合は、これはだいたいお世辞である。俺はこの褒められ方が一番嫌いだ。一番、屈辱的である。


 そして、今のなーちゃんの言葉だってそうだ。彼女はただ単に“高いキーの声が出る”と褒めているだけである。そして『歌が上手いん“だろう”ね』というこの言葉、本当に上手いと思うのであればこんな推定的な言い回しはしないはずだ。俺の胸に刺さったままの小さなトゲが、チクッと心を抉った。


 もっと練習して、鈍った腕に光を取り戻さねばならない。それだけが俺の心によく効く精神安定剤だと思うから。



――――



 宴もたけなわという事で、俺達はいったんカラオケ屋から出る事にした。いったん――といっても、アキホはもうすぐバイトがあるらしく、さっさと俺達の元を去ってしまった。



「今からあたしん家行こうよ~!お酒買って宅飲みしよう~!」



 さっきと同じ道を、居候、なーちゃん、そして俺の三人で歩いていた。そんな中、なーちゃんがやたらとハイテンション気味で、そんなことを声高に叫んでいた。

 俺は、“アリ”だと思った。これはもしかすれば、ワンチャンあるんじゃね? ――とも、思った。


「それはいいね。とてもいい。ぜひやろうじゃないか」


 俺は迷わず賛同した。しかし居候の方はというと、彼はむしろえらく渋い顔をしている。


「すーた。お前、帰らんでええの?」


 俺は時計を見た。時刻はすでに四時を回っていた。明日、俺は朝から仕事がある。たぶん、もしそのままなーちゃんの家に行ったのであれば、かなりの確率で、俺は今日中に家に帰れなくなるだろう。


「なーちゃんもう酔ってんねんやから、普通に飯食って解散しよ」


 居候のこの言葉によって、俺は初めて気が付いた。なんと、なーちゃんは酔っていたのである。全然知らなかった。もしそうなると、彼女の言葉を鵜呑みにするわけには断然いかなかった。



「おっ!王将あるやん!」


 そんなとき、居候がちょうど折よく食べ物屋を見つけた。俺は、きのう彼が王将に行きたがっていたことをふと思い出した。大人しく彼の提案を受け入れる事にした。



 店に入り卓に着くと、俺達はテーブル席に座った。俺は壁側のソファーに座り、そしてなーちゃんと居候が俺と向かい側の椅子に腰を下ろした。ひと通りお酒と料理を注文し、一息つくと、俺はふと目の前から向けられたなーちゃんの視線に気が付いた。


「んふふふ……」


 彼女はとろけるような、うっとりとした笑顔を浮かべてこちらをただ見つめていた。唇を精一杯左右に引き伸ばし、そして目を精一杯に細め、優しい笑みをただ俺に向けていた。


「……どうしたのか?」


 気になって尋ねてみるも、彼女はただ黙っているのみだ。彼女はただ、赤く火照った頬を緩ませ、俺をただ見つめるのみだった。


 たぶん、普通であれば、この状況、男としては悪くない状況だと言えるだろう。一人の女の子がずっと自分に笑顔を向けてくれているのである。しかも、彼女の顔立ちは、そう悪くは無い。まがりなりにも一度は俺が『タイプ』だと評した女の子である。だから“本来”であれば、この状況は俺にとって決して悪くない状況だと言えるだろう。



 そう――“本来”であれば、だ。



 しかし不思議な事に、俺はいまのこの状況をなぜか全く喜べなかった。なぜだろうか? 自分自身でも分からない。しかし、一つだけ、なんとなく分かる事があった――



 ――その笑顔は、なんとなくだが、とにかく気持ちが悪かった。



 二律背反の感情がそこにあった。その笑顔は造形的にはなんら悪くないのだが、しかし俺の生理的感情において、俺はなーちゃんのその笑顔に対してどことない不気味さをひしひしと感じ取っていた。


 昔、小さい頃に見た、女性を象った彫刻作品を思い出した。女性らしく、綺麗に造形された、柔らかで、温かで、優しく微笑むその彫刻に、子供心に俺はなぜか言い表せぬ恐怖心を植え付けられた記憶がある。自分にはその恐怖心の正体がいったい何なのかが上手く表現できない。しかし、大人になった今となっては、その理由がなんとなく分かる様な気がしていた。その理由こそ、いま目の前にあるこの微笑みが、これ以上ないほどに鮮明に物語っているように思えたのだ。


 それはまるで、“造形”されたような笑顔だった。その温かに“見える”笑顔の、一枚皮を隔てたその奥からは、石の様な冷たさを感じた。溢れ出るどす黒い負の感情を、薄っぺらい作り物の皮一枚でひた隠しているように見えたのだ。

