二日目 竹の湯
温泉は飲んではいけません。決して真似しないでください。
時刻は18時すぎ――
「すーた!銭湯行こ!」
突如居候が飛び起きた。
「あるのかい?」
つい思わず、東京にも銭湯が存在していることに驚いてしまったが、よくよく考えれば銭湯くらい、普通どこにでもあるだろう。逆に俺はどうして東京には銭湯が無いと思い込んでいたのだろうか?
「飲みに行くの8時やろ? 俺も仕事あるから銭湯行ってそのまま一緒に電車乗ろうや」
そのころ、ちょうど俺もセリフ付けの作業が終わった所だった。俺は急いで準備を済ませると、居候と二人、部屋を後にした。
さすがに夏も終わりとだけあって、この時間帯になると外はもうすっかり真っ暗だ。
マンションを出ると、俺達は建物が密集する区画の中を掻き分けて行った。昨日の朝に散歩で通った道もあった。しかし道音痴である俺はすぐにもう前後不覚になってしまい、いま自分がどこを歩いているのかがさっぱり分からなくなってしまった。しかし方向だけは、何となくつかめていた。ただ俺の方向感覚というものは、樹海の中で使用する方位磁針くらいに信用できない。
彼に連れられてしばらく歩くと、やがて立ち並ぶ住宅の半ばに、ひっそりと漏れ出る“明かり”が見えてきた。真っ白の光を放つその正体は、閑散としたコインランドリーだった。そしてそのとなりに、黄色い明りを放つ立派な風呂屋も並んでいた。なかなか大きかった。看板には『竹の湯』と書かれていた。
玄関先の真正面と右面の壁一面には、真四角の靴箱がずらりと張り巡らされていた。左側には店内へ入るための横開きの扉があった。
ガラス張りの横引き戸の向こうをチラリと覗きこむと、店の外観に見合った広めのリビングが奥の方まで続いていた。テレビやソファーなどもついている。その左側は、窓だ。俺は先ほど、その窓から中を少しだけ覗いた。そしてその窓に向かい合うようにして、番台があった。その番台にはオヤジが鎮座し、左側に男湯、右側に女湯が控えていた。俺は適当な靴箱に靴を放り込み、カギを抜く。そして先ほど覗き込んだリビングへと入り込んでいった。
早速、番台のオヤジに入浴料を支払った。入浴料は470円――大阪とほとんど変わらなかった。俺達は特に何も持ってきてなかったため、番台でバスタオルと小さいタオルを借りた。そこまでは普通の銭湯となんら変わらなかった。至って平凡だった。
――しかし、横からひっそりと囁いてきた居候の言葉に、俺は思わず、ブッたまげた。
「ここ、サウナ入るには700円要んで」
「すわ!」
思わず、店が爆発するかと見紛うほどの大声を上げてしまった。建物はまるで地震でも起きたかのようにビリビリと震動した。火災報知機が作動し、一時は消防隊が全車両出動しそうなほどの騒ぎとなった。
「落ち着けよ。急に大声出すな」
居候が冷静に俺を宥めかけてきた。俺のあまりの大声量に、居候を除く周りの人間は一時的に放心状態となっていた。軽い聴覚麻痺を起しているのだろう。閃光手りゅう弾を浴びた人間が陥る、あの症状だ。これ以上騒ぎを起こすわけにもいかない為、俺達はさっさと脱衣所の中へと隠れてしまった。
「どうしてサウナ如きにそんな吝嗇精神を上げるのかね?」
脱衣所で服を脱ぎながら、俺は不満をぶちまけていた。俺の質問に対し、居候は特に何も言わなかった。おそらく彼も知らないのだろう。そして俺は一人ごちるように呟いた。
「まあ、どうせこっそり入っちまえばいいんだ。こういうのはだいたい形式上金を払わないといけないだけで、本当の所はみんな無銭で入ってるものなんだよ」
俺の地元の銭湯なんかはどこもそうだ。俺の地元の銭湯では、サウナに入るには50円支払ってバスタオルを借りなければならない。そしてそのバスタオルを尻に敷いてサウナに入らなければならない――という“形式上”のルールがある。
