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麻布十番の居候  作者: そーた
37/52

三日目 ゴリラ



「……とまあ、こんな感じと言った所かい?」


 居候は神妙な顔で、こっくりとうなずいた。


「一体全体、今まできみはどうやって生活していたんだい?」


 俺は彼が今も尚生きていられる事が不思議でならなかった。



「支援制度よ」


 彼はグビッとビールを一気に煽った。


「支援制度?」


「おん。毎月15万円国からお金借りれんねんけど……まあ、言ってまえば借金よ。いま借金ばっかが増えていってる状況ってこと」


 彼は自嘲気味に笑った。俺はその表情を見て、彼がとうとう追い詰められているのだという事を悟った。


 そこで俺は、ふと頭に浮かんできたもっとも気になる点を聞いてみる事にした。



「ちなみに、社長が50万円を返してくれないのは、一体どういった了見かね?」


 居候の表情が僅かに曇った。


「社長はずっと『例のお酒の取引が難航してる』とか言って全然金返そうとせえへんねん。いま知り合いの弁護士に頼んで社長に返すよう言ってもらってる」


 その話になると、彼はまたイライラし始めた。


 たしか、50万円くらいの争いであれば『少額訴訟』というものが出来たはずだ。この場合は費用も少なく、短期決戦で決着をつける事が出来る。しかし知り合いの弁護士を通しているというのはどうだろうか? その弁護士にどれくらいの費用を持って行かれるか……


 うろ覚えの知識の中で考えてみたが、すぐにやめにした。詮無きことだ。どうせ裁判に勝ったとしても現ナマが回収できなければ意味が無いのだ。


 とにかく今は、現状の打開策を考えねばならない。


 そして俺はしばらく考えを巡らせた。

 すると案外、思っていた以上に早く解決策は見つかった。



「とりあえず、いま住んでいるマンションから引っ越せば良くないだろうか?」


「どこに?」


 彼は間髪入れずに低い声で返してきた。彼のその様子は、まるで俺という人間がこの大変な状況をちっとも理解しておらず、まったく頓珍漢なアドバイスでもしているかのように、苛立たしげに見えた。


「どこって……安いところだよ」


 彼は呆れも呆れたように、長く、低いため息を吐いた。『ほら見ろ、この目の前の“脳みそ御花畑野郎”は、やっぱり安本丹(あんぽんたん)な案を出してきたぞ』――彼のそんな心の声が、ありありと態度に現れていた。


 俺は彼のその態度に対して、『決して腹を立ててはいけない。彼も大変なのだ。それを分かってあげなくちゃいけない』――と心に言い聞かせた。


 そして居候は疲れた様に頭をもたげると、俺の様なバカでも理解できるように、出来るだけ解りやすい言葉で、言葉をぶつ切りにして大きな声で怒鳴った。



「あのな!引っ越ししろって簡単に言うけどな!引っ越しにも!お金が要んねん!いま!一銭の金も無いって状況やのにどこにそんな金があんの⁉」


 確かに、言われてみればそうだ。俺は自分の至らなさを恥じた。たしかに引っ越しをするにはお金が要る……


 たとえば……


 たとえば…………


 …………たとえば?



「……たとえば?」


 つい口からでた質問に、彼はますます呆れ果てた。ついには笑ってしまったほどだった。


「いや!たとえばって……何を言うてんの⁉ 荷物とか持っていくのにもお金はかかるやんけ!」



 荷物を持っていくのに……でもそれは……



「どうして……荷物を持っていくのにお金が掛かるのか?」


 俺はまさかと思った。いまからこの男が言わんとしている事は……


「いや、だから引っ越し業者とか頼んだら15万くらいお金飛ぶやろ⁉ 田舎とかやったら引っ越し業者もそんなお金かからんかも知らんけど、東京やったらそれくらいすんねん!」


