80:覇王、八万人と千人に答える。
七基の『雨の道標』を使った新しい航路は、実行直前まで何度も形を変え続けた。
第一塔周辺では放牧予定が変更されたため、点灯開始を少し遅らせる。
第四塔では、下流の水位が想定していたより高いことが分かり、ゼフィロスを長く留めないよう出力を一段階落とした。
第六塔付近を通る街道では、予定より早く商隊が通過することになったため、一時封鎖を始める時間そのものを変更する。
新しい情報が入るたびに各塔から報告が上がり、中央庁舎の職員たちが指示書を書き直し、最後に俺が確認する。
正直、面倒だった。
決めたそばから変わるし、一か所を直せば別の場所との時間がずれる。
ゲーム時代なら、こんなのは不具合か調整不足を疑うところだ。
でも、今度はそれでいいと思っていた。
一度決めたものを守るために、今そこにいる人間を無視するくらいなら、何度でも書き直せばいい。
世界の方が計画に合わせてくれるわけじゃない。
合わせるべきなのは、こっちだ。
「第五、避難完了っと……」
エアリス中央庁舎の会議室。
机いっぱいに並べられた報告書へ目を通しながら、確認を終えた一枚を横へ移す。
第一の『雨の道標』から第七まで。
技師の配置。
周辺住民への連絡。
街道の封鎖時刻。
河川の監視。
避難場所と避難経路。
作戦表は、いつの間にか笑えるくらい細かくなっていた。
昔の攻略表なら、塔の番号と起動する秒数だけ書いておけば済んだのに。
「……現実、項目多すぎだろ」
思わずぼやきながら、次の紙へ手を伸ばす。
「お疲れですか?」
「ちょっとだけ」
向かいに座っていた若い職員が苦笑した。
アーヴィンは別室で各区画の避難状況を確認しているらしい。
アウラも、すでに担当する第六塔へ向かった。
俺もこのあとは第七へ移動する予定だ。
ただ、その前に、各塔へ渡される最終指示だけは自分の目で全部確認しておきたかった。
「これで最後?」
「はい。通常運用分については」
「……通常運用分?」
そこで手が止まった。
何となく嫌な言い方だったのが気になった。
顔を上げると、職員の表情が一瞬だけ固まる。
「何つったおい」
「いえ……」
「今、『通常運用分』って言ったよな」
「……はい」
「じゃあ、通常じゃない運用もあるのか」
「それは……」
視線が泳いだ。
分かりやすいな。
「あるんだな?」
「私の権限では、お答えできません」
「何でだ」
「執政官の許可を必要とする機密文書ですので……」
「じゃあアーヴィンを呼べ」
「現在は避難統括室におりますので――」
「なら俺が行くからいいわ」
「お、お待ちください!」
立ち上がったところで、職員が慌てて俺を止めた。
別に、この時点では怒っていたわけじゃない。
ただ……新しい航路を実行する直前に、作戦の中心にいる俺が知らない指示が存在している。
それが気になった。
「何が書いてあんだよ」
「……」
「塔に関係あることか?」
返事がない。
「ゼフィロスについてか?」
さらに黙った。
「……あるんだな」
職員が僅かに俯く。
その反応を見た瞬間。
胸の奥に、嫌なものが引っかかった。
「持ってこい」
「しかし……」
「俺が知らないところで、途中から別の命令が飛ぶ方が困る。作戦に関係あるなら見せろ」
「……承知しました」
しばらく迷ったあと、職員は席を立った。
戻ってきたのは数分後。
手には、赤い封蝋が押された薄い書類束があった。
「こちらです」
机の上へ置かれる。
表紙には。
『天鯨新規航路計画 非常時対応手順』
「……非常時」
封蝋には、エアリス執政官の印。
「開けるぞ」
「はい」
封を切り、一枚目を読む。
『新規航路誘導失敗時』
『第一、第三、第五、第七のいずれかが規定時間内に起動不能となった場合』
『天鯨が都市危険域へ再侵入すると判断された場合』
ここまでは別におかしくない。
新しい作戦が失敗したときのことを考えておく。
当然の備えだ。
俺だって、何か異常が起きればその場で判断を変えるつもりでいる。
問題は、その次だった。
『第二誘導塔、緊急最大出力』
「……」
視線が止まる。
『天鯨反応後、第四誘導塔へ移行』
そこまで読めば、もう最後まで見なくても分かった。
でも、ちゃんと読んだ。
『進路角確認後、第六誘導塔を起動』
「……おい」
そして最後。
『非常誘導方式――『覇王式誘導法』』
部屋が静かになった。
俺は最初からもう一度読み直した。
読み間違いじゃない。
新しい航路に失敗した場合、第二、第四、第六と。
