77:覇王、天鯨の帰る場所を知る。
リュネアの国は、もうない。
風巫女も途絶え、七基の『雨の道標』も、本来の意味では使われなくなっている。
それなのに、ゼフィロスは今も毎年この地方へやってくる。
そこまで分かったところで、俺の中には一つの疑問が残った。
「……本当に、今も約束を守ってるのか?」
旧風神殿から戻ったあと、俺はエアリス中央庁舎の一室を借りていた。
机の上には、年代の異なる地図が何枚も広げられている。
現在の広域図。
二十年前、五十年前、百二十年前。
さらに、ルアネ連邦がまだ存在していた時代を復元した古地図まで用意してもらった。
その横には、エアリス観測所から借りてきた天鯨の航路記録や降水量の資料が山積みになっている。机だけでは足りず、一部は床にまで積まれていた。
「資料だけでは足りないのか?」
向かい側の椅子では、アウラが大きな欠伸をしている。
「足りない」
「昨日はあれだけ調べただろう?」
「……だからこそだよ」
リュネアの物語は、かなり見えてきた。
昔の人々が何を考え、どうして『雨の道標』を建てたのかも分かった。
でも。
だからといって、百年以上経った今のゼフィロスまで同じ理由で動いていると決めつけるのは違う。
それじゃ、また同じだ。
古い記録を読んで、自分に都合のいい答えを見つけて。
あとは全部、その答えに当てはめる。
……村のときみたいに。
「昔の記録にそう書いてありました。だから今もそうです、じゃ駄目なんだよ」
「なぜだ?」
「百年以上経ってるから」
ゼフィロスだって、その間に変わったかもしれない。
今は別の理由で、この地方へ来ている可能性だってある。
そもそも、リュネアたちが残した記録そのものに、思い違いや誇張が含まれている可能性も捨てきれない。
「ちゃんと、今のあいつを見ないと」
「村のときと同じか」
「……まあ、そういうこと」
アウラは納得したように頷いた。
「なら、何を見る?」
「まず航路」
俺は机の上から、分厚い記録簿を一冊取り上げる。
「エアリス観測所に残ってるまともな記録が、六十七年分」
「そんなにあるのか?」
「毎年じゃないけどな。雲が厚すぎて、まともに観測できなかった年もある」
それでも、傾向を見るには十分すぎる。
ページを開けば、天鯨を確認した地点、進行方向、通過時刻、風速、降雨量までかなり細かく記録されていた。
「アウラ」
「なんだ?」
「暇か?」
「暇だ!」
「……即答すんなよ」
「何をすればいい?」
「こっちの地図に、ゼフィロスが通った場所を線で引いて」
「全部か?」
「全部だ」
「多いな!」
「暇なんだろ?」
「そうだった!」
……本当に扱いやすいな、こいつ。
俺が記録簿から観測地点を拾い、アウラが地図の上で線を繋いでいく。
一年分。
また一年分。
五年前。
十年前。
二十年前。
線が増えるにつれて、少しずつ全体像が見え始めた。
もちろん、すべてが完全に一致しているわけじゃない。
その年の天候や季節風、それに人間側が『雨の道標』を誘導塔として使用したかどうかでも航路は変わっている。
それでも――。
「……やっぱり似てる」
「どうした?」
「大きな流れは、ほとんど同じだ」
何十年分を重ねても、ゼフィロスは概ね同じ地域を通っている。
俺はその中の一か所を指差した。
「ここ。毎回、少し速度が落ちてる」
「なぜ分かる?」
「観測地点同士の通過時間だよ。同じくらいの距離なのに、ここだけ次の地点へ着くまで時間が掛かってる」
山脈の西側に広がる高原。
「この辺、雨少ない?」
「確認します」
同席していた観測所の職員が別の資料を広げる。
「はい。南西乾燥帯です。エアリス周辺でも、特に年間降水量の少ない地域ですね」
「やっぱり」
赤い線で印をつける。
「じゃあ、こっちは?」
今度は北側。
湖と河川が多く、水資源に恵まれた地方だ。
「こちらは年間を通して降水量の多い地域です」
「ゼフィロスは……」
記録を追う。
この地域では、ほとんど速度を落としていない。
「ほぼ素通りだな」
地図を見比べていたアウラが口を開く。
「昨日読んだ記録と同じではないか」
「ああ」
リュネアが気づいたこと。
ゼフィロスは乾いた土地で速度を落とし、水の多い場所ではそのまま通り過ぎる。
それが一度や二度なら、偶然で片づけられた。
でも、何十年も同じ傾向が続いている。
「降水量も重ねよう」
今度は、ゼフィロスが通過する前と後。
その地域でどれだけ雨が降ったかを確認する。
何年分も。
ひたすら、記録と地図を行き来して。
「……マジか」
思わず声が漏れた。
「何だ?」
「これ見てくれ」
乾燥帯。
ゼフィロスが通過したあと。
三日後。
四日後。
場所によって多少の差はある。
