クモの魔物バエル
魔人の力を発揮している時のタナトスの速度は、音速を余裕で越えていた。
それは鉱山内を旋風で満たしてしまうもので、短剣を振るう動作をしなくても蜘蛛の魔物の柔らかい肉なら切り裂いてしまうほどだ。
瞬きすら許さない時間。
一秒が一分へと引き伸ばされていると思うほどの密度の濃い出来事。
一秒経てば十匹に及ぶ蜘蛛の魔物が腹を裂かれて、地面へと落下している。
その中でもちろん絶命している物もいるが、傷が浅いのか生きて動いている物もいた。
そして何匹かがスイセンに向かっていることにタナトスが気づけば、足の軸を上手く活用して方向転換し、一直線に援護に向かう。
向かうことは許しても近づくことは決して許さず、タナトスは蜘蛛の魔物を切り裂いていた。
もはやタナトスには呼吸する暇もない。
呼吸するより早く、鼓動が早まった心臓より速く、血流の流れより更に速く、電気信号すら上回ってしまいそうな反応で体を動かす。
しかしそんな速さを発揮しても、蜘蛛の魔物の殲滅にはほど遠い。
「こっちに意識を集中させないと駄目か」
タナトスはぽつりと言葉を漏らすと姿勢を低くして、足払いをしながら体を回転させた。
すると足払いで小石が舞い上がり、小石が落下する前にタナトスは更にもう一度足払いをかけながら体を回転させる。
タナトスの二度目の足払いは器用に小石を蹴り飛ばし、小石は霧散して天井にいる蜘蛛に衝突していった。
致命傷にはならない攻撃だが、自分に意識を集中させるには充分の行動だ。
蜘蛛の魔物達はタナトスへ目がけて一斉に粘液を飛ばし始めた。
一体の粘液はせいぜいコップ一杯分ほどに過ぎないが、数十匹となるとホースで水をぶちまけた量となる。
それほどの量となると、タナトスが回避行動をした後の地面に付着すると、大きな消化音を鳴らして大きな穴を作ってしまうほどだ。
もし当たっていれば、体が酷く溶かされてしまうのは容易に想像がつく。
「スイセン、まだか!?もう短剣がドロドロだぞ!」
タナトスの振るっていた短剣は深く刺さないと致命傷にならないために、蜘蛛の魔物の体内の粘液にまで刃が達していた。
そのおかげで短剣の刃は融解し始めていて、切るのが難しい程となっている。
「ちょうどできました!即効性が本当に強いですから、手を切らないように気をつけて下さいよぉ!」
そう言ってスイセンは遠慮なくタナトスに向かって、毒仕込みの短剣を投げ飛ばした。
タナトスは飛んでくる短剣を手に持っていた短剣で弾いて勢いを殺し、空中に舞った所で短剣をキャッチする。
そこからだ。
タナトスの姿が影となって、再び見失うほどの速度を発揮したのは。
速さ自慢のスイセンですら驚く速度で、次々と蜘蛛の魔物の体には傷ができていて、一気に地面へと蜘蛛の魔物は地面に落下して絶命していく。
もう蜘蛛の魔物達は逃げ惑うことしかできない。
蜘蛛の魔物はタナトスはおろか、スイセンに向かって攻撃する猶予すらなく、粘液を飛ばすために口元を咀嚼している間にはスイセンの毒が体を蝕んでいて、意識を失って絶命するだけだ。
その様子は、今度は十秒すら満たなかった。
まさに数秒後には蜘蛛の魔物は動かぬ屍の山と成り果てていた。
「ここはこれで全てらしいな」
あらかた片付けた所でタナトスは動きを止めて、短剣に付着した血を振るい捨ててスイセンの近くへと歩み寄る。
まさに一瞬と思えるこの出来事には、さすがのスイセンも驚くしかなかった。
「……凄いですねぇ。人間技とはとても思えませんよぉ」
「まぁ……そりゃあな。さて、それより先に行くぞ。また集団に会うのもいいが、いくら何でもこの数は異常だ」
