一日目 俺と居候
思えば――
俺と居候、二人はそれぞれ、違う形で、いびつな人生を生きてきた。俺達は、実に恥の多い人生を生きてきた。ごく一般的な『人の営み』なんてものは、とうの昔に分からなくなっていた。
居候の近況を聞いていると、それはそれは実に“無様”だ。情けない。みっともない。――本当、俺と同じくらいダメな生き方だ。
大学三回生のころ、アイツは唐突に、俺の部屋に転がり込んできた。理由は、ずっと付き合ってきたガールフレンドと別れたからだと言っていた。寂しい、だからここに居させてくれ、居候はそう言った。
俺達は二人とも、バイトをひたすら頑張った。俺は常に自分を必要としてくれるバイトが楽しくてたまらなかったし、きっと彼だってそうだったと思う。
本当、ダメな大学生の典型だ。
落ちこぼれ大学生というのは、ひどい、ひどい。今の俺とは“別人”である『昔の俺』も含めて、彼らはみんな慢性的な痛みを感じている。
それは例えるなら、虫歯の様な嫌な痛みだ。常に何をしていても、内側から蝕む痛みを感じている。しかもその正体は分からない。みんなよく分かっていないのだ。そして本当に馬鹿な事に、その痛みを消し去るための対処法は、あまりに簡単すぎて、逆にみんなそこに気が付かないのだ。いや――
ウソを吐いた……いま俺はウソを吐いた。気が付かないのではない。本当は、気付きたくないのだ。なぜなら、『虫歯を引っこ抜いてしまう』というあまりにもシンプルで確実なその方法は、一瞬的な激痛を伴うから……
だからみんな別の方法に逃げる。『ただ耐える』、『痛み止めを飲む』、そして場合によっては、『別な所に激痛を与えて虫歯の痛みを紛らわせてしまう』。最後の方法なんかは抜歯よりも大きな痛みを伴うだろう。信じられない話かもしれないが、愚かな人間はそんな本末転倒な事も本気でしかねないのだ。
今でこそそう考えてはいるが、情けない事に、俺もその中の一人だった。
壁によじ登る勇気も無い。だがしかし、サボっている訳では無いと、自分に言い聞かせたかった。いつまで待っていても立ち去ってくれないその壁の前で、俺はせめて身体を疲れさせるために意味も無く走り回っていた――深夜のアルバイトで、注文票と料理皿を手に、居酒屋の中を走り回っていたのだった。
俺たち二人は、その類の人間だった。
結果、二人は留年した。
留年が確定したとき、俺は怒りに打ち震えた。理不尽な怒りだ――完全無欠なる自業自得なのに。しかし、大学のとある授業でこんな話を聞いたことがある――どこの誰だったかはとうの昔にすっかり忘れてしまったが、なんか偉い賞を取った日本の研究者がこんなことを言っていたらしい。――『怒りが原動力だ』と。
それから俺は、ひたすら勉強に打ち込んだ。人間そう簡単に変われるものか――? たしかに、俺もそう思う。たしかに人は、そう簡単に変わる事は出来ない。だが、何かたった一つの、衝撃的な出来事がきっかけで、人はまるで生まれ変わったように変われるものだ。
もっとも――皮肉な事に、この衝撃的な出来事と言うのは大抵、『怒り』の感情が絡んでいる。例えばそれが、愛とか友情とか、そう言ったものであったならばどれほどよかったことだろう。残念ながら、神様は人間を、そんなロマンティックな造りには設計しなかったらしい。
中国語学科だった俺が必修授業の単位を落として留年が確定したとき、俺は恐るべき一つの計画を立てた……
その恐るべき計画の内容とは――
次回の中国語の中間試験で満点を取り、教授からそのテスト結果を返してもらった際、俺はその百点満点の解答用紙を教授の前でビリビリに破いてしまうというものだった。
おそらくそうなれば、教授は驚き、俺の行為を咎めるだろう。そして俺に向かってこう言うだろう――『この後は間違い直しもしなければならないんだぞ!』と。そして、俺はそんな教授にたった一言、こう言い返してやるのだ――『僕、満点ですよ? だからこれ、もういらないですよね?』と。
今思えば――いや、当時の俺自身でさえも、本当に幼稚でくだらないと思える様な、ささやかな“復讐”だった。しかし、俺はこうでもしてやらないことには、とても正気ではいられそうもなかった。……いくら身から出たさびとは言え。
それから俺の生活の一切は、すべてその計画の遂行のためだけに捧げられた。俺は今までの生活を、一転させた。出来る事はすべてやった。
授業――教授の言った事は全て聞き取り、全てノートに書き写す。
復習――その日授業でやった事を、もう一度軽く見直し、そして授業風景を鮮明に思い起こす。
予習――中国語の新出単語は全て調べ上げ、さらに本文もあらかじめ自力で訳しておく。そしてどうしても分からなかったところをチェックしておく。
宿題――言わずもがな、一見意味が無いと思うようなことでも真面目に取り組む。
練習――毎日二枚、紙を破く。そして鏡の前で決め言葉を練習する。
改めて考えてみると、全てやって当たり前の事だった。これがいわゆる、『人間の営み』というやつだった。俺は今までこんな当たり前の事すらしてこなかったのだ。
やがて、まるで、『1+1が2』になるように、『1+2が3』になるように――ごく当たり前の事が、ごく当たり前に起こった。
俺は、それからの毎回の小テストで、全て満点を取る事が出来たのだ。努力しても報われない――だなんてことは今までに何度もあった。『運が悪かった』とか『体調が悪かった』とか『頭の出来が悪かった』とかそんな理由で、“頑張っても無理だった”事は何度もあった。しかし――果たして俺はちゃんと努力してきたのだろうか?
