一日目 生きる価値の無い”シラミ”
フロアに足を踏み入れると、たちまち馬鹿でかい音楽が津波のように俺達を攫った。
「え、ここってホンマに“普通”のバーなん? なんか“すっごい”女の人がいるけど…」
一人の女性とすれ違ったとき、彼女がそう呟いた。だだっ広い間取りのバーには、彼女の言う『すっごい女の人』が数名、縦横無尽に歩いていた。その女性たちは、なるほど確かに『すっごい』出で立ちをしていた。
キラキラと光る衣装。ショート丈の、ほとんどブラジャーと変わらない様なトップスに、ムチムチに張り付いたホットパンツ。今俺のとなりに居るちんちくりんとは、月とすっぽん。きれいな柔肌を惜しみ隠さず露出しまくる女性店員たちは、まさに月がすっぽんぽんになったみたいだ。そんな彼女たちが、トレーを片手に客人たちへの給仕をしていた。
長めのバーカウンターの向こう側には同じような格好をした女の子三人ほどがお酒を造っている。そしてこちら側には背の高い小さな丸テーブルが何台も並べられており、数名の客がたむろしていた。広さの割に客が少ないからか、店内は閑散とした印象を放っていた。
俺達が陣取ったのは、店のさらに奥側のテーブル席。秘密裏にポッカリとスペースを開けたような、入り口からは見えない隠れたような空間だった。ここには背の低い大テーブルが設置されており、その周りを取り囲むようにソファーが並べ立てられていた。すぐそばにはダーツが備え付けられている。
俺はとりあえずヨギーパインを注文した。お酒はお酒だが、今の俺にとってはチェイサー変わりだ。二人が何を頼んだのかは知らない。居候ならどうせレモンチューハイあたりを頼んだのだろう。
「お疲れー」
居候の音頭とともに俺達は軽く乾杯した。二人はスミノフを飲んでいた。俺もスミノフにしておけば良かったと思った。
「お前いまどうやって生活してんの?」
ふと、後ろから二人の話し声が聞こえた。俺はといえば、いくつかの人影を隔てた向こう側でチョロチョロと働いている店員の女の子達をまじまじと鑑賞していた。カウンターの向こうには、右から数えてボーイッシュな金髪の女の子、中央には黒いロングのクールビューティー、一番左はミディアムヘアの巨乳の女の子。――俺は、彼女たちがセックスをするとき、一体どんな顔と声で喘ぐのかを、一人で勝手に妄想していた。この遊びは、結構楽しい。だから居候たちの話し声も聞こえている事には聞こえてはいるが、実際何を話しているのかは特に興味も持たなかったのだ。
「パトロンの人に支援してもらってる」
「はぁ? お前パトロンおんの?」
居候の苛立ったような声が聞こえた。
「うん。お金持ちのおじさんらがいっつもあたしにお金くれるねん。だから今のコロナ禍でも全然お金には困ってないよ」
外野で聞き耳を立てていた俺も、彼女のその余裕げな口振りはやけに鼻に付いた。
「おまえマジの港区女子やん!」
叫ぶ居候。俺の耳がピクリと動いた。
「うん。あたしの職場の上司月給500万やもん」
話がかみ合っていなかった。『おまえマジの港区女子やん!』という言葉から、どうして上司の自慢話に繋がるのだろうか?
しかしその時の俺は、やはり酔っていたのだろう。
「俺の年収も500万だよ」
気が付けば、俺は彼女の方へと振り返っていた。なぜか彼女の言葉につい反応してしまった。俺はつい、彼女の上司とやらに対して、訳の分からない対抗意識を燃やしてしまったのだ。俺だってすごいんだぞ、港区女子なんかには負けないぞ、という事をアピールしたかった。
何はともあれ、驚いたはずだ。しかも驚くのはまだ早い。年収500万というのは、額面での話では無いのだ。手取りで500万円なのだ。お前の上司がどれだけ稼いでいるかは知らんが、俺の父親は社長だ。父親の工場で働いているからにはやはりそれなりの給料は貰える。実際やっている仕事と言えば、商品を新聞紙で包む際に、包む人が新聞紙を包みやすいように、俺が横から新聞紙を二枚だけピラッピラッとめくってやるだけの仕事だ。ほとんどアルバイトだ。だけどこれだけの給料がもらえるんだ。どんなもんだ!
