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教皇庁に禁書指定されたジャンヌ・ダルク伝  作者: しんの(C.Clarté)
上巻・第十五章 ジャルジョーの戦い/ムンの橋/ボージャンシーの戦い

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15.8 囚われのオルレアン公(2)平和のための工作

 それでもやはり、オルレアン公シャルルは善良な君主であり、気品があり、情け深い人物だった。他の誰よりも人を喜ばせる才能を持っていた。容姿は目立たず、体質も弱かったが、その優雅さで人々を魅了した。[1235]


 彼の生まれつきの気質は、その地位とあまりにも調和していなかった。

 そのため、彼の人生は、生きるというより耐え忍んだと評すべきかもしれない。


 彼の父親(シャルル六世の弟、王弟オルレアン公)は、ブルゴーニュ無怖公の命令によってパリのバルベット通りで夜中に暗殺された。

 母親は絶え間なく涙を流し、フランシスコ会の修道院で怒りと悲しみに押しつぶされて亡くなった。彼女の紋章と哀悼を示す意匠である二つのSの文字は、ため息(Soupirs)と心配(Souci)を意味し、絶望の中でも彼女の独創的な精神が優雅に表現されていた。


 アルマニャック派、ブルゴーニュ派、カボシアン派が、彼の周りで互いに殺し合う。これらはオルレアン公がまだ子供だった頃に目撃した光景だった。


 その後、彼はアジャンクールの戦いで負傷し、捕虜になった。


 それ以来14年間、オルレアン公は霧のイングランドの端から端まで、城から城へと引きずり回された。分厚い壁の中に閉じ込められ、厳重に監視され、長い間に2〜3人の同胞に会うことは許されたが、看守の前でなければ誰とも会話を許されなかった。


 不幸に打ちのめされて、実年齢よりも老け込んでいると感じていた。

 オルレアン公は、自分自身についてこう語った。


「青いうちに落ちた果実が、

 牢獄の藁の上で熟成させられた。

 私は冬の果実だ」[1236]


 囚われの身で、彼は希望もなく苦しんだ。

 死の床に伏したヘンリー五世が、弟に「どんな代償を払ってもオルレアン公を手放すな」と遺言を残したことを知っていたからだ。[1237]


 他人にも自分にも優しかったオルレアン公は、誰のことも責めず、自分自身の思考の中に逃げ込んだ。心の中の隠れ家は、彼の人生が暗く悲しいものだったのとは対照的に、明るく澄み切っていた。


 ウィンザーやボリングブルックの厳めしい城の暗闇の中で、ロンドン塔の中で、看守たちと肩を並べながら、彼は『薔薇物語』の幻想の世界に生き、活動していた。


 ヴィーナス、キューピッド、希望、快楽、歓迎、喜び、哀れみ、危険、悲しみ、心配、憂鬱、甘い眼差しが、窓の深い窪みにしつらえた机のまわりにあった。そこで彼は、太陽の光を浴びながら、写本のページを照らす装飾画のように繊細で新鮮なバラードを書いた。


 オルレアン公にとって、本当に存在したのは寓話の世界だった。

 彼は「長い期待」と名づけた森をさまよい、「吉報」と名づけた船に乗り込んだ。彼は詩人であり、美が彼の恋人だった。彼は彼女について丁重に歌った。

 彼の詩によれば、彼は「愛の神に囚われた虜囚」に過ぎないと言える。[1238]


 オルレアン公は、公爵領の事情についてはまったく知らなかった。

 もし彼が故郷に関心を持つとしたら、それはベッドフォード公爵(ヘンリー五世の弟でイングランド摂政)が買い取ってロンドンの商人に転売した、シャルル五世の蔵書を回収していたときか、[1239] あるいはイングランド軍がブロワを侵攻した際に、そこで美しいタペストリーと彼の父の蔵書をラ・ロシェルに運び出すよう命じたときくらいだった。


 美の次に、オルレアン公がこの世で最も愛したのは、豪華なタペストリーと繊細なミニアチュール(細密画)だった。[1240]


 フランスの明るい太陽、美しい五月、ダンス、そして貴婦人たちこそが、彼がもっとも切望したものだった。武勇伝や騎士道からは遠ざかっていた。


 中には、乙女ジャンヌ・ラ・ピュセルの来訪の知らせが、囚われの公爵のもとに届いたと信じる者がいる。1429年5月と6月の喜ばしい出来事(オルレアン包囲戦の勝利)を、忠実な召使いがオルレアン公に知らせていたと想像するほどだ。[1241]


 しかし、信憑性は低い。


 それどころか、イングランド人はいかなるメッセージもオルレアン公に伝えず、英仏両国で起こっている出来事について、彼は何ひとつ知らなかった可能性が高い。[1242]


 おそらくオルレアン公は、百年戦争の戦況について、人々が期待するほどには気にかけていなかった。

 彼は兵士たちに何も期待していなかった。フランスの美しい従兄弟たちや、武勇伝や戦いにも期待していなかった。彼はそれらについて(フランス情勢が当てにならないことを)知りすぎていた。


 オルレアン公が信頼を置いたのは、自分自身と民衆のための平和だった。


 父親たち(オルレアン公とブルゴーニュ公)はどちらも亡くなっているので、息子たちは許し合い、(過去の遺恨を)忘れることができるだろうと彼は考えた。


 オルレアン公は、ブルゴーニュのいとこ(実際は《《はとこ》》)に希望を託した。

 そしてそれは正しかった。イングランドの運命は、今やブルゴーニュ公フィリップの手中にあったからだ。


 オルレアン公シャルルは、イングランド王の宗主権を認めることにした。少なくとも、後日、認めることになるだろう。


 人間の弱さを考慮するよりも、状況の力を考慮することが重要である。

 そして、囚われの身である彼は、平和を得るためにできることは何でもした。

 彼は、平和を「喜びの最大の宝物」と名づけた。[1243]



 否、彼女の啓示はともかく、ジャンヌが想像した「美しい公爵(オルレアン公)」の姿は真実とはかけ離れていた。


 オルレアン公とジャンヌは出会うことはなかったが、もし対面していたら、彼らの間には深刻な誤解が生じ、互いに理解できないままだっただろう。


 ジャンヌの単純で直情的な考え方は、これほど偉大で高貴な礼儀正しい詩人の考え方とは、断じて相容れなかっただろう。


 彼女が単純で、彼が繊細だったから。

 彼女が預言者で、彼が宮廷の知識と教養に満ちていたから。

 彼女が信じていたものを、彼が信じていなかったから。

 彼女は庶民の娘で、あらゆる権威を神に帰属させる聖女だが、王侯である彼にとって法(の権威)とは封建的な慣習と慣例、同盟と条約で成り立っていたから。[1244]


 ようするに、ふたりは人生と世界に関して、相反する思想を持っていた。


 オルレアン公のために公爵領を取り戻そうと神によって遣わされた乙女の使命は、善良な公爵の心には決して響かなかっただろう。


 ジャンヌもまた、ブルゴーニュ公と和解してイングランドの宗主権を認めようとするオルレアン公のやり方を、到底理解できなかっただろう。


 二人は、生涯会わない方がよかったのだ。


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