当たり前の事を当たり前にしていたら、当たり前にテストでいい点数を取る事が出来て、教授が当たり前に俺に笑顔を向けるようになってきた。俺の事をバカにしていた周りのクラスメートたちも、当たり前に俺への態度を軟化させた。
何だか……複雑な気分になった。俺の今までの人生は、一体なんだったのだろう? 慢性的な苦しみを取り除くための一世一代の大手術は、存外呆気なく成功してしまい、そこはかとない空しさが、スポットライトを浴びた様にただポツンとそこに残った。
それでも、俺の計画は止まらない。シュリーフェン・プランはX-デイの半年前より既に開始されているのだ。
毎日、教授が俺の事を褒めてくれる。俺は無性に腹が立った。なにが『最近頑張ってるね』だ。よく言うよコイツ。以前は虫けらを見る様な目で俺の事を見ていたくせに。俺は素っ気ない態度を返してやった。そしてそのたびに、心が少しばかり痛んだ。
ある日、教授が俺の肩を揉んできた。ニコニコ笑いながら、俺を褒め称えながら。この行為にはさすがに驚いた。さすがに、信じられない事だった。まるで、西から太陽が昇ってきたような気分だった。強引に神輿に担ぎ上げられ、特別扱いされたようなその出来事に、俺の心の中が、グチャグチャに乱された。
どうすべきだ――?
どうすればいいんだ――?
俺はあくまで、無愛想を貫かなければならない。計画の為だ。なぜなら、ここで教授の思惑に乗ってしまえば、俺は絶対に、最後の『仕上げ』を果たすことが出来なくなる――良心が芽生え、教授から返してもらった満点の答案用紙をヤツの目の前でビリビリに引き裂く事が出来なくなってしまう。
俺の心が、良心と憎悪の狭間で板挟みになった。こんなことは予想だにしていなかった。教授の俺に対する態度が、こんなに早くに変わるとは思ってもみなかったのだ。
もしかしたら、ヤツは俺の計画に気付いているのではないか? 最後の最後に俺の強烈なカウンターパンチを食らわせるつもりが、教授は敏感にそれを察知して、その前に先手を打って俺の計画を封じ込めようとしているのではあるまいか? そんなバカな疑心を抱くまでに、俺の心は乱されていた。
そして――
ついに運命の日がやってきた。
教科書の全てを、まるで自分の庭の様に丸暗記するほどの勢いで、俺はその期末試験に臨んだ。満点を取るという行為は、ただ高得点を取るのとは訳が違う。たった一つのミスも、許されないのだ。そんなことすらも、俺はその歳になって初めて知ったのだ。
そしてテストが終わり、解答用紙が返された時――
俺は、目を覆いたくなった。
たった一つ、しかも初歩的な、たった一つの単語問題を、間違えてしまったのだ。いわゆる、ケアレスミスだ。俺は満点を取る事が出来なかった。
解答用紙を返す時、教授は俺にニコニコ笑顔を向けながら言った。
『ダントツでキミが一番だよ』
その“お褒めの言葉”が、俺にとっては敗者への侮蔑の言葉に感じられた。周りのクラスメートはみんな二、三学年下の人間だったが、その中には本気で悔しそうにしている人間もいた。たぶんそいつも『一位』を狙っていたのだろう。いい気味だ。ざまあ見やがれ。
しかし、そいつがどんなに悔しい思いをしているのかは分からないが、たぶん、俺の方が、もっと、悔しい。
なぜなら、俺の計画は失敗してしまったからだ。結局、テストの解答用紙をビリビリに破く事は出来なかった。解答用紙を破き、教授にそれを咎められた際に用意していた“あの言葉”も、言えなかった。あらかじめ考えていた決め台詞、『だって、俺は間違い直しをする必要がないから、もうこれは捨てても良いんでしょ?』という皮肉も、ついに言ってやることが出来なかった。
結局、これはこれでよかったのだろうか? 今でもそれを考える事がある。そして、今でもそれは分からない。
だが俺の人生はその後も歪み続けていた。
ある日俺の親が、『看護学校に入れば?』と言ってきた。今考えればあの時の母のあの提案は、何の考えも無く、ただの思いつきで言った事だったのだと思う。俺はバカみたいにその考えに飛び付いた。
なぜ俺はそんな考えに飛び付いたのだろうか? 結局、今更テストでいい点数を取った所で、大学を留年したという事実に変わりはない。たぶん逃げたかったんじゃないだろうか? ――何から? ――何だろう? ――たぶん、留年したという事実から?
