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麻布十番の居候  作者: そーた
34/52

二日目 異人種との決別


「タバコ吸いに行かん?」


 森がそう誘ってきた。俺もちょうど吸いたくなっていたところだ。


 俺はひとり先にトイレに寄った。そして後から喫煙所に向かうと、廊下の途中でなにやら森がジッと立ち止まっていた。


「どうしたんだい?」


 俺はそう尋ねてみた。彼はある一点を熱心に見つめている。


「熊だね」


 彼がずっと眺めていたのは、店を入ってすぐのところに立っている、大きな木彫りの熊だった。大きな魚を抱えている。


「写真撮ったら?」


 彼が面白そうにそう誘ってきた。


「有名なものなのかい?」


「知らん」


 そう言って彼は喫煙所へと入っていった。俺は携帯で一枚写真を取ると、彼のあとを追いかけて行った。ついでに携帯画面の時計を見ると、時刻は22時9分だった。


「中川は元気にしているかい?」


 アメリカンスピリッツに火を付けると、俺は出し抜けにそう切り出した。中川とは、会社員時代、俺が最も愛していた同僚だ。とても可愛かった。俺は生涯で、あの子ほど可愛い生き物を見たことが無かった。ちなみに男である。


「分からん。俺、東京異動なってから会った事無いから。アイツどこにいるの?」


「最後は俺と同じ係にいたよ」


「じゃあぶんちゃんの方がよく知ってるじゃん」


 彼はしゃがみ込みながら、タバコの煙をプーと吹かした。


「まあ、彼は“復帰”以来、俺のいた係でそれなりに幸せに暮らしていたよ」


 我が愛しの中川は、俺達が二年目になってすぐの頃、ある日突然会社に来なくなったことがあった。


「そうなんだ」


 そう言って彼は笑った。その笑い方にはまた、人を見下した様な感じが含まれていた。


「俺がいたからね。俺が苛められていたおかげで、彼は反対に苛められずにすんだ。なぜだか係長は、彼の事は気に入ったらしい」


 森は驚いた様子だった。そして一人ごちた様にして呟いた。


「まあ……人によって合う合わないはあるからね。それにしても“あの”中川が気に入られるって……」


 彼は頭を抱えて笑い出す。その様子を見て、俺はさすがに不審に思った。


「きみは……中川の事が嫌いだったのかね?」


「いや、嫌いではないけどさ……」


 嫌いではないけど?


「アイツはクズだよ」


 そう呟いた森は、とても悪い顔をしていた。数年前には、決して見られなかった様な顔だった。


 そして戸惑いを隠しきれない俺が思わずその訳を尋ねてみると、彼はニヤニヤと嘲る様な笑みを浮かべながら言った。


「だってさ……アイツ、二年目の頃、『自分のとこの係長に怒られたから』って理由で次の日から会社に来なくなったじゃん」


 あれはたしか金曜日だった。中川は係長に怒られたらしい。そして、土日の休日を挟んで次の月曜日、彼は無断欠勤をした。俺を含む他の同僚たちへの音信もいっさい不通になった。そして彼はそれから約半年の間、“うつ病の療養”という名目で、会社に来なくなってしまったのだ。要するに、俺と同じだ。



「ちょっと待て!」



 俺は慌てて呼び止めた。さすがに森の様子がおかしいと思った。


「きみ、憶えているかい?」


 なぜなら、森は以前、こんな様子じゃなかったからだ。


「中川が行方不明になって間もない頃の話だ。俺はその時、『彼は家に引きこもってネトゲ三昧になっているだろうから、俺達もネトゲに入り込めば、中川を探し出せるかもしれない』ってきみに言っていたのを覚えているかい? 俺はその時、中川の事はたしかに心配だったが、その反面、ふざけてもいた。そして『いずれはこの出来事を小説にして書きたい』とも言っていたのを覚えているだろう? かなり悪ふざけできみにそんな話をしていたはずだ」


 あの時の俺は、たしかに連絡が取れなくなった中川を心配してはいたが、すこし楽しんでもいた。俺はそういうやつなのだ。


 ――もしも本当に中川が家でネトゲ三昧になっていたら?


 ――そして中川を救出するため、俺も長期休暇を取ってネトゲの世界に入り込んだら?


 ――そしてやっとのことで中川を見つけ出したと思ったら、本人はそのネトゲの中で魔王にも匹敵するほどの力を持つようにもなっていたら?