でも、ほとんどの年で雨が降っている。
「雨か」
「ああ。それだけじゃない」
ゼフィロスが長く滞在した地域ほど、その後の降水量が多い。
一年だけじゃない。
十年。
二十年。
三十年。
記録を遡っても、傾向は変わらなかった。
「偶然ではないのか?」
「一回ならな。でも、これだけ続いたら偶然で済ませる方が無理あるだろ」
昨日読んだ言葉が、また頭の中へ浮かぶ。
『あの子は雨を奪ってるんじゃない』
『雨を、運んでるんだよ』
「……リュネア、合ってたんだな」
「ずっと昔に、これに気づいたのだろう?」
「ああ」
ろくな観測機器もなかった時代だ。
当然、何十年分もの航路記録なんて手元にない。
それでも、空を見て、土地を見て、ゼフィロスを見続けて……。
あの少女は、自分たちの大人が災厄だと決めつけた存在の本当の姿に気づいた。
「……すげぇな」
俺なんて、攻略情報を山ほど持っていたくせに……。
百年以上遅れて、これだけの資料まで並べて……ようやくだ。
「次だ」
まだ終わりじゃない。
俺が確かめたいのは、雨だけじゃなかった。
「過去の塔の起動記録はあるか?」
「ございます」
職員が別の帳簿を持ってくる。
「ただし、すべてではありません。都市防災目的で使用された記録が中心です」
「それで十分だ」
何年の何月。
どの塔を、何時に点けたか。
そのときゼフィロスがどこにいたか。
一つずつ航路記録と合わせていく。
「……全部、反応してる」
第一。
第三。
第五。
現在ではほとんど使用されない塔でも、点灯した記録がある年は、その直後にゼフィロスが進路を変えていた。
「光らせたのに反応しなかった記録は?」
「少なくとも、確認できる範囲ではございません」
「一度も?」
「はい」
「……そっか」
塔が灯れば、ゼフィロスは進路を変える。
ゲーム時代から、そして今も。
「少なくとも……光を嫌ってるようには見えないな」
「昨日聞いた話か?」
「ああ」
光を憎んでいる。
人間の灯りへ襲いかかる。
今のエアリスでは、そんな言い伝えも残っていた。
でも、記録から見える動きは、それとは違う。
本当に光が嫌なら、避ければいい。
邪魔なら、塔そのものを壊したっていい。
なのに……ゼフィロスは、灯った場所へ向かう。
次の塔が灯れば……また、その先へ。
「本当に……道標として見てるのか」
声に出してみる。
かなり確信には近づいている。
でも、まだ一つ足りない。
「リンドウ」
「ん?」
「村の者にも聞くのではなかったのか?」
「あ……」
完全に資料へ夢中になっていた。
「……そうだった。行くか」
「おう!」
「今日は鎧置いてけよ?」
「なぜだ?」
「村人がびびるから」
「そうなのか!?」
「当たり前だろ……」
♢
その日。
俺たちはエアリス周辺の村をいくつか回った。
古くから残る村。
乾燥帯に近い村。
川沿い、山間部。
聞くことは一つだけだ。
「ゼフィロスが来た年って、何か変わる?」
最初の村で尋ねた六十代くらいの農夫は、少し考える素振りもなく答えた。
「雨が増えますね」
「困るか?」
「近すぎれば困りますよ。風で畑が駄目になりますから」
「じゃあ、来ない方がいい?」
「……それも困りますねぇ」
「何で?」
「雨がないからです」
農夫が苦笑する。
「昔ほどではありませんが、この辺りは乾きやすい。天鯨が遠くを通った年は、井戸の水位が下がることもありますから」
「怖くないのか?」
「そりゃ怖いですよ」
「でも来てほしいのか?」
「遠くを通って、雨だけ置いていってくれるなら」
「都合いいな……」
「人間なんて、そんなもんでしょう」
思わず笑ってしまった。
「……確かにな」
別の村では、老婆がこんな話をしてくれた。
「子供の頃は、天鯨の声が聞こえると桶を外へ出しましたよ」
「何で?」
「雨水を溜めるためです」
「声が聞こえたら雨が来る?」
「だいたいはねぇ」
さらに山沿いの村。
「昔、ゼフィロスがこの辺で三日くらい動かなかった年があるって本当か?」
「祖父から聞いたことがあります」
「何で止まった?」
「さあ、そこまでは」
「その年、この辺で何かあった?」
「ひどい旱魃だったそうですよ」
まただ……。
乾いた土地で速度を落とし、雨を残して――そして、次へ向かう。
資料だけじゃない。
今もそこに暮らしている人間たちの記憶にも、同じものが残っている。
「リンドウ」
村を出たところで、アウラが尋ねた。
「もう十分ではないのか?」
「あと一個」
「まだあるのか?」
「一番大事なのがな」
雨を運んでいる。
灯りを道標として追っている。
そこまでは、かなり確かになった。
でも……なら。
あいつは最後に、どこへ向かうんだ……?