たぶん俺は、“言い訳”が欲しかったのだと思う。大学を留年するくらいであれば、その前に自分から大学を辞めて、『立派な看護師』になりたかったんだと思う。だってもしそうなれたら、俺が犯したこの『無意味な失敗』も、『有意義な失敗』として美化されるかもしれないからだ。『大学を留年して中退したからこそ、立派な看護師になれた』と中途半端に胸を張る事が出来るからだ。
苦痛を激痛で紛らわす――人間は実に、本末転倒な事をしてしまう。
そして俺は看護学校を受験するため、猛勉強を始めた。たぶん、大学受験の時よりも勉強したと思う。高校で一度勉強したことを、良い歳こいた成人男性が必死こいて勉強するのだ。いくつもの学校を受験した。
そして結果、落ちた。
俺はその時、世界を恨んだ――『努力したのに、報われなかった』と。結局のところ、俺は何にも成長していなかったのだ。
あのときの、看護学校の面接を思い出す。やけに上から目線の女の面接官。23歳の大人が、媚びへつらうように喋り、高慢な態度の面接官が冷めた目でこの惨めな俺を見下ろしていた……
「ああッ!」
自らの口から出た予期せぬ大声に、俺自身がハッと驚いた。周りの乗客が不審な目でこちらを見ている。俺はとっさに咳払い。過去の自分の醜悪さに耐えきれずに発狂しかけたのを、俺は“いつものように”咳払いで誤魔化した。そして少し我を取り戻すと、また性懲りも無く考え込み始めた……
『結局』――という言葉を何度も使っていると思う。『結局』――この言葉は27歳までの俺の人生そのものを表している。
結局俺は、看護士になる事を諦めた。そして普通に、もと通り、大学を卒業する事にした。本当に、何をやっているのか、てんで分からない。
居候は……どうなんだろうか?
あいつは留年した後、しばらくして大学を辞めた。その後に聞いたアイツの近況と言えば、『地元の富山に戻った』、『父親の仕事に同伴し、アメリカに行っている』、そして『今、東京で夜の仕事をやっている』――ということくらいだ。
アイツは何の為に東京に行ったのだろうか? なんだかひどく、“過去”の俺と動機が似ている様な気がした。
――市ヶ谷駅……市ヶ谷駅……
アナウンスが鳴った。
居候が送ってきた画像によると、どうやらここで一度降りるみたいだ。降りた後は、緑のライン――『東京メトロ南北線』なるものに乗って麻生十番を目指した。乗り換え切符を買うときに路面図を眺めてみたが、意外にそれほど複雑では無かった。大阪の路面図とそう大して変わらない。
無事乗り換えを果たした俺は、少々得意になって居候にメッセージを送った。
『東京の電車もたいしたことないね。乗り換えなんて朝飯前だったよ』
煽ってやった。東京の電車をあれだけビビっていた自分がバカみたいだった。
そして麻布十番駅にたどり着いた。時刻は、7時17分を指していた。一番出口を上がりつつ、俺は携帯画面に目を落とす。着いた事を報告しなければ。
『もうとっくに着いてる。どこにいるの?ずっと待ってるんだk……』
メッセージを打っている最中――
「すーた」
声が掛けられた。
「あれ?」
ちょうど階段を上がった目の前に、ヤツが立っていたのだ。
「居候……」
バカに大きな体躯……人相の悪いヒゲのおじさん……懐かしい顔だ。
「久しぶり、すーた」
電話越しには、至極不機嫌そうだった彼が、実際直接に会ってみると、至極嬉しそうな顔を俺に向けていた。
「……」
こういう時って、上手く言葉が出てこない。
「元気やったか?」
会った時に言おうと決めていた言葉とか、今まで彼に対して思っていた事とか、全てこの『一見』によって吹き飛ばされるからだ。
だから俺は、ただ表情と、身体で、気持ちを伝える事しか出来なかった。
「……」
「……」
俺たちは二人、互いに黙ったまま――
ヒシ……
熱く、固く抱き合った……
背の低い俺と背の高い居候とではうまくかみ合う事が出来ない。しかし、それでも俺達はしばらくの間中、抱きしめあった。