十二年前と同じ、昔の俺が作った最短ルート。
「……これ」
顔を上げる。
「いつ作ったんだ」
「……新規航路案が正式に承認された後です」
「……誰の命令だ」
「執政官です」
「アーヴィン?」
「はい」
「俺に言わずに?」
職員は答えなかった。
いや――答えられなかった、か。
「この進路の先は?」
「……」
「地図をだせ」
現在の地図を広げる。
第二。
第四。
第六。
昔の『覇王式誘導法』を、そのまま線で繋ぐ。
南西へ。
十二年前、港町が存在していた方向。
今は完全な無人地帯じゃない。
小さな農村。
開拓集落。
街道。
点在しているだけでも、数百人。
危険域の取り方次第では、千人を超える。
「避難計画は?」
「一部地域には、天候悪化時の避難命令を出しております」
「……一部?」
「すべての地域へ事前に知らせた場合、非常手順そのものが外部へ漏れる可能性があるため……」
「……」
そこまで……用意していたんだ。
失敗したとき、俺が知らないところで昔の道へ戻して。
その先にいる人間には、全部を知らせない。
「アーヴィンを呼べ」
今度は、職員も止めなかった。
♢
アーヴィン・クロウズが会議室へ入ってきたのは、それから十分ほど経ってからだった。
俺の前に置かれた赤い書類を見た瞬間。
何があったのか理解したらしい。
「ご覧になられたのですね」
「……ああ」
「本来であれば、私からご説明すべきでした」
「じゃあ説明しろ、早急に」
「承知しました」
アーヴィンは向かいの席へ座った。
慌てて言い訳することも。
誤魔化すこともない。
それが、逆に少し腹立たしかった。
「新しい航路が失敗したら、『覇王式誘導法』へ戻すだって?」
「はい」
「俺が知らないところでか?」
「はい」
「何で言わなかった。舐めてんのか?」
アーヴィンは、ほんの少しだけ黙った。
「陛下が反対されると考えたためです」
「……そりゃするだろうが!」
「存じております」
「だったら余計に言えよ」
自分でも分かるくらい声が低くなった。
「俺たちは、その『覇王式誘導法』で十二年前に港町が被害を受けたって分かったから、別の道を作ってんだぞ」
「理解しております」
「理解してて、また同じものを用意したのか。あぁ?答えろアーヴィン」
「はい」
答えが変わらない。
だから、俺も遠回しに聞くのをやめた。
「必要だと思ってるのか?」
「必要です」
「……」
アーヴィンは現在の地図を自分の方へ引き寄せた。
「新規航路が予定通り成功するのであれば、この非常手順が使用されることはありません」
「それは分かってる」
「ですが、第一塔が故障した場合。第五塔が十分に機能しなかった場合。あるいは天鯨が、我々の想定とは異なる反応を示した場合」
アーヴィンの指がエアリスを示す。
「本来の航路へ復帰すれば、都市は再び危険域へ入ります」
「だから南西へ流すってか?」
「はい」
「そこに人がいてもか!」
「……はい」
ほんの僅かに、間があった。
「……何人だ」
「現在把握している範囲では、危険域に含まれる可能性がある住民は千三百余名です」
「八万人を守るために、また同じ過ちを繰り返すのか!」
「そうです」
まただ……。
八万人と、千人。
あの日、俺が答えられなかった問い。
でも今は、少しだけ別のことを聞きたくなった。
「アーヴィン」
「はい」
「怖いのか?」
予想していなかった質問だったのか。
初めて、アーヴィンの表情が僅かに揺れた。
「何がでしょうか」
「ゼフィロスがエアリスへ来るのがだ」
「……」
「八万人死ぬかもしれないって考えたら、怖いか?」
アーヴィンはすぐには答えなかった。
一瞬、窓の外を見る。
そこには、エアリスの街がある。
八万人。
数字にすれば、それだけ。
でも、こいつにとっては……たぶんそうじゃない。
「……怖いです」
やがて、静かに答えた。
「十二年前も?」
「はい」
「あのとき、あんたはまだ執政官じゃなかったんだよな」
「都市防災局の副官でした」
「港町へ流す決定には関わったのか?」
「会議には同席していました」
「反対したか?」
「いいえ」
「……」
「私は、当時の決定に賛成しました」
その話自体は前にも聞いている。
でも、今回はその続きを聞きたかった。
「十二年前の記録」
「はい」
「何で地下資料室にしか残ってないんだ」
「……」
「表向きは、ゼフィロスが突然進路を変えたことになってるだろ」
十二年前。
俺が最初に聞いた話では、天鯨が突如として航路を変え港町を襲った。