「年収じゃなくて月給が500万やで? あたしの上司」
しかし俺は絶望の奈落に突き落とされた――
しまった。やってしまった。酔っ払うあまり、彼女のよく話を聞いてなかった。
「月給……だと……?」
俺は死を覚悟した。たぶん、次の瞬間には、『それぐらいだったらあたしもとっくの昔に稼いでる』とか、およそ耐えられないほどの侮蔑の言葉が来るだろう。
「いや……それ、上司の話やろ⁉」
しかし、次の瞬間、思いがけず居候が助けてくれた。彼の横槍のおかげで、俺は彼女からの追撃を免れることができたのだ。彼は心底呆れた様子で彼女を責め立てる。
「上司が月給500万って……だれもそんなん聞いてないから!」
そして、居候はしばらくのあいだ、また彼女を罵倒しはじめた。さきほどはそんな居候を酷いヤツだと思ったものだが、この時ばかりはそんな彼に深く感謝したりもした。そして俺は、二人がやいやいと騒いでいる隙に、半ば逃げ出す様にしてトイレへと駆け込んだ。
――失策だった。何たる醜態か。
小便器の前に立ち、身体中に沁み渡るすべてのストレスを股間の一点に集め、爆発させるように一気に放尿した。そして馬鹿でかい声でため息を吐き出してみる。これは俺のいつもの癖だ。ウンコ、小便をするとき、俺はいつも大声を上げるのだ。
ありったけの全てを出し切ると、俺はふらつく足で何とか洗面台へと向かい合った。ひんやりと冷たい洗面台に両手を掛け、にべも無い動作で蛇口をひねった。水道水が滝のように勢いよく流れていた。そして俺は手も洗わずにただジッとその流れ出る水を眺めていた。
ふと、顔を上げた。鏡を見た。
目の前に居たのは、眉間にシワの寄った根性の悪そうな中年男性だった。
――シラミじゃないか……
ドストエフスキーの『罪と罰』の、主人公を思い出した。彼曰く――世の中の大半の人間は、シラミである。
シラミ――たとえ殺してしまったとしても神様から一切お咎めの食らわない、何の価値も無いシラミ。27歳、台湾で、自分は絶対そうなるまいと、決別を誓ったシラミ。
シラミどもの価値観によると、人間の価値というのは、全てが『収入』や、『社会的地位』や、『資産』などで決まるらしい。そしてシラミどもは、そういったステータスを持ってない人間を見ると、たちまち彼らを嘲笑めいた憐憫の目で見るのだ。
俺は違う。違うはずだ。俺はシラミどもの価値観とは違う。違うはずなんだ。金持ちになろうものなら、いつでもなれるのだ。なにせ俺の父親は社長だ。父親から金を貰って自分で商売を始めることも出来る。自由も尊厳も全てをなげうってさえしまえば、俺はいつでも勝ち組になれるのだ。
でも違う。俺はその道を選ばなかった。映画であればいつもハッピーエンドを好む俺が、自らの人生においてはハッピーエンドを選ばなかった。
この俺に残された道は、二つの結末だ――
①自由を捨て、ただ我慢し、そして家庭を築き、大勢の子供と孫に見取られながら、心地よく死んでいく、ハッピーエンド。
②かたや、夢を追い、自由を求め、徐々に貧しくなり、そして最後は何も得られないまま、たった独りで惨めに死んでいく、バッドエンド。
ーーこの二つを見比べた時、俺は“僅差”の判定で後者の方が良いなと思えたのだ。たしかに、そう思えたのだ。
だから、俺は“ステータス”なんてものはいらない。“真”の自由を求めたい。だから貧乏でもへっちゃらさ。地位なんて無くてもへっちゃらさ。
……へっちゃら、の、はずなのに……
「すーた」
鏡の端切れに映る入り口からは、いつしか居候が顔をのぞかせていた。
「居候くん。きみもトイレかい?」
「いや……お前、帰ってくんの遅いなと思って……」