しかし当然、誰もそんなルールは守っていない。律儀に50円を支払っている人間といえば、初めて銭湯に来た余所者か、もしくは今やすっかり礼儀正しくなったヤクザ屋さんくらいなものだ。俺の実家の近くの銭湯にも、その地域の組事務所の親分さんが時々やって来るのだが、それはそれはもうなんと紳士的なことか。部下さんたちがとにかく良く働く。まるでヤクザ映画に出てくる親分と部下のやり取りそのままだ。思わず映画の撮影でもやっているんじゃないかと疑ってしまうほどだ。そしてなんといっても、俺達に対してもすごく礼儀が正しい。おかげでこっちが恐縮してしまうほどである。
閑話休題。とにかく、この銭湯もそういうことなのだろう。サウナを入るのに700円も取るっていうのはいささかジョークが過ぎるが、まあいい。バレないだろう。
そして服を脱ぎ捨て、棚に突っ込むと、俺は鍵を閉めようと、下駄箱のカギを差し込んだ。ここの銭湯では下駄箱のカギを脱衣所のカギとして併用するらしい。なんとも面白いシステムだ。
「ほう、ここの銭湯は入浴口にタオルを置いておく棚があるのか」
浴場を出てすぐのところに設けられたステンレス製の二段簡易棚。そこには他のお客さんの物であろうバスタオルがすでに何枚か用意されていた。これは非常に助かる。滋賀に住んでいたころは、どこの風呂屋にもこんなものは置いていなかった。したがって風呂を出た際には、びしょびしょの体のまま自分の棚まで歩いて行かなければならないのである。そして脱衣場の床が濡れると、他のお客さんが『びしょびしょやんけ~!』と言って怒り出すのだ。――いったいどうしろと? 俺は滋賀に住んでいたころ、これについて散々悩まされた記憶がある。滋賀出身の誰かに聞くと――『風呂から上がると、まずは手持ちのハンドタオルで身体を拭うんだ』って言われた。いやいや、俺は風呂に入るのに、ハンドタオルを持たない派だぜ? 身体を洗うギザギザタオルさえあればそれでいいんだ。
なにはともあれ、俺はそこだけは、どうあっても滋賀の文化には馴染まなかったのである。
そういうわけで、俺もその棚に、橙色のバスタオルを置いておいた。すぐ横には、茶色のバスタオルが置いてあったのを憶えている。そうして俺はいよいよ浴場へと入っていった。湿気を大量に含んだ生暖かい空気が、すぐに俺の体を取り囲んだ。
浴場内はうっすらとした霧によって白み掛かって見えた。まるで風景写真を白いトーンで覆いつくし、色彩を薄めたような景色だった。
そしてその湯気に遮られた向こう――最奥のスペースでは、大き目の湯船が俺を待ち構えていた。そういえばむかしテレビで、『東京の銭湯は壁際に湯船が設置されている』と聞いたことがあったが、どうやらあれは本当だったらしい。(大阪の銭湯では普通、湯船は中央に設けられている)
俺はまず、シャワーで身体をサッと軽く洗い流した。しかしまだ本格的には体を洗わない。俺は湯船に浸かってから、最後に体を洗う主義だからだ。
俺が湯船へとたどり着くと、よく見るとそこにはもうすでに居候の姿もあった。
「居候くん、ここはなんだい? 薬湯かい?」
俺はその前で立ち往生し、辺りを見回すも、この浴場内で目立った湯船なんてものはここくらいのものだ。おそらくはこの湯船がメインディッシュの湯船なのだろう。
しかしそれにしてはどうも奇妙に思えた。なにが奇妙かって、湯の色だ。普通メインディッシュの湯船といえば、至って平凡な無色のお湯なものである。色が付いた薬湯なんてものは、通常なら浴場スペースの片隅に、申し訳なさそうにポツンと、まるで添え置きの漬物のように身を小さく丸めているものだ。薬湯がこんな堂々としているはずもない。
「湯の色が真っ黒じゃないか?」