その救援へ向かった冒険者も、百人以上死んだ。
だからゼフィロスは、予測不能な災厄。
そういう話だった。
「まさか、書き換えたのか……?」
「……はい」
アーヴィンは否定しなかった。
「どこを?」
「公式発表から、誘導塔の使用に関する記録を削除しました」
「削除だ?」
「また、天鯨が南西へ進路を変えた原因については、『原因不明の航路逸脱』と記載しております」
「原因分かってんのにか?」
「はい」
「港町へ向かう可能性も?」
「把握していました」
「救援に行った冒険者たちは?」
そこで初めて、アーヴィンの口が止まった。
「百人以上死んだんだよな」
「正確には、百十七名です」
「その人たちは、何て聞かされて向かったんだ?」
「天鯨の突発的な航路変更により港湾区域が被災した、と」
「……塔のことは?」
「知らされておりません」
胸の奥が、少し冷えた。
「じゃあ」
聞きたくない――でも、聞かなきゃ駄目だ。
「救援隊が死ぬ可能性も、予想できてた?」
「……ある程度は」
「どの程度?」
「天鯨が通過した直後の暴風域へ入れば、相当な危険があることは把握していました」
「それでも行かせたのか?」
「港町には、生存者が残されている可能性がありました」
「本当のことを説明せずに?」
「……はい」
気づけば、拳を握っていた。
「それ……事故じゃねぇだろうが」
ゼフィロスが突然おかしくなった。
誰にも予測できなかった。
それなら。
災害だった。
事故だった。
そう言えたかもしれない。
でも、違う。
人間が進路を変えた。
危険な場所を選んだ。
その結果、誰かが死んだ。
そして……その理由まで隠した。
「……当時の資料、どこまで改竄した」
「すべてを書き換えたわけではありません」
「その言い方やめろ」
「……申し訳ありません」
アーヴィンが目を伏せる。
「内部記録は機密指定されました。一般公開用の報告書からは、誘導計画、各塔への起動命令、そして港町を危険区域として認識していた旨の記述を削除しています」
「犠牲者数は?」
「数字自体は残しました」
「原因だけ消したのか」
「はい」
「誰が決めた?」
「当時の執政官、防災局、都市評議会です」
「あんたもか?」
「……私は、反対しませんでした」
また……それか。
「何でだ」
「エアリスを守るためです」
「記録隠すことがか?」
「周辺地域に真実が知られれば、都市間の関係そのものが崩壊すると判断されました」
「当然だろうが」
「はい」
「自分たちの街を守るために、別の場所へ災害を流したって知れたら、そりゃ怒るわ」
「その通りです」
「だから隠したってのか?」
「はい」
正直、殴りたいとは思った。
でも、アウラならともかく、俺がこいつを殴ったところで十二年前の死者が戻るわけじゃない。
今回の作戦が安全になるわけでもない。
「……あんたさ」
椅子へ深く座り直す。
「ずっと、それ抱えてんのか?」
「何をでしょう」
「十二年前のこと」
前に会ったとき、こいつの机には古い資料が置かれていた。
十二年前の日付。
何度も読まれた跡のある紙束。
「まだ持ってたよな」
「……はい」
「後悔、してるんだな?」
長い沈黙が落ちた。
「分かりません」
「分からないだと?」
「今でも、誘導そのものは必要だったと考えています」
アーヴィンがゆっくりと言葉を選ぶ。
「何もしなければ、エアリスで数万の死者が出た可能性がある。あの場で別の選択肢を提示できたかと問われれば……十二年経った今の私にも、答えはありません」
「じゃあ、後悔してないってのか?」
「いいえ」
今度は、答えが早かった。
「死者の名簿を見れば、後悔します」
「……」
「港町には子供もいました。老人もいました。救援に向かった百十七名にも、家族がいました」
アーヴィンの指が、僅かに震えている。
「私は、その名を知っています」
そして、一度目を閉じる。
「それでも、まったく同じ状況に置かれれば……私は、同じ判断をするかもしれません」
「……」
「だからこそ、私は自分が正しいとは思えないのです」
その言葉を聞いて、ようやくこいつが何を抱えているのか……ほんの少しだけ見えた気がした。
悪人じゃない。
むしろ、本気でエアリスを守りたいと思っている。
そこが一番厄介だった。
本気で、八万人を守りたい。
そのためなら、自分が恨まれることも、千人を切り捨てる判断をすることも、責任として全て背負おうとしている。