「……」


 俺は少し……腹が立った。


「いや、自分でやれよ」


 つい無遠慮に、言葉を投げつけてしまった。


「どうやって⁉」


 居候にとって、俺のこの言葉は予想外のものだったらしい。彼はいくらかドギマギとしながらも、激しくそう反発してきた。


「知人の車を借りたり、レンタカーを借りたり……」


「お前そんなん!冷蔵庫とかはどうすんねんな!普通の乗用車に荷物全部なんか入りきらんやろ⁉」


「ひとつずつ持っていけばいいじゃないか。なんどだって往復すればいい」


「いや……どんだけ時間かかんねん⁉ だいいちガソリン代もめっちゃかかるやろ⁉」


 彼は言葉に詰まってきた。


「引っ越し代よりかは安いだろ? なんだったら荷物を一つひとつ担いで歩いて行ってもいい」


「はあ⁉」


 さすがに、最後のはすこし極論すぎた。でも、間違ってはいないはずだ。


「いまのきみの状況は、『緊急事態』じゃないのかね?」


「……」


「生き延びる為の金すら無い状況なんだろう? だったらそれくらいの面倒な事もやってのけるべきなんじゃあないのかい?」


 正直これにはさすがの俺も、舐めていると思った。体ひとつで済ませられるところは最大限に体を使えばいいのだ。


 ――とは言っても、俺は却ってむしろ安心したりもした。まだ彼には余裕がある。どうやら彼はまだまだ極限状態というわけではないようだ。



 その後、居候との会話は一度途切れ、今はお互い酒を飲んで飯を食っていた。彼はさきほどの話に対して、ついに首を縦には振ることはなかった。しかしそれも仕方のない事だとは思う。俺も逆の立場になってみれば、引っ越しなんて面倒臭い。しかし、いずれいよいよとなった時には、彼も決断するだろう。――そう信じたい。



「そういえばさ……」



 俺はまた気になっていたことがあったのを思いだした。いや、と言うよりむしろ、これが全てにおいての根本からの解決策にも思えた。



「実家に帰ればいいんじゃないのかい?」



 俺がこの言葉を発したとき、どうやら俺は、彼の逆鱗につい触れてしまったらしい。俺のこの発言を皮切りに、彼の身体はビクリと固まり、続いて大きく上下に揺れ動いた。



「それはな。絶対に、死んでも嫌やねん……」


 大きな貧乏ゆすりをしながらも、しかし彼はまだ何とか理性は保とうとしているようだった。



「親の事?」


「おん。正味……これは家の事やし……他人には……理解でけへんのかも知らんけどな……」


 彼の苛立ちは相当なところまで昇りつめているらしい。その証拠にテーブルの下では激しい貧乏ゆすりが行われているのだろうか、彼の身体の動きに釣られてテーブルまでもが上下にガンガン揺さぶられていた。卓上の刺身やつまみなどがガチャガチャと空中に浮いていた。


「……」


 俺は黙りこくるしか手が無かった。居候の父親の事については、以前彼から聞いたことがある。

 元水泳の選手で国体にも出た泳ぎ手だという。地元でもかなりの名士らしい。その息子である居候も、水泳の道を歩むことになり、彼自身もかなり頑張ったそうだ。

 しかし、“名士の息子”である彼は周囲の人間から常に父親と比べられ、そのためにコンプレックスばかりを感じていたそうな。


 父親はかなり厳しいらしい。おそらく彼はいま、実家と絶縁中なのだろう。大学を留年して、中退し、いろいろあってその後は喧嘩別れして上京した……


 おそらく、彼に正論をぶつけるのであれば、今ここで、それでも実家に帰るべきだと諭すことだろう。


 しかしながら、今の俺には黙りこくるしか手が無かった。なぜなら、彼の気持ちは痛いほどよく分かるからだ。

 実際、俺の両親も、かなり融通が利かない。融通が利かない――というよりは、話を聞かない。理解がない。よく、『本当に自分を分かってもらうためには真正面から相手と話をしなければならない、自分の本当の気持ちをぶつけないといけない』――と言われることがある。俺もそれは良く言われた。友人にも言われた。先輩にも言われた。マンガでも言っていた。アニメでも言っていた。歌でも言っていた……


 しかし、世の中の大半の人間には理解できないであろうが、会話の一切が通じない人間というのが、この世には確かにいる。彼らはときどきこんなことを言う――『いっぺんお互い腹割って話し合おうや』と、『お前が何を考えてるのか全くわからんから、一回お前の思ってることをはっきり言ってくれや』と。しかし、この罠には騙されてはいけない。その時そいつはすでに、“否定モード”に入っているのだ。相手の話を聞くために話を聞くのではない。相手の話を否定する為に話を聞くのだ。


 残念ながら、この俺自身にもその“血”は色濃く流れ込んでいる。だから俺は“自分”として生まれてきたこの一生の中で、その事についてだけは細心の注意を払っているつもりだ。真に相手の話を聞くときは、必ず理解してあげないといけない……真に相手の話を聞くときは、必ず理解してあげないといけない……



 だから、その一点を踏まえたうえで、俺はそれでも、彼に言ってやらなければならなかった。



「居候くん。それでもきみは、ここに居ちゃいけない」


「じゃあどこにいくの?」


 さっきと同じく、居候は打ち返すようにして言葉を返してきた。俺は怯まず続けた。


「実家じゃなくても良い。埼玉とか、千葉とかでもいいじゃないか。千葉なんてどうかね? ディズニーランドがあるぞ?」



「東京から逃げるって事?」


 彼の言い方にはどこか刺々しい感情があった。彼はどうしてそこまで東京に拘ろうとするのだろうか?