 ーー会社に戻るよう説得するために、新魔王となった中川とラストバトルをする羽目になったら?


 俺の頭の中はどうしてもそんなバカな空想が広がってしまって、ついつい楽しげな調子でそんな事を森に話してしまったんだ。


「するときみは俺にこう言ってきたじゃないか? 『中川が大変な事になってるって時に、そんなフザケた事を言うだなんて、お前サイテーだな』って」


 そう。彼はやはり真面目なのだ。俺はそのとき『冗談じゃないか』と取り繕ったものの、請け合ってはくれなかった。



「ああ、あったね。そんなこと……』


 その話は、森もどうやら覚えていたらしい。彼は懐かしむように頷いた。

 

 すると彼は、しゃがんだままの状態で俺の顔を見上げ、俺を真正面に見据えたまま言い放った。



「あの時はあんなこと言ったけどさ……いま考えると、クズだよ。そんなことで仕事休むだなんて……」


 そう言い放った森の顔は、カッコ良かった。鋭い目つき、歪んだ眉、吊り上げられた片頬……やはり彼の顔は、カッコ良くなっていた。


 顔のパーツ、造り自体が変わったわけでは無い。かつてはバカ面臭を醸し出していたあの顔自体、別に材料そのものが変ったわけでは無かった。しかし、口元も、鼻立ちも、目つきも、眉毛も、今となっては全てが、彼の何とも言えぬ『カッコ良さ』を醸し出すための要素となっていたのだ。

 もちろん、ここでいうその『カッコ良さ』とは、“悪い意味”でのことなのだが……


 俺はふと、そんな変わり果てた森の表情を見て、こんなことを考えた。




 ――俺も、もしあのまま会社に残っていれば、コイツみたいになっていたのかな?


 そう考えると、俺の体に嫌な寒気が走る。やはり、俺の決断は間違ってはいなかったようだ。



「森……」


「なに?」


 俺はどういうわけか、急に彼をいじめてやりたくなった。


「俺、いま、手取り42万円もらってる」


「はあッ⁉」


 当然だ。何も大した仕事はしていない。だけど家の会社で働いているのだ。当然、このくらいの額は貰えるものだ。


「マジかよ……やべーな、それ……」


 どうして急にこんなことを言い出したかというと、それはただ“収入の自慢”をしたかっただけではない。


 俺はただ、理不尽に思ってほしかったんだ。


 俺と森、どちらが優れているかと言えば、どこから誰がどう見ても、この男だろう。どう考えても彼の方が頭が良い。そしてどう考えても彼の方が頑張り屋さんだ。そして、彼の方が常識を良くわきまえている。人の営みなどついに理解し得なかった俺など、足元にも及ばぬだろう。


 しかし――


 彼よりも、俺の方が多くお金を貰っている。収入とか、仕事とか、社会的地位とかで人を比べるというのは、言ってみればこういう事だ。


 もしも『収入の多寡』で人間の価値が決まるというのであれば、俺と森とでは、俺の方が上等な人間という事になってしまう。

 今こそ、俺は社会の人々に聞いてみたい――


 あんたらの価値観で見るならば……毎日、製品を包むための新聞紙をペラペラやっているだけのこの人間は、そこそこ偉い人間という事になるわけだが、それについてはいったいどう説明するつもりかな?



 一服した後、森が先にテーブルに戻り、少し後に俺もテーブルに着いた。アメリカンスピリッツはやはり“火の持ち”が長い。


 そしてその後はいくつかアニメの話に華を咲かせてみたりもした。しかし、俺はどうも楽しめなかった。俺達の会話は常にぶつ切りに途切れ、途切れてしまった。


 そういえば、こんな話もした。


 俺が森に対して、中学や高校の同級生と会っているかどうかを尋ねた。どうしてそんな話になったかは覚えていない。


 すると彼は『ぜんぜん会っていない』と答えた。俺は訳を聞いた。すると、彼はたった一言、こう言った。



「縁切り癖があるんだよ」


 ちょっと気取った風な言い回しに見えた。


「縁切り癖?」


「うん。学生時代につるんでた奴とかも、社会人になったら全く連絡取らなくなったし、社会人になってからも、違う部署に異動になったりしたら、もう元の部署の人間とは連絡取らなくなる……」



 俺はやっと合点がいった。彼と離ればなれになってから、森が俺との連絡を拒絶し続けていたのは、こういう理由があったからなのか……



「なんとなく……分かる気がする」


 俺はひとりでに呟いた。そういえば俺にもそんな部分が確かに存在した。


「いや、ぶんちゃんは大丈夫だよ」


 すると彼は即座に俺の言葉を否定した。


「え?」


「だって今日もこうやって会おうって連絡くれたじゃん」


 たしかに言われてみればそうだった。しかし違う。そうじゃない。


「いや、俺にもあるんだ。縁切り癖」


「そうなの?」


「ああ。俺は今までの人生で何回か、性格がガラリと変わる事があったんだ」


「性格?」


 これでは分かり辛かったか?


