5.3 オルレアンの町(2)大橋と郊外
町からロワール川の左岸へと続く、家々が立ち並ぶ石造りの橋は世界的に有名だ。この橋には、幅の異なる19のアーチがあった。
町を出て、門扉ラ・ポルト・デュ・ポンにある最初のアーチは、ラ・アルーエ(l'Allouée)またはジャックマン=ルースレ橋(Pont Jacquemin-Rousselet)と呼ばれ、ここに跳ね橋があった。
5番目のアーチは、細長くて船の形をした島(中洲)に接していた。
橋の上に、聖アントワーヌに捧げられた礼拝堂があったことから、この中洲はモット=サン=アントワーヌ(Motteは土くれの丘)と呼ばれ、橋の下には、捕獲した魚を生かしておくために穴のあいた船を係留していたことからモット=デ=ポワソニエと呼ばれていた。
1427年、この中洲が敵に占領されるのを防ぐために、オルレアン市民は、6番目のアーチの先に、橋の幅全体を占める要塞「サン=アントワーヌ塔」を建造した。
11番目と12番目のアーチの間にある控え壁(buttress、橋のアーチを支える部分)には、石の台座に支えられた「ベル=クロワ(美しい十字架)」と呼ばれる金メッキされたブロンズ製の十字架があった。
18番目のアーチの控え壁は延長され、その橋台には、2つの塔を丸天井の玄関で繋げた小ぶりの城「レ・トゥーレル」がそびえ立っていた。
19番目のアーチと20番目のアーチの間には、最初のアーチと同様に跳ね橋があった。その外側にル・ポルトローがあり、そこからトゥールーズへの道が続き、ロワール川を越えたオリヴェ山地でブロワへの道に合流した。[482]
当時、ロワール川の穏やかな水は、シダ植物の群生地と樫や白樺の茂みの中を流れていたが、今では航行のために取り除かれている。
オルレアンから東へ2.5マイル、シェシーの丘の上にあるブールドン島(l'Île aux Bourdons)は、川の細い支流と、ラ・ボース側のコンブルーに面した緑の草地と下草のあるシャルルマーニュ島(l'Île Charlemagne)とブフ島(l'Île-aux-Bœufs)からの狭い水路によって、ソローニュ川の河岸から隔てられていた。
川を下るボートは、次にサン・ルーの2つの島に差し掛かり、ヌーヴ塔(新塔、La Tour Neuve)を迂回して、右側の2つのマルティネ島と左側のトワル島(l'Île-aux-Toiles)の間をすべるように進む。
そこから橋の下をくぐる。この橋は、上流側のモット=サン=アントワーヌ、下流側のモット=デ=ポワソニエと呼ばれる中洲をまたいでいる。
やがて、城壁の下、サン=ローラン=デ=オルジェリルの向かい側にある、ビシュ=ドルジュという小島と、もう1つの名前のない小島に到達する。[483]
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オルレアンの郊外は、フランス王国の中でもっとも素晴らしい場所だった。
南側の郊外にはル・ポルトローという漁師町があり、川沿いにはアウグスティノ派の教会と修道院が広がり、その先には国内最高のワインを生産するサン=ジャン=ル=ブランのブドウ畑が広がっていた。[484]
その上、ソローニュの荒涼とした台地へ上っていくなだらかな斜面には、激しい湧水、清らかな水流、木陰の多い土手、オリヴェの庭園と小川のあるロワレ川が、穏やかで雨の多い空の下で微笑んでいた。
東側に伸びるブルゴーニュ門の郊外は、もっとも多くの建物が並び、もっとも人口が多い場所だった。そこには、サン=ミシェル教会とサン=テニャン教会があり、特に後者の回廊は素晴らしいと言われていた。[485]
この郊外を離れて、ロワール川の河岸とブフ島(中洲)の間に広がる砂地の支流沿いのブドウ畑を通り過ぎ、4分の1リーグほど進むと、サン・ルーの急斜面にたどり着く。
さらに東へ進むと、川とオータンからパリに向かうローマ街道の間に、サン=ジャン=ド=ブレイ、コンブルー、シェシーの鐘楼が次々とそびえ立っているのが見える。
町の北側には、立派な修道院や美しい教会、墓地にはサン=ラドレ礼拝堂、ジャコバン教会、コルドリエ教会、サン=ピエール=アンサントレ教会などがあった。
真北には、パリ街道沿いにラ・ポルト・ベルニエの郊外が広がり、そのすぐ近くには、オーク、シデ、ブナ、ヤナギの深い森に覆われた「オオカミが住む陰鬱な町」がある。そこには、薪割りや炭焼きのための小屋があるフルーリー村とサモイ村が隠れていた。[486]
西側には、ラ・ポルト・レナールの郊外がシャトーダンへの道沿いの野原に広がり、ブロワへの道沿いにはサン・ローランの集落があった。[487]
これらの郊外は、非常に人口が多い住宅地で広範囲に拡大していた。
イングランド軍の接近にともない、郊外の住民が市内(城壁内)に避難したため、オルレアン市内の人口は倍増した。[488]