「きみ、だいいちに、どうして東京なんかに来たんだい?」


 それは、俺が今回疑問に思っていた事についての原点にあたるべきものだった。彼はしばらく考え込むように黙りこんでいたが、やがて覚悟を決めたように姿勢を正すと、ポツリポツリと口を開き始めた。



「俺の将来の夢はな……自分の店を……持つことやねん」


「みせ? ……とは?」


 具体的には、何の店か?


「夜の店」


 単純、かつ、抽象的な答えだった。


「そんなに夜の仕事が好きなのかい? 普通に飲食店とかは? それじゃあダメなのかい?」


 居候はまた少し間を置いた。そして今度は両手を使って身振り手振りを忙しなく交えながら話し始めた。しかしそのジェスチャーはまたそのつど彼の言っていることと呆れるほどにそぐわなかった。


「この仕事やってるとな……いろんな偉い人とか……すごい人とかと関わる事が出来るし……そういう人らの話を聞いたりできるんは、たぶん普通に会社勤めしてるだけじゃまず経験できひん事やと思うねん……しかも東京で夜の店経営してる人らとかって普通の人らじゃ考えられへんくらいいろんな修羅場潜ってきてるから、そんな人らと関わるのは絶対に自分の成長につながると思うねんやんか……」


 必死で話す彼を見て、なんだか、彼はひどく喋りにくそうにしている印象を抱いた。


「だから今回のことだってな……コロナで給料減って生活でけへんって事をいろんな人に相談してるけど、みんな『大変なんはみんな一緒や。お前が地元に戻るんは勝手やけど、俺はもうお前の事をそれまでの奴やったんやって思って縁切るからな』って言ってんねん。だから俺、今ここで逃げる訳にはいかんねん」


 居候にそう言っている人間たちの顔は、容易に想像がついた。想像はついていたが、俺は尚も尋ねた。



「その人達は……偉いのかい?」


 いつの間にか俺の声すらも暗く落ちていた。


「だからその人らはずっとこの東京で店とか会社とか経営してる人らやから、並みの修羅場は潜ってないから、せやからここで、コロナで収入無いからとか言って逃げたりしたら、もうその人らからは愛想つかされんねん。しかも俺もここで働き始めてからその人らにめっちゃお世話なってるから、絶対裏切るようなことはしたないねん」



 斜向かいに視線を落としつつ話す居候に、俺はなんだか、大学時代の俺を見ているような錯覚を覚えた。いや、大学時代だけじゃない。そういえばサラリーマン時代も同じような感じだった。

 『~~役員』とか『~~部長』とか、そんな肩書きを持つ人間を見ると、すぐにその人物を盲信したがる。すぐにその人を尊敬したがる。その人間が“武勇伝”を話しだすと、すぐに身をただし、メモを取り出して、話を聞きたがる。


 目の前の居候を見ていると、まるであのころの自分がそのまま置き去りにされたような、そんな自分自身を第三者として見ているようだった。


「あのね、居候――」


 今から俺が言わんとしている事は、居候に言っているのではない。あのころの自分自身に対して言っているのだ。



「この世に……“偉い人間”などいないのだよ」


 居候の眉がピクリと動いた。


「……」


「きみが尊敬している、きみが魅了されているその人達も、きみと同じく例外なく“屁をこいて、糞を垂れる”んだ……言っている意味が分かるかい?」


 いま考えると、本当に馬鹿らしい。“生きた人間”を信仰することほど、バカらしい事は無い。


「果たしてその人達は、“真にきみの為を思って”そう言っているのかい? 違うかもしれないぞ? ただ金勘定の為だけにきみを世話したのかもしれない。もしくは、よくよく考えてみるときみの言うその“世話”とやらは彼らにとっては何ら造作も無かったことなのかもしれない。ただの“ついで”だったのかもしれない。きみの言うその“修羅場”とやらも、実は彼らが居候に対して張ったただの見栄なのかもしれない。ウソなのかもしれない。誇張かもしれない。きみはとかく、あの人は偉い、あの人はすごい、なんて言っているけど、彼らはみんな人間なんだ。神様じゃないんだよ」



