Episode21「霊を祓う者」①
呼吸を忘れるほどの紅が、東京の空を覆い尽くしている。
この紅がただの夜明けを知らせる色であったなら。もしくは、来たるクリスマスのための祝砲であったなら、一体どれほどよかっただろうか。もしそうだったのなら、この空の下はいつも通りの朝の光景、あるいは街行く人の笑顔が広がっていたことだろう。
しかし、現実は決して美しいものではない。
空気は熱く、あちこちで炎が揺れていた。悲鳴が新宿の市街に響き渡り、そこら中から黒煙が立ち上っている。人は逃げ場を失いさまよい歩き、子どもの泣き声が耳と心を貫いた。
――逃げなければならない。
ここで焼き人間になりたくなければ、僕は目の前の全てを放り出して、安全なところに逃げなければならなかった。それでも、僕の足はこの場所から一ミリたりとて動こうとしない。
――逃げるわけにはいかないからだ。
僕には闘う理由があった。この場で成し遂げなければならないことがあった。自分を命の危険にさらしても、守りたいと願うものがこの燃えさかる新宿にあった。
「翔」
目の前に横たわるただ一人の親友は、僕の呼びかけに答えない。いつもならとびきりの笑顔で振り返ってくれるのに、彼は何も言わず、固く瞼を閉じている。僕はそんな彼に左手を伸ばし、右手で漆黒の短剣を握りしめた。
「……ごめん」
それは届かない懺悔だった。伝えるべき相手は意識を失い、僕の言葉には応えない。だからこそ、この謝罪は新宿を包む炎に燃やされる。それでも、僕は彼に謝らなければならない。
「ごめん、翔」
誰にも届かない謝罪を重ね、僕は彼に短剣を振り下ろした。
*****
「ああ、秋学期だるい……まだ熱いんだし夏休みのままでいいじゃないか」
「高校より一ヶ月も始まるのが遅いじゃん」
「でも始まるのも遅かっただろ! 長さ自体は大して変わらないよ」
残暑が厳しい九月の終わり頃、僕と翔は相変わらず二人で大学の講義を受けていた。大教室で行われる必修選択の講義は、後ろの方に座ってしまえば小声で話しても気づかれない――と信じて、僕たちは先程からついに始まった秋学期と肌に終わらない暑さに愚痴を言い合っている。
「暑いしだるいしサークル行くの面倒。な、深月。俺と一緒に逃避行しない?」
「残念、僕もこの後バイトがある。大人しく行ってこいって」
「くそおお」
悔しそうにレジュメにメモを書き加える翔を横目で見ながら、僕も教授の話に耳を傾けた。どうやら教授の好きな分野に突入したらしく、その声には色と熱が乗っている。熱く中世史について語る教授は、夏の日差しよりもその表情が煌めいていた。
「……こうして、ユーラシア東西を股にかけた交易が盛んに行われるようになった。主にその交易を担ったのが……だが、便利になった分だけリスクもあがる。それこそ……」
延々と続く講義を聞き流し、重要そうなところにチェックを入れ、説明を書き加える。この講義の最後がテストになるかレポートになるかは決まっていないらしいので、何が来ても対応できるように丁寧さを心掛けた。
春学期はバイトに注力していたが、それでも成績は悪い方ではなかった。学業は奨学金のためにも頑張らなければならないけれど、しかし僕の興味はもはや他の所に向いている。
その時、テーブルに置いてあったスマホの画面が明るくなった。新規メッセージを伝えるバナーをタップして、慣れた手つきでパスコードを入力し、メッセージアプリを確