俺は誤魔化すように手を振り、そして足早に彼の横をすり抜けようとした。
「なんかあったん?」
しかし、彼の声が俺を呼び止めた。
「……」
俺は足を止めるも、何も言わずにいた。しかしそれでも彼の方を振り向いた。居候は、不思議なものでも見るかの様な目でこんな俺をジッと見つめていた。
「居候くん。俺はね、自分自身が惨めに感じる時があるんだ」
おもむろな切り出し方に、彼は少々面食らったようだ。
「俺は本当に、小説を書きたいと思っているのだろうか……」
そもそも、俺が自らの人生で、最も求めているものは何なのだろうか? ーーいろんなことに挑戦し、様々なドラマを繰り広げるが、結局のところ俺の人生には『目的』なんてものがまるで無い。物語には一貫した『話の筋』が必要なのだ。これじゃあまるで素人が下手くそに書き上げただけの長編小説みたいだ。
「俺は確かにいま、やりたいことをやっている。今はただひたすら、自分の頭の中で出来上がったものを表現している」
「だから、お前は小説を書いてるんじゃないの?」
居候の言葉に、俺は自分でも自分自身が分からなくなっていた。
「ああ、たしかにそうだよ。ぜったい、そうに決まっている。だから、俺には金なんてものは要らない。地位なんてものも要らない……でも、奴らはきっと、それを信じようとはしないだろう」
「やつら?」
「そう!シラミどもだよ!もし俺が、彼らに対して自分の価値観をぶつけてみたとしよう。じゃあどうだろうか? あいつらはきっと、鼻で笑うに違いない。奴らにとっては、この世にはたった一つの価値観しか存在しないのだから。俺の思い描く『真の幸せ』なんてものは、ただの負け惜しみとして処理されるのだよ」
俺たちの、この平成4年生まれの世代はクソみたいな世代だ。不景気だったからという理由もあるだろうが、俺達が中高生の頃、大人たちは平気な顔して『勝ち組・負け組』の価値観を“勝手に”判断していた。『年収がいくら以上あるものは勝ち組だ』とか、『いつまでも人に使われてたら負け組だ』とか、そんなくだらないことをマスメディア筆頭に、大人達が平気な顔で論じていたのだ。
「そんな勝手な認識が、嫌だ。勝手に俺を憐れむな。俺の方からすればそいつらの方が哀れだ。俺は、そんなくだらない価値観からはすでに脱却している。俺はシラミじゃない」
だが――
「だが俺は、シラミたちに勝手に哀れまれるのだけは我慢ならない。だからどうしても見栄を張ってしまう。年収だとか、地位だとか、そんなくだらないもので張り合おうとしてしまうのだ」
絞り出す様にして出した“訴え”に、居候はただ口をつぐむばかりだった。やがて、彼はポツリと、呟くようにして口を開いた。
「お前は、金とか、名声を得る為に、小説を書いてんのか?」
まさに、本音を言い当てられたような気分だった。俺の口からは、もはや留まる事を知らず、本心が流れ落ちた。
「これは、“呪い”なのかな? 自分では、『そうじゃない』、『そんなことない』って考えたとしても、やっぱり本音ではそれを求めてるんだ。立派な小説家になって、良いカッコウして、そして不労収入にて楽な生活をする。そしてあくせく働くシラミどもを見下ろして笑うんだ。『ざまあ見ろ。散々俺の事をバカにした結果が、このザマだ』ってね。どうしても、そんなことを心の奥底では思っているんだ。これはどうしようもないだろう? 心の奥底にある“澱み”は取りきれない――深すぎて、手を伸ばしても届かないんだ。そんなことを考えている奴が成功するなんて、あり得ない話だ。俺は所詮、芸術を真に愛してなどいないのだ。本当の才能というものは、何も小手先の技術の有無なんかでは無い。恐らく天才というやつは、真に純粋な気持ちで“それ”を愛している者の事を言うのであろう?」