 話す内に、だんだんと腹が立ってきた。居候に対してじゃない――過去の自分に対してだ。俺は今までの生涯で、散々他人から偉そうにされてきた。散々他人から、お説教されてきた。どうも俺は昔から、お人好しがすぎるらしい。『お前の為に言ったってんねんぞ⁉』と言われれば、すぐにその言葉をそのまま信じ切ってしまう。そしてその後は相手の言葉をすべてそのままの形で噛まずに呑み込んでしまうのだ。骨が刺さっても吐き出そうともしない。

 むろん今となっては、『お前の為に~』と口に出して言うやつほど、本当は俺の事なんか毛ほども思ってなどいないということを知っている。だからそのからくりを知って以降、俺は他人を罵倒するとき、必ず『お前の為に言ったってんねんぞ⁉』と前置きをしようと心に決めている。今のところその機会はいまだ訪れていないのだが……


 学生時代から言われてきた。どうも俺は、“殴りやすい”らしい。どうも俺は、“言いやすい”らしい。たぶん、反撃してこない事が分かってるから、他人は俺を攻撃したがるのだろう。


 話が逸れた。結局、“あの時”偉く見えたアイツも、“あの時”すごそうに見えたアイツも、今となってはただのポンコツにしか見えない。そう言われてみればときどき違和感はあった。『この“すごいお方”であれば、もっとこうするはずなのに……』とか、『この“偉いお方”であれば、もっとこういう事を言うはずなのに……』とか、ふとそんなことを思う事がたしかに度々あったのだ。しかしそのたびに俺は思い直した。『きっと何か深い思慮あってのことなのだろう』――と。


 ――だが違った。全然違った。彼らはただ、ポンコツなだけだったのだ。彼らはただ“パフォーマンス”が上手なだけだったのだ。彼らに対してムカつくのではない。そんなポンコツどもの言いなりになっていた自分に対して、甚だムカつくのだ。



「夜の仕事なんて、地元でも出来るだろう? 自分の店を持ちたいのであれば、地元で開けばよかろう」


 俺はどうにかして彼を説得したかった。しかし彼はイラついた様にまた身体をビクビクと震わせる。


「だから!東京で夜の仕事をやるんと地元で夜の仕事やるのとはまったくもって訳が違うねん!」


「どう違う?」


「さっきも言ったように東京にはすごい人らがいっぱいおるから!俺はその人らの背中見て成長していきたいねん!」


 彼の言っている事は、絶妙に辻褄が合っていなかった。第一に、その“すごい人ら”と関わるのと、夜の仕事をやる事には何の関連性があるのだろうか? 夜の仕事をやる以外にも、“すごい人ら”と関わることは出来るはずだ。



「居候くん……きみはまさか……」


 俺は、本来心に留めておくつもりだった事をとうとう言ってやることにした。……賭けても良い。もしもいま、俺がこの話を口にしたら、まず彼は、百%の確率で、暴れ出すだろう。


 しかし、俺はついに、言ってやることにした。俺は覚悟を決めた。



「きみは、大学時代、夜のバイトをやっていたのだったな?」


 彼は頷いた。


「きみはひょっとして……バイトの延長線上で、この仕事を続けたいと思っているのではないか?」


「どういうこと?」


 居候の声が、一段と低くなった。


「いや、俺にも心当たりがあるんだ。俺も大学時代、同じことを考えていたことがある。俺は大学の時、学校にも行かずに居酒屋のバイトに明け暮れていた。毎日毎日シフトに入るものだから、そりゃあ店長にも重宝されたよ。まるで自分の居場所はここにしかないと思えるほどにね……」


 彼が怒り出す前に、俺は立て続けに全て言い切ってしまおうと言葉を続けた。


「だから俺はてっきり自分の天職は居酒屋なのかとも思ったよ。だから卒業した後も、居酒屋で働こうと思った。でもそれは大きな間違いなんだ。ただの勘違いなんだよ。よく考えても見ろ。その時の俺は居酒屋しかやったことが無かった。もっと他に向いている事、天職があるかもしれないのに、“居酒屋しかやったことがない”から居酒屋が天職なのだと思っていたんだ。でも違った。俺は今こうして、天職と出会っている。クリエイターという天職に出会っている。もしあの時そのまま居酒屋の道を進んでいたならば、俺は自分自身が本当にやりたかったこと、幼いころに見ていた将来の夢に、気づいていなかっただろう……」