そう、真っ黒なのだ。入っている人のアソコが全く見えないくらい、真っ黒なのだ。
見下ろす視線の先には、寝そべるようにしながら湯に浸かっている居候がいる。俺は彼の上から、まるで得体の知れない洞穴を覗き込むときの様な気味の悪さを感じながら、そう言葉を投げた。
すると居候はボーっと筋肉の緩みきった顔で、なぜか彼自身がやたらと自慢げに、俺の質問に答えた。
「だって温泉やもん」
俺はまたもや、仰天した。
「なんと!ここの湯は温泉なのか⁉」
これには正直おったまげた。またまたデカい声を張り上げてしまった。俺の声音が浴場を反響して、壁がスピーカーのように共鳴した。どこかで、窓ガラスが割れる音がした。
「だからデカい声出すなって」
居候はまたもや俺を咎めたが、先ほど同様、慌てた様子なんてほとんどなかった。
「たかが一介の銭湯に温泉なんてものがあるものなのかね? いや、そもそも東京に温泉なんて出るものなのかね?」
俺はそう聞いて、やっと湯の中に足を踏み入れた。そして湯船に入りつつ、湯の感触を確かめる。どうせ、ウソであろう。俺の地元にも、温泉を騙った風呂屋なんてものはたくさんある。きっとここもそうに違いない。
体全身を漬けてみると、湯はかなり熱く感じた。俺はどちらかといえばぬるま湯が好きだ。普段俺は銭湯に行くと、いつもメインディッシュ風呂には入らず、薬湯を好むものだ。
「あっちの湯の方がヌルいで」
居候がすぐとなりの湯船を、視線だけで指し示した。俺はパッととなりの湯船を一見してみたが、“形”だけを見る限りは、いま入っている湯船と何ら大差はなかった。まるでもともと一つだった湯船を無理矢理二つに分けたかのような造りだった。
俺はたまらず隣の湯船へと移動する。そしてぬるま湯を期待しつつ、俺は湯へと体を漬けた。しかし、その湯はたしかにさっきのよりかはぬる目ではあったが、しかしそれでもなお熱く感じた。
俺は我慢して身体全身を浸からせ、そして湯を腕の皮膚にゴシゴシ擦り付けてみる。――ヌルヌルした。その時、俺は確信した。――これは、温泉だ。
「本当だ。すごい、すごいぞ。たしかに温泉だよ!」
そう驚いては見るものの、居候の反応は薄かった。たぶん彼にとっては、さほど温泉というものに興味が無いのであろう。だから、こうした平凡な銭湯に温泉がわき出ている事自体に、さほど感動も覚えないのであろう。
「泉質は何かね?」
俺はついそう聞いてみたが、やはり居候からの返事は無かった。無視された。無理もない、彼が知っているはずも無かろう。
仕方がないので自分で考えてみることにした。
たぶん、腐乱臭がしないということは、酸性ではないだろう。ならば中性か、アルカリ性か……
俺は湯船のお湯をガブガブと飲み干してみた。
「ちょッ!すーた!お前何やってんねん!」
居候がすさまじい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「変な味がする。中性ならば味はしないはずだ。つまりは……泉質はアルカリ性か」
「お前……大丈夫なんか?」
「ああ。俺は大丈夫さ。しかし、体には良くないだろうね。温泉ってのは不思議なもんさ。浸かる分には体に薬だが、飲む分には体に毒……面白いね」
「……」
居候が何とも言えぬ形相で俺の顔と温泉水をジロジロと交互に見つめていた。彼はそれっきり、何も言ってくる事は無かった。そしてしばらくしたのち、彼は手のひらにすくった温泉水を何か思いつめたような目で眺めていたが、ふと自分自身のタイミングで意を決したように息を吐くと、いきなり手のひらのそれを口に含みだした。すると彼は、当然のごとくすぐに激しく咳き込みながら湯船の外へと口の中のものを吐き出した。彼は死にかけた表情でしばし項垂れていた。




