16.13 シャンパーニュ遠征計画(3)ジアンに集結
遠征軍はジアンに集結し、日ごとにその数を増やしていた。
ブルターニュとポワトゥーの貴族たちが続々とやって来たが、その多くはみすぼらしい馬に乗り、率いる兵士もわずかだった。[1340]
さらに貧しい者は弓兵として身を固め、他にいい仕事がないため、弓兵に志願して軍隊で働く覚悟をしていた。(正規兵の軍装ではなく、狩人の装備で弓兵に志願している)
農民や商人たちも、同じ理由で集まってきた。[1341]
ロワール川からセーヌ川、そしてセーヌ川からソンム川にかけて、耕作されている土地は城や砦の周囲だけだった。ほとんどの畑は休耕状態だった。
多くの場所で、市場(fairs)や取引所(markets)が閉鎖されていた。
労働者は、あらゆる場所で失業していた。
戦争はあらゆる商売を破滅させた後、今や唯一の食い扶持になった。
詩人ウスターシュ・デシャンは、「誰もが従者になるだろう。職人はほとんど残っていない」と述べている。[1342]
遠征軍の集結地には、3万人の兵が集まった。
しかし、その多くは徒歩で、食べ物と引き換えに奉仕するために各地の村からやってきた人々だった。修道士、従者、女性、その他の従軍者もいた。そして、集まった群衆は全員が飢えていた。
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国王はジアンに着くと、ブールジュにいる王妃を呼び寄せた。[1343]
国王の考えでは、ブランシュ・ド・カスティーユ、ジャンヌ・ド・ヴァロワ、そして曽祖父ジャン二世の妻ジャンヌ王妃の例に倣って、王妃をランスに連れて行き、一緒に戴冠するつもりだった。
(⚠️ブランシュ・ド・カスティーユ(Blanche de Castille):ルイ八世の王妃)
(⚠️ジャンヌ・ド・ヴァロワ(Jeanne de Valois):同名が複数いるため、今のところ特定不可能)
しかし、王妃がランスで戴冠するのは一般的ではなかった。
現在の国王(シャルル七世)の母であるイザボー王妃は、パリのサント・シャペルでルーアン大司教の手から王冠を戴いた。[1344]
イザボー王妃以前のフランス王妃たちは、短躯王ピピン三世の妻であるベルタ王妃の例に倣って、通常はサン・ドニに赴く。そして、ジャンヌ・デヴルーが修道院の修道士たちに贈った、金とサファイアと真珠の王冠を受け取っていた。[1345]
(⚠️ジャンヌ・デヴルー(Jeanne d'Évreux):シャルル四世の王妃)
王妃は夫とともに戴冠式をおこなうこともあれば、単独で別の場所で戴冠することもあった。戴冠式を一度もやらなかった王妃も多い。
シャルル王がマリー王妃をシャンパーニュ遠征に連れて行こうと考えていたことは、彼が大きな疲労や危険を予期していなかったことを物語っている。
しかし、土壇場になって計画は変更された。
ジアンに来ていた王妃は、ブールジュに送り返された。
国王は、彼女なしで出発した。[1346]
「国王がフランスに来たりし時、
彼はブーツに油を塗らせた。
王妃は彼にこう尋ねた、
この若者はどこに行くのかしら?」[1347](La Chronique Messineから引用)
実際には、マリー王妃は何も尋ねなかった。
彼女は容姿が地味で、意志が弱かったといわれる。[1348]
しかし、この四行詩によれば、遠征に出発する際、王は新しいブーツがなかったため、古いブーツに油を塗ったという。「ブールジュの王」の貧困にまつわる古いジョークは、いまだに通用していた。[1349]
(⚠️ブールジュの王:フランス全土を統治できず、ベリー領ブールジュにとどまっていたシャルル七世に対する蔑称)
シャルル王は裕福ではなかった。
兵士たちには給料の一部を前払いするのが慣例だった。
ジアンでは、兵士一人につき3フランが支払われた。
大した額ではないように思えたが、彼らはランスまでの道中でもっと稼げることを期待していた。[1350]