そんな奴に、『お前は間違ってる』、と。
それだけ言って終われれば、どれだけ楽だっただろう。
「アーヴィン」
「はい」
「俺は……」
一度、言葉を探す。
「……怖いのは分かる」
エアリスを守りたい。
八万人を死なせたくない。
その気持ちは、もう俺にとってもまったく理解できないものじゃなかった。
アルセディアがある。
ザフィラがいる。
ミラがいる。
レオにジン、ラグ。
あの街で、普通に飯を食って、働いて、笑って、暮らしている奴らがいる。
もし、何かがアルセディアへ向かってきて、知らない誰か千人を犠牲にすればあいつら全員を助けられる。
そう言われたら、俺が迷わず綺麗な答えを出せるかなんて……。
正直、自信がない。
「守りたい奴が増えるほど、失うのは怖ぇよな」
「……はい」
「でもな」
机の上に置かれた赤い文書へ手を乗せる。
「それを理由に、誰を捨てるか勝手に決めていいわけじゃねぇだろ」
アーヴィンは何も言わない。
「十二年前はさ」
続ける。
「本当に時間がなかったのかもしれない。別の方法を思いつく余裕もなかったのかもしれない」
俺は、そこまでを簡単に断罪する気にはなれなかった。
だって、あのときの会議室に俺がいて。
数万人が死ぬかもしれないと言われて。
今すぐ決めろと迫られたら……。
俺だって、何を選んだか分からない。
「だから、誘導したことそのものを今ここで全部否定するつもりはない」
でも、赤い文書を指で叩く。
「隠したのは別だろ」
「……」
「千人いるって分かってて流した。救援に行く奴らにも本当のことを言わなかった。そのあと、原因不明の災害だったことにした」
そこまでをゼフィロスのせいにはできない。
「事情があったら、やったことまで消えるのか?」
「いいえ」
「八万人を守りたかったら、千人には何も知らせなくていいってのか?」
「……いいえ」
「じゃあ」
赤い文書を持ち上げる。
「今回も同じことすんなよ?」
「陛下」
「非常手順を作るなとは言ってない」
失敗はある。
何かあったときの備えも必要だ。
そこまで否定したら、ただの無責任になる。
「でも、俺にも知らせずに勝手に『覇王式誘導法』へ切り替えるのはなしだ」
「もし、都市への直撃が目前となれば――」
「そのときは俺にも言え」
「判断する時間がない場合もあります」
「だったら現場にいる奴らにも知らせろ」
「……」
「南西側にも」
アーヴィンの表情が変わった。
「『非常時には、あなたたちの地域へ天鯨を流す可能性があります』って」
「それは……」
「言えないか?」
「大きな混乱が生じます」
「だろうな」
当然だ。
俺だって、自分の住んでいる場所が都市を守るための犠牲先として設定されていると聞けば、逃げる。
怒るし、ふざけるなと言う。別の方法を探せと訴える。
でも。
「それを決める権利まで、エアリスにあんのか?」
「……」
「逃げるか。残るか。怒るか。別の方法を探せって言うか」
それは、そこに住んでいる人間が自分で選ぶことだ。
俺はアルセディアで何度も見てきた。
名前を選ぶ。
仕事を選ぶ。
誰と生きるかを選ぶ。
自分の人生を、自分で決める。
「少なくとも……死ぬかもしれない側に何も知らせないまま、他人が全部決めるのは違うだろ」
アーヴィンは、長い間何も言わなかった。
やがて。
「……仰る通りです」
「認めんのか?」
「十二年前」
アーヴィンは赤い文書へ目を落とした。
「我々は、『市民を守る』という言葉を盾にしました」
「……」
「守るべき人数が多い。その一点さえあれば、少ない側へ説明する必要までなくなると」
そこで、僅かに目を伏せる。
「そして、一度隠したことで……次も隠す方が容易になった」
十二年前は隠した。
だから、今回も……非常手順、非公開として、必要になったら黙って実行する。
同じ形が、何の違和感もなく作られた。
「……最悪だな」
「はい」
アーヴィン自身がそう答えた。
「ですが、陛下」
「何だ?」
「それでも私は、都市を守る責任を放棄することはできません」
「しなくていい」
即答した。
アーヴィンが顔を上げる。
「守れよ、ちゃんと」
「……」
「八万人」
それが、こいつの仕事だ。
その責任まで捨てろなんて俺は言わない。
「でも」
地図を見る。
エアリス。
南西の集落。
開拓村。
名前も載っていないような、小さな場所。
「八万人を守ることと、千人を最初から数に入れないことは同じじゃない」
今の俺に言えるのは、そこまでだった。
「俺も、正解なんぞ知らん」