「エアリス戻るぞ」
「おう!」
♢
夕方。
中央庁舎の机に、今度は三枚の地図を広げた。
現在。
百二十年前。
そして、ルアネ連邦が存在していた時代。
「それを重ねて何をするんだ?」
「見れば分かる」
一番下に現在の地図。
その上へ、半透明になるまで薄く加工された古い測量図を重ねていく。
もちろん、完全には一致しない。
道も違う。
街の位置も違う。
地名なんて、ほとんど残っていない。
でも、山脈や河川。
大きな地形は残る。
そこを基準に合わせていく。
「ここが現在のエアリス」
「うむ」
「百二十年前も、おおよそ同じ場所」
「うむ」
「で……」
最後に、ルアネ連邦の古地図を重ねる。
国土そのものは小さい。
現在のエアリスよりやや西へ広がり、北と南にもいくつかの集落が点在していた。
その中心。
古い風神殿と、かつての王都。
「……ここ」
俺は現在の地図へ、同じ地点を書き込んだ。
「今は何があるか分かるか?」
「確認いたします」
職員が資料を見る。
「旧市街外縁の丘陵地です。現在、大きな集落は存在しません」
「第一の『雨の道標』は?」
「そこから北側です」
「第二は?」
「こちらになります」
七基。
昔の『雨の道標』の位置と、現在の誘導塔。
やはり、ほぼ一致している。
「じゃあ……」
そこへ、過去六十七年分のゼフィロスの航路を重ねる。
一年。
また一年。
十年前。
二十年前。
特に、人間が誘導塔を使わなかった年。
自然航行に近い記録を中心に。
「……」
途中で、手が止まった。
「リンドウ?」
「ちょっと待て」
見間違いかと思った。
別の年を見るも同じ。
さらに別。
やっぱり、同じ。
「……こいつ」
気づけば、声が漏れていた。
ゼフィロスの自然航路は、北西からこの地方へ入り、乾燥帯で何度か速度を落とす。
そこから、七基の『雨の道標』が並ぶ一帯を通り。
最後に。
「……ここへ来てる」
指先が止まった。
昔、ルアネ連邦の中心だった場所。
風神殿があり、王都があり、リュネアが暮らしていた場所。
「毎年か?」
アウラが聞く。
「ほぼ」
「今は何もないのに?」
「ああ」
現在の地図では、そこに大きな街も村もない。
あるのは、古い遺跡と、丘と、草原くらい。
それでも、ゼフィロスはほとんど毎年そこへ向かっている。
「……違う」
俺は……ずっと勘違いしていた。
エアリスの近くを通る。
だから、街を狙っている。
人間の灯りへ寄ってくる。
だから、人を襲おうとしている。
そう思われてきた。
でも。
「エアリスじゃない」
「何がだ?」
「ゼフィロスが目指してる場所」
街じゃない。
今の人間でもない。
エアリスの灯りなんて、最初から関係なかった。
「……ルアネだ」
もう存在しない国。
リュネアの国。
「あいつ、昔の国へ向かってる」
今も、毎年。
同じ場所へ。
「でも」
アウラが眉を寄せた。
「もうないのだろう?」
「ああ」
「なら、なぜ?」
「……」
答えは、たぶん……。
もう、ほとんど分かっていた。
でも――すぐには口にできなかった。
昨日読んだ言葉が、嫌なくらい鮮明に蘇る。
『毎年、この国へ雨を連れてきて』
『あなたが迷わないように、私たちが灯をともすから』
その国は――もうない。
七つの『雨の道標』も、本来のようには灯らない。
風巫女だって、もう歌わない。
ゼフィロスを迎える人間もいない。
それなのに、あいつは今も……。
乾いた土地を見つければ速度を落とし。
そこへ雨を残し。
古い『雨の道標』が灯れば、その光を追って。
最後には、もう存在しない国の中心へ向かう。
「……まだ」
喉の奥が、妙に詰まった。
「……まだ、帰ろうとしてんのかよ」
誰もいないのに……。