「価値観……って言えばいいのかな? とにかく俺は、性格とか、価値観とか、そういった類のものがガラリと変わるたびに、俺は今まで好きだった友人を嫌いになってしまうんだ。実際、俺はすこし前までは、高校時代の同級生とつるんだりもしていたが、今ではキッパリと交友を断っている。会いたくないんだ。ムカつくんだ」


 話しているうちに、俺は自分でも何を言っているのかが分からなくなってしまった。そして出し尽くされた小便のようにチョロチョロと、言葉が尽きると、森はこちらも見ずに頷いた。


「なるほどね……」


 そうしてまた、会話が途切れた。俺は気ばかりが急いた。


 何か話さねば……何か話さねば……


 せっかく再会できたこの森との時間を大切にしたいという気持ちとは裏腹に、俺はなかなか効果的な話題を見つけ出すことが出来なかった。



「もういこっか!」



 その時、森がピシャリとそう放った。その言い方は、どこか呆れのような感情も含まれているようにも思えた。俺との会話を楽しめなかったのは、彼も同じだったのではないだろうか……?


 店員が伝票を持ってやってきた。値段はそうはっきりとは覚えていない。一人4千円とか、それくらいだったと思う。



「じゃあぶんちゃん、その4千円俺に頂戴よ。俺、カードで払うからさ」


 そう言って彼はクレジットカードを店員に手渡した。それは森の勤めている会社――つまりは俺が元いた金融会社のクレジットカードだった。わざわざ自会社のカードを無闇に使うなど、大した愛社精神だことだと思った。


「見て、ゴールドカードだよ」


 彼は店員から返されたクレジットカードをチラッと俺に見せてからサッと財布に戻す。


「全部カードで払ってるのかい?」


「もうさ……給料がぜんぶカードの支払で無くなっちゃうんだよ」


「バカな⁉」


 そういえば彼は金遣いがとても荒かったのを思い出した。彼は江戸っ子の『宵越しの金は残さず』という精神を地で行くような男だったのだ。


「カードの支払額見た時さぁ、ぜったいこれカード悪用されてる!って思って、それで支払の内訳確認すんだけど……ぜんっぶ心当たりあるやつなのね……」


「きみ、それはまずいよ……一度カード払いをやめないと」


 心配になってきた俺は、おもわず意見を挟んでしまう。


「いや、だから……支払に給料全部持ってかれるんだから、次の月もカード払いでしか生活できないんだって」


 彼は自嘲めいて笑った。


「それは……ひょっとして……『卡奴』というやつではないかッ⁉」


「……かーぬー? なにそれ?」


 聞き慣れない単語に戸惑った様子の森が、そう言って眉を顰めた。


「説明しよう。『卡奴』とは、聞いての通り、『カード(卡)の奴隷』ということだ。中国語を勉強しているときに、『本気で学ぶ中級中国語』という参考書を買った事があったのだが、その『第六课』の長文問題でクレジットカードの問題点についてを説く論文があったのだ。そこでは『クレジットカードは支払いを便利にする長所もある一方、今のきみのようにカードの支払の為に働かなければならなくなるという悪循環を引き起こす恐れもある』ーーと提唱されている。その論文ではその悪循環の事をこう呼んでいる。カードの支払の為に働く奴隷――すなわち、『卡奴』と」



「そうなん」



 その一言で会話は終わった。



――――



 店を出るとそのまま俺達は目黒駅へと入っていった。帰る方向は違えど、途中までは彼と一緒らしい。俺は駅の切符売り場で、麻布十番駅行きのチケットを買った。


「悪いね。待たせた」


 ジャラジャラと小銭を入れて切符を買い、急いで戻ると森がすでに改札口のそばで待っていてくれた。


 彼はどこか物言いたげな表情で俺を迎えた。


「謝っているだろう? なにをそんなに怒る必要があるのだ?」


 彼の表情はどこか呆れたような色を浮べている。


「いや、別に怒ってはないけどさぁ……」


 すると彼がとうとう小馬鹿にしたように俺を鼻で笑った。


「今のこのご時世に切符買うやつなんていねぇだろ……」


「世迷言を……切符を買わなければ電車には乗れないだろう?」


「いや、『Suica』使えよ」


 スイカ……聞いたことがある。たしかこう……ピってするやつだったか?


