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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝  作者: しんの(C.Clarté)
上巻・第五章 オルレアン包囲戦:1428年10月12日〜1429年3月6日

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5.1 イングランドの決議:攻撃目標はオルレアン

 ヴェルヌイユの勝利(1424年)とメーヌの征服以来、イングランド軍はフランスでほとんど進軍しておらず、フランスにおける実際の領有地はますます不安定になっていた。[467]


 イングランド軍が、オルレアン公(シャルル七世のいとこでイングランドの捕虜になっている)の領地を侵略しなかったのは、良心の呵責によるものではない。

 ロワール川流域では、高貴な身分の者が捕虜になっているときに、その領地と財産を奪うのは不名誉なことだと考えられていたが[468]、戦時下では手段を選ばない。


 イングランド摂政(ベッドフォード公)は、アランソン公が捕虜だったときにその公爵領を奪うことをためらわなかった。[469]


 実のところ、善良なシャルル公(オルレアン公)が賄賂と懇願によって、イングランド軍が彼の公爵領を攻撃するのを思いとどまらせていたのだ。


 1424年から1426年まで、オルレアン市民は金銭を支払うことで平和を買い続けた。[470]


 ゴドン家(The Godons:イングランドを指す蔑称。彼らの口癖が由来)は戦場に出られる状況になかったため、そのような協定を結ぶ用意があった。


 イングランド王家とフランス王家の血筋を引く幼い王(ヘンリー六世)の時代に、摂政の弟で護国卿のグロスター公と、摂政の叔父で大法官のウィンチェスター司教(ヘンリー・ボーフォート大法官、のちに枢機卿)は、幼い王をめぐって互いに激しく争っており、ロンドンの路上で流血沙汰を引き起こした。[471]


 1425年の終わりごろ、摂政はイングランドに帰国すると、17カ月を費やして叔父と弟を仲裁し、公共の平和を回復させた。


 さらに、巧みな策略と精力的な行動によって、摂政は、イングランドの同胞たちがフランス征服を完了することを望み、期待するよう仕向けることに成功した。


 1428年、イングランド議会はフランス全土を侵略する目的で、補助金(軍資金)を可決した。[472]




⚠️挿絵:オルレアンの眺め、1428-1429(VIEW OF ORLÉANS, 1428-1429)




 さて、イングランドの将軍と王侯の中で、もっとも狡猾で、もっとも熟練し、もっとも武運に恵まれていたのは、ソールズベリー伯とペルシュ伯の称号を保有しているトーマス・モンタキュートだった。[473]


 彼はこれまで長きにわたり、ノルマンディー、シャンパーニュ、メーヌの戦いで戦果を挙げていた。


 現在、彼はロワール川流域の侵攻に向けて、イングランドで軍を集めていた。

 弓兵は必要なだけ集めることができたが、騎兵と武装兵士の顔ぶれは期待外れだった。

 わざわざ飢饉で荒廃した土地フランスまで渡って戦う意志があるのは、卑しい人間だけだった。[474]


 ついに、高貴な伯爵にしてヘンリー王の美しいいとこである彼は、449人の武装兵士と2250人の弓兵を率いて海を渡った。[475]


 フランスでは、摂政が徴募した騎兵400騎のうち半分(200騎)はノルマン人で、イングランドの慣習に従い、騎兵1人につき弓兵3人がつけられた。[476]


 ソールズベリー伯は兵を率いてパリに向かい、そこで覆すことのできない決断を下した。[477] これまでの計画では、攻撃目標はアンジェだったが、土壇場になってオルレアンを包囲することに決定した。[478]


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