八万人と、千人。
どっちを選ぶか。そう聞かれたら、今だって答えられない。
たぶん、簡単に答えられるようになる必要もない。
「でもさ」
一度、地図の上にある大きく曲がった新しい航路を見る。
「どっちかを捨てるしかないって決める前に、他の道を探すことはできるだろ」
七つの灯りを使う。
遠回りする。
何度も確認する。
面倒で、遅くて、失敗するかもしれない。
それでも――。
「今は、それでいいだろ」
アーヴィンはしばらく俺を見ていた。
そして。
「非常時対応手順を改訂します」
「うん」
「『覇王式誘導法』へ移行する場合には、現場統括者及び各地域責任者への通告を必須とします」
「南西側にも?」
「はい」
「あと俺にもな」
「もちろんです」
「勝手に点けんなよ?」
「……承知しました」
俺は赤い書類を机の中央へ戻した。
「それと」
「はい」
「十二年前の記録」
アーヴィンの動きが止まる。
「全部出せ」
「……すべて、ですか?」
「残ってるもの全部だ」
機密指定された資料。
改竄前の報告書。
塔への起動命令。
事前の被害予測。
港町の被害。
救援隊百十七名のこと。
「もう……隠したままにすんな」
「公表すれば……」
「揉めるだろうな、確実に」
当然、エアリスは責められる。
当時の責任者も。
今の行政も。
何で今まで黙っていたんだと、そう言われる。
「でも、なかったことにはならねぇだろ」
「……」
「十二年前に死んだ奴らは、ゼフィロスが気まぐれで進路を変えたせいだけで死んだわけじゃない」
人が勝手に選んだ。
なら、そのこともちゃんと残すべきだ。
「事情があった」
それも、残せばいい。
「八万人を守ろうとした」
それも事実。
「そのために、千人がいる側へ流した」
それも、同じくらいの事実だ。
「どっちかだけ残すなよ」
理由を知ることと、やったことが消えることは違う。
理解できることと、赦されることも。
たぶん同じじゃない。
「……承知しました」
アーヴィンは、ゆっくりと、深く頭を下げた。
俺はその姿を少しだけ見たあと。
窓の外へ目を向けた。
夕暮れのエアリス。
何千、何万という屋根が並んでいる。
煙突から煙が上がり、道を人が歩いている。
店を閉める奴がいて、家へ帰る奴がいる。
八万人。
数字にすれば大きい。
圧倒的にだ。
でも、本当は一つの塊じゃない。
八万個の生活がそこにある。
そして、南西にいる千人だってまったく同じだ。
一人ずつ、家があって、名前があって、帰る場所がある。
数字の大小だけで簡単に並べていいものじゃない。
「……難しいな」
思わず声が漏れた。
「何がでしょう」
「……国だよ」
アーヴィンがほんの少しだけ目を丸くする。
それから、疲れたように小さく笑った。
「……ええ」
その笑みには、諦めでも、開き直りでもない。
十二年間――答えを出せないまま考え続けてきた人間の疲れが滲んでいた。
「私も、未だにそう思います」
「……そっか」
その答えだけは。
今まで聞いたこいつの言葉の中で。
一番、信用してもいい気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
かつてリンドウが問われた、
八万人と千人。どちらを救うのか。
あのとき、彼には答えられませんでした。
そして今回も。
リンドウは「こちらが正しい」とは答えていません。
十二年前。
エアリスを守るために『覇王式誘導法』が使われ、天鯨は港町へ向けられました。
その判断によって多くの人間が救われた一方で、港町では犠牲者が出て、救援へ向かった百十七名も命を落としています。
さらに、その事実は隠されました。
アーヴィンは今でも、
「同じ状況なら、同じ判断をするかもしれない」
と言います。
それでも、自分が正しかったとは言わない。
リンドウもまた、その判断そのものを簡単には断罪できません。
守りたい人が増えた今なら、八万人を失う恐怖が少し分かってしまうからです。
だからこそ、今回リンドウが出した答えは、
「俺も、正解なんぞ知らん」
そのうえで。
「どっちかを捨てるしかないって決める前に、他の道を探す」
でした。
理由があったことと、起きたことが消えるのは別。
理解できることと、赦されることも別。
八万人の生活も、千人の生活も。
最初からただの数字だったわけではありません。
そして、十二年前に隠された真実も、ようやく表へ出ることになります。
次回、いよいよ七つの『雨の道標』が灯ります。