帰ってきたと言ってくれる人も、待っている巫女も。
灯りをともしてくれる国も、とっくの昔になくなっているのに。
あいつだけが――。
毎年、同じ季節になると。
同じ空を通って、雨を持って帰ってくる。
「……百年以上だぞ。……百年!」
言ってみて、余計に信じられなくなった。
アウラも、何も言わない。
俺はしばらく、地図から目を離せなかった。
百年以上。
約束した相手はいない。
国さえない。
なのに、それでも帰ってくる。
「……馬鹿だろ」
思わず呟いた。
でも、笑えなかった。
その瞬間、頭の片隅に別の声が浮かんだ。
『帰ってきてね、ご主人様』
「……」
出発前夜、ザフィラに言われた言葉。
俺は、帰ってくると答えた。
アルセディアへ。
あいつのところへ。
今の俺には、帰れば待っている奴がいる。
帰ってきたと言えば。
おかえり、と返してくれる奴がいる。
それが、いつの間にか、少しずつ当たり前になり始めていた。
でもゼフィロスは――。
帰っても、誰もいない。
百年以上前に交わした約束だけを抱えて。
毎年、もう誰も待っていない場所へ……雨を持って帰ってくる。
「……」
胸の奥が、少し痛んだ。
何でなのかは考えなかった。
いや……今はまだ、考えたくなかった。
「リンドウ」
アウラの声に、意識を戻す。
「……なんだ?」
「なら」
アウラは地図を見た。
「天鯨は、敵なのか?」
「……」
すぐには答えられなかった。
災害ではある。
あいつが近づけば暴風が吹く。
雷が落ちる。
川が溢れる。
街が壊れれば、人だって死ぬ。
それは、今知った物語で消える事実じゃない。
俺自身、つい昨日までゼフィロスを殺すつもりだった。
実際、あと一撃まで行った。
だから、今さら……。
あいつは本当は優しいんです、敵じゃありませんでした。
なんて、そんな単純な話にする気はない。
「……分からん」
今は、それしか言えなかった。
「ただ」
俺は地図の上に並ぶ七基の塔を、指先でゆっくり辿った。
第一から。
第二。
第三。
第四。
第五。
第六。
そして。
第七へ。
「少なくとも……街を壊すために来てるわけじゃない」
最後に指を置いたのは、ルアネ連邦。
かつてリュネアがいた場所。
「雨を届けに来てるんだ」
毎年、ずっと。
「約束した場所へ」
誰も、もう待っていないのに。
「……帰るために」
机いっぱいに広がった地図の上。
何十年分も重ねたゼフィロスの航路は。
少しずつ形を変えながらも。
最後には、同じ場所へ辿り着いていた。
まるで……。
百年以上ものあいだ。
忘れないように。
迷わないように。
"たった一つの帰り道を、何度もなぞり続けているみたいに"。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
リュネアの物語を知ったリンドウでしたが、今回はそれだけで答えを決めませんでした。
六十七年分の航路記録。
ゼフィロス通過前後の降水量。
『雨の道標』への反応。
そして、今もこの土地で暮らしている人たちの証言。
それらを一つずつ確かめて分かったこと。
ゼフィロスは今も、乾いた土地で速度を落とし、雨を残していました。
そして最後に向かう場所は、エアリスではありません。
百年以上前に滅びた、リュネアの国――ルアネ連邦。
『毎年、この国へ雨を連れてきて』
『あなたが迷わないように、私たちが灯をともすから』
約束した少女も。
帰りを待つ国も。
もう、どこにもありません。
それでもゼフィロスだけは、百年以上ずっと。
同じ季節に。
同じ空を通って。
雨を持って帰ってきていました。
では――。
帰る場所がもうない天鯨に、今を生きる人間は何をしてやれるのか。
次回――覇王、七つの灯を灯し直す。