 俺はふと、カラオケで曲を消された時に見せられたあのときの笑顔を思い出した。似てる、ような気がした。


 とにかくーー

 俺は彼女のその笑顔から、一刻も早く目を離したかった。見ていられなかった。直視したくなかった。しかし、不思議な魔力に縛られたように、なぜかその表情から目が離せないでいた。――まるでメデューサの微笑みだ。その笑顔の裏側に潜む“悪意”に射止められるように、俺はすっかりと石のように固まってしまった。



「すーちゃんってさあ……いま大阪で何してるの?」



 甘えかけてくる様な、しっとりと垂れこめるようなその声、その口調。――心底、気味が悪かった。まるでどろどろとした粘液を服の内側へと流し込まれるようなその不快感は、俺の内心に得も言えぬ苛立ちを覚えさせた。


「仕事?」


 俺がそう聞き直すと、彼女はゆっくりと首肯する。酔い潰れた彼女の上半身が、テーブル上にだらしなくもたれ掛かり、そのため顔は前へと突き出されていた。まるで俺に煌々と熱した業火の焼き印を突きつけるように、彼女はその得体の知れぬ悪魔の笑みを俺の目と鼻の先へと見せつけていた。


「いまは工場で働いてるよ……」


「ふぅ~ん、休日はぁ~?」


 彼女がいったいどういった意図でこんなことを聞いているのかが全く読み取れなかった。読み取れないからこそ怖いのだ。まるで面接官とのやり取りのようなその問いかけに、俺はすっかりドギマギしてしまった。


「もちろん、小説を書いている。平日だってそうだ。休み時間の合間に絵を描いたり、いろいろと……作品を作っているんだよ」


 俺はどうも気が急いてしまい、言わなくてもいいような事まで言ってしまっているような気がする。それは俺の心・思考がすべて洗いざらいに丸裸にされている様な気分で、どこをどう手で覆い隠しても全然隠しきれないでいる様な、そんな感覚だった。


「ふぅ~ん……」


 彼女は“いったん”何かを諦めたように、テーブルに乗り出した身体をいったん起こし上げた。しかし彼女は相変わらず、俺からは視線を外さなかった。顔面に張り付けたその笑顔も、見事なまでに微動だにしなかった。どうやら俺は、波状攻撃の、第一陣を退けることができたらしい(もっとも、いったいなんの攻撃なのかは全然分からない)。しかし同時に、波状攻撃ということは、第二陣、第三陣もあるということになる。


「……」


 彼女がいったん卓上に目を落とし、チャーハンをレンゲで一口分すくい上げたのを見届けてから、俺もやっと酢豚を一口つまんだ。しかし、全然ホッとした気持ちにはなれなかった。俺は警戒を続けた。



「東京どぉ~う? たのしい~?」



 出し抜けに、なーちゃんが再びそう切り出してきた。予想通り訪れた第二陣に、俺はまたしても固まってしまう。しかし彼女の質問というのは、内容だけで見ればなんら不自然な部分も無く、質問通りの言葉を返すしかないのが現状だ。その質問から彼女が何を言わんとしているのかが一切予想出来ないため、対策の打ちようがないのだ。


 だから俺はそのまま彼女の問いに答える事にした。


「ああ。楽しいね」


 すると彼女はさらに嬉しそうにニッコリと微笑み、会話を弾ませていく。


「本当に⁉ 良かった~!わざわざ遠いところから来たもんね~!楽しんでくれてあたしも嬉しいよ~!」


「ああ。俺だって、今日はありがとう。一緒に、お酒を飲んでくれて……」



 一瞬、『東京はあたしの故郷』――みたいな物言いがチラッと鼻に付いたが、それでも俺は彼女のその屈託のない明るさに、すこしだけ心を緩ませた。


「あたしね~!すーちゃんがぁ~、東京に来て良かったぁ~って思ってくれるのがぁ~、ホンット~にッ!うれしいんだよ~!」



 ――もしかすると、俺の杞憂だったのではないだろうか?



 無邪気に喜ぶなーちゃんのその姿を見て、つい俺の頭にそんな考えがよぎった。


 そう考えると、なんだか彼女の態度にどことない悪意を感じ取っていた自分がバカらしく思えてきた。もしかしたら、酔っ払っていたのは自分の方だったのかもしれない。もしかしたら俺は自分でも気がつかないうちに、例の悪癖――被害妄想的思考を働かせてしまっていたのかもしれない。なーちゃんが俺に危害を加えんとしているのではないかと、ただ一人で勝手に怯えていただけなのかもしれない。


「でもさぁ~、東京の人って、みんなせかせかしてるでしょ?」


 俺はもうすっかり警戒を解き、立て板に水を流す様になーちゃんの質問に答えていった。


「そうみたいだね。みんな忙しいんだろう」


「うん。東京の人はみんな忙しいよ」


「きみも忙しいのかい?」


 何の気も無く、俺はふとそう問いかけた。そして再び、何気なく彼女の顔を“視た”瞬間――



 俺はあまりの恐ろしさに、全身から血の気が引いた。




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