「そんなもの使っている奴がこの世にいるのか?」


「いや、みんな使ってるよ。逆にわざわざ切符買ってる奴なんて今日日いねぇだろ」


 彼の言っている事は、ほとんど初耳だった。それゆえに、嘘くさく思えた。だから俺は彼の言っている事にまともに取り合おうとはしなかった。おそらくそれは彼の主観に過ぎないだろうからだ。たしかに俺も、スイカを使っている人間を見たことはあるが、それでもやはり俺の見る限りは、いまだ切符を買っている人の方が断然多いように思う。現に、地元に居る時にはそんなことは微塵も感じなかったし、たしか俺の知っている人間たちも、誰もかれも小銭を出して切符を買っていたはずだ。


「俺はそんな小洒落たものはどうも好かん。だいいち、カードに一度お金を入れてピってするなんて事自体が怪しからん……破廉恥すぎる!」


 たぶんこの男の事だ。江戸っ子ぶって良いカッコウをしているだけなのだろう。


「でもそっちの方が安くなるよ」


「笑止!そんなわけがあるか!」


「あるよ。だって切符にも消費税があるだろ……」


「なに⁉」


 そのこと自体、初耳だった。


「あるんだよ。切符売り場って一円玉とか使えないだろ? だから端数の金額とかは繰り上げになるんだよ。でも『Suica』だったら電子マネーだから一円単位で払えるからそっちの方がお得なんだよ」


「驚いたな……どうしてそんなことを知ってるんだい?」


「どうしてそんなことを知らないんだい?」


「うぬ……」


 そんなやり取りをしていると、彼はおもむろに俺とは別の方向へと踵を返した。


「じゃ、俺、こっちだから。今日はありがとね、ぶんちゃん」


 そう言って彼は俺に手を大きく振り上げた。


「ああ。また、きっとどこかで会おう……」


「うん。きっと……」


 そうして二人は、別方向に歩み出す。俺と森は、別方向に歩み出した。


 果たして本当にまた、会えるのだろうか?


 俺と彼は、もう、違う人種だ。



「も~~~り!」



 俺は大声で彼を呼び止める。彼は何も言わずに振り返った。



「死ぬなよ~!」



 彼はクスっと笑うと、何も言わずに振り返り、去っていった……


 

 結果的に言うと、森の精神は全然大丈夫だった。俺は一時、良からぬことを心配してしまったが、どうやら杞憂だったようだ。

 

 あいつはこれからも、やっていける。どれだけ辛い環境でも、どれだけ悪意に満ちた環境でも、あいつならきっとやっていけるだろう。


 なぜならーー

 彼自身が“そう“だから。


 彼は変わった。彼の心は汚れてしまった。

 誰だって心は綺麗に保っておきたい。どんな悪人でも、本当は綺麗でいたかったはずだ。

 しかし、肥溜めの中で生きていかざるを得ない状況になったとき、人はどうしても綺麗なままではいられない。

 ウンコに嫌悪感を抱かないようにするためには、自分自身がウンコになってしまえばいいんだ。周りの汚物と同化さえすれば、病気になることもないだろう。健康なままで生きてられる。


 だから、それがいわゆる、『大人になる』ということなのだろう。人間は、大人になっていかなければならない。だからウンコにならなければならない。人間は、いつかウンコマンになれる日を夢見て、成長していかなければならないのだろう。


 それが、『大人になる』ということだ。



「…………」



 ふざけるな、と思った。



 そんなもんになるくらいなら、俺は人間のままで死んでやる。

 

 俺は一生涯、人間を貫きたい。



 二ヶ月前に自殺した友人は、『神様のようないい子』だった。あんな聖人君子な男、少なくとも俺は見たことがない。まるでかぐや姫の男バージョンだ。こんな薄汚い世界で生きていくにはどう見ても場違いだったんで、だから21歳の若さでお星様にならなければいけなくなったのだろう。

 

 俺はお前の気持ちがわかるぞ。


 さぞ生き辛かったろう。お前は間違ってはいなかった。


 だから俺も最期まで人間でいよう。人ならざる者になってまで、俺は生き永らえたくはない。

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