俺がそこまで言い切った時、居候はしばし考え込んだ様子で、俺から視線を外していた。そして再び、真っ直ぐ俺を見つめると、彼は俺にこう問いかけた。
「お前はさ、いつまで、夢を追い続けるつもりなん?」
「いつまで……か」
「おう、要するに人生設計よ。例えば何歳まで挑戦し続けて、それで成功せいへんかったら何の仕事をしようとか……そういうの、決まってる?」
それは、決まっている。全て、決まりきっている。
「死ぬまで」
短く、そう答えた。
「死ぬまで?」
「ええ。俺にとって、『失敗』というのは、成功を見ずして人生のタイムリミットが来ることだよ。さまざまなタイムリミットがある。寿命のタイムリミットが来るかもしれない、金が尽きて、空腹のタイムリミットが来るかもしれない、そして、明日にでも車に撥ねられて死ぬかもしれない」
俺はもう、それ以外の道は全く考えてなかった。“芸術家”として芽を出すまでは、金も地位も嫁も、なにも要らない。
俺の、破滅的ともいえる悲壮な決意に、居候はフッと口を綻ばせた。少なくとも、可笑しくて笑ったようには見えなかった。そして、彼は言った。
「死ぬまで、認めたくないねんな?」
「認めたくない? なにを?」
「自分の人生が間違ってたって事を……」
俺の心の中に手を突っ込まれ、人に見られないように隠していた恥部を、ずっぽりと取り上げられたような気分だった。
「だって、そうやん? 実際、人に迷惑かけんと、真っ当に生きるためには、自分のやりたい事を我慢するのが一番やん。だから、俺らのやってることっていうのは、正しくないんやと思う。だからさ、それでも自分は正しかったって証明する為には、最後までやりきるしかないわけやん」
まったくもって、そのとおりだった。俺がいつしか夢を諦めた時、その時、この創作活動に費やした膨大な時間は、全て無駄になってしまうのだろうか。全ては玉手箱の煙のように消えてしまい、後に残るのは年老いた自分だけになってしまうのだろうか。
「だから、たとえ間違ってたとしても、意地でもそれを、黒を白にするために、やり続けるんやろ?」
「……そうだね」
俺は、なんだか夢見心地な気分で、居候の元へと歩いて行った。
大きいな。俺の目の前には、彼の大きな胸元が広がっている。
「そうだよ」
そして俺はまた一言、彼の胸元に、顔を埋めた。――甘い、白い、良い匂いがした。この匂いは、懐かしい。『ブルガリ』って言ってたっけ? 大学時代、一緒に住んでた時、よく彼の香水を勝手に使っていたな。
「でも、俺はね、居候くん――」
深く埋めた俺の頭を、彼の大きな片腕が優しく包み込んだ。俺の額のすぐ上に、居候の息遣いが聞こえた。そして俺は、自分でも驚くくらいの穏やかな声で、自らの“核”を吐露した。
「――それだけじゃなくてね、俺はこの間違えに間違えきった“人生”すべてを、“正しかった”事にしたいんだよ」
彼は何も言わない。
「恥にまみれた過去全てまでも――」
真っ黒なオセロの盤面を――
「全て、白く、ひっくり返してやりたい……」
「……」
しばしの時間、俺達はそうしていた……
そして、やがて俺達の背後から、女の声がかかった。
「どこ行ってたん? 全然戻ってけえへんから……」
彼女だ。
「きみ……」
俺は頭をもたげると、きょとんとした様子の彼女に抗議の声を上げた。
「こんなところに何の用かね? ここは男子便所だぞ」
彼女は打ち返す様にして答えた。
「ここ、女子便」
――ふと周りを見ると、何人もの女性たちが不審者でも見るかの様な目つきで、抱き合う俺達二人の事を遠巻きに見ていたのだった。