「いや、だから……俺、夜の仕事やる前は介護系の会社とかでも働いててん……そのうえで今のこの仕事やりたいと思ってんねんやろ⁉」


 また、テーブルが上下運動を始めた。俺が話している間、どこから声が出ているのか分からないが、居候の体からは『ウホッウホッ』という声が聞こえていた。マジでゴリする五秒前――と言ったところか。


 そして次の瞬間、ついに俺は、爆薬の“引き金”となる言葉を口にしてしまった。



「しかし……俺にはどうも……消去法でその仕事を選んだように見えるのだが……」



「だからお前に何がワカンねんなぁッ⁉」



 彼の絶叫とともに――居候の大きな両手が、力の限りテーブルへと叩きつけられた。



「なッ――⁉」



 テーブルはけたたましい音を立てながら、直立不動に宙を舞う。



「お前ッ!俺の事ッ!なんもッ!知らんくせにッ!知った風なッ!クチッ!聞くなやッ!」



 一言発するたび、彼は机をバンバン叩きあげた。まるでバスケットボールを突いて弾ませる様に、何度も何度も、テーブルを宙に浮かせた。あまりに綺麗に宙に浮くため、卓上の料理や酒はすべて慣性の法則によって安定した状態を保っていた。



「落ち着きたまえ!怒っても無駄だ!詮無きことだ!じゃあどうすると言うのだね⁉ 無駄な意地ばかり張って飢え死にでもするつもりかね⁉」


 彼の圧倒的な野生の迫力に気圧されながらも、俺も負けじと言い返した。食器やテーブルがぶつかり合う音がすさまじく、ともすれば俺の声など掻き消されてしまいそうだ。


「だから実家に帰るくらいやったら死んだ方がマシやねん!さっきからそう言ってるやろ!ウホウホウホ!」


 そして――


 ついに彼はテーブルの縁を、親指と人差し指だけを使ってつまみ上げた。何をするかと思いきや、彼は事もあろうに、テーブルをまるで団扇のようにして上下に振り振り、大きく扇ぐようにして振り回し始めたのだ。



「うひゃ!こりゃあたまらん!」



 団扇、下敷きなどで扇がれるのであればまだしも、それよりもはるかに巨大なテーブルで至近距離から扇ぎたてられるのだ。巻き起こった凄まじい風圧に、俺は椅子に座ったままの状態で吹き飛ばされた。



「どうも乱暴だ!なんという乱暴!まさに横暴だ!これはひどい!ひどすぎる!こんな事、してはならない!」


 突風の様な風が俺を吹き飛ばすも、その風は俺の背後の壁にぶつかって跳ね返ってもくる。まるで循環する様に吹き荒れる嵐の中、椅子に座ったままの俺の体は絶妙なバランスを保って空中を彷徨った。


「きみにはどうも真剣さが足りない!実際に死の間際に立った人間は体裁など気にしていられないはずだ!だいいち、東京なんぞに来た意味が分からない!きみはひょっとしたらただ東京に対する“憧れ”だけを持って上京をしたのではなかろうか⁉」


 宇宙空間の中で、体をふわふわと回転させる宇宙飛行士のように、俺の体もクルクルと回転した。視界が暗転し、もう何が起きているのか全く分からない状態だったが、そんな中でも俺は叫び続けた。


「うるさいねん!なんでお前にそこまで言われなあかんねんな!」


 彼はより一層激しく、テーブルを振り回し始めた。店内は騒然――それどころか、全ての店員、客がみな、ところせましと吹き荒れた。


「お客さん!店で暴れないでくれよ!もうめちゃくちゃだ!」


 店長らしき人物の声が、風に紛れてかすかに耳をよぎった。


「おい!見ろよ!魚が泳いでるぞ⁉」


 巻き添えを食らっている他の客の声もあった。気になったので、何とかしてその方向を見てみると、なるほど、同じように風に巻かれた魚たちが、さも空中を泳いでいるかのように浮遊していた。



 ますます唸りを上げ、巨大化していく竜巻。



 やがてそれは店一店舗――いや、ビル一軒を丸ごと遥か天空へと巻き上げた。その際、そのビルは根を張る土台の地面ごとそのまま根こそぎ抉りあげ、そのままロケットのように回転しつつ宇宙空間へと誘われていった。

 しかしその“島”は大気圏まで到達した辺りで、そのままその空間へと定着することになる。重力と浮力の絶妙なバランスの狭間で宙を浮かび、それより上へ上昇する事も、下へと落下する事も無かった。のちにそのビルは、『天空の城』と呼ばれるようになる。


 営業妨害として俺達が店から追い出されたのは言うまでもない。




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