「確かに異常ですよねぇ。話を聞く限りだと一晩でこの数になったという事みたいですし、とても信じられませんよ。まさに前例のない出来事ですぅ」
今度はタナトスが先頭を歩き出し、スイセンがその後についていく。
そしてタナトスは話を今回のことについて憶測を飛ばしながら、話し続けた。
「前例はあるぜ。とは言っても、俺の知っていることが当てはまるかは分からないがな。スイセン、お前は魔界大陸の魔物についての知識はあるか?」
「この大陸の魔物ならだいたいは把握していますが、さすがに魔界大陸に行ったことは無いので生態系が全く違うなら無知に等しいですねぇ」
「そうか。魔界大陸の魔物はな、この大陸と比べたら異様に強力なのが大半だ。しかも、この大陸の常識では測れない化物揃いだ。しかし中には、強さとは別種の強力さを持った魔物もいる」
「強さとは別…、環境に強いとかですかぁ?」
「そうだな、あながち間違いじゃない。猛毒を持っている、再生能力が高い、生命力が極端に強い、と様々だ。そして中には驚異的な繁殖力を持っているという魔界大陸の魔物もいる」
「なるほど。つまり魔界大陸の魔物が入り込んでいて、その魔物が繁殖していると。そう言いたいわけですねぇ?」
「そうなる。しかし、繁殖するにはそれ相応の餌も必要なはずなんだがな…。ちっ、サタナキアめ。黒熊以外の魔物もこの大陸に放っていたとは、少し楽観的過ぎたか」
歩き進みながら、最後にタナトスは不貞腐れたように愚痴をこぼした。
ここでタナトスは餌が何なのか、皆目検討ついていないが、餌の正体が何かすぐに理解することになる。
こうして二人は更に歩き進めていくと、やがて鉱山の拓けた場所へと辿り着く事となる。
そこは一目で異常と分かる場所となっていた。
太いロープのような蜘蛛の巣が張り巡らされていて、血の匂いが満たされていて、卵が散乱としている。
そして奥には今までの蜘蛛の魔物と比べたら、体がの大きさが三倍はあるバエルが目を鈍緑色に光らせていた。
そのため二人はすぐに視界に入らないように気をつけて身を屈めて、息を潜めて様子を伺った。
「タナトス君…、なんだかあの蜘蛛だけ異様に大きくありませんかぁ?さっきまでの魔物とは比べ物にはならないんですけどぉ」
「どうやらさっきまで殲滅していた体長1メートルほどの奴は子蜘蛛だったらしいな。あれが卵を産んで数を増やしているようだ」
「みたいですねぇ…。うわぁ、何か食べながら卵産んでますよ…。食べたり産んだりと忙しいですねぇ」
「本当だな。って、あの蜘蛛が食べてるのは……」
巨大な蜘蛛の魔物、バエルが食べている物をタナトスは目視した。
それは無残な姿となった黒熊の魔物の死骸で、頭だけが残っている状態だった。
魔界大陸の生物が異常に強いのは、筋肉となるタンパク質がこの大陸の魔物と比べて別種と呼べるほどに異常変化しているからだ。
簡単に言えば栄養価の高さがまるで違う。
そのことを知っているタナトスは、黒熊の魔物が蜘蛛の魔物バエルの格好の餌だと理解して、思わず口元を歪めて嫌そうな表情を浮かべてしまうのだった。
「俺が仕留めた魔物じゃないか。あのまま死体を放置するのはまずかったか。全く、死んでも脅威をもたらすとは魔界大陸の魔物は敵としては優秀だな。優秀すぎて、酷い迷惑だ」
「何ぼやいているんですかぁ。それで、どうします?」
「どうするも何も、此処まで来たんだ。母体のバエルを仕留めて、卵は全部潰させてもらう。いくぞ」
そう言ってタナトスはスイセンから貰った毒仕込みの短剣を手に、一撃で仕留めるため投げ飛ばす構えを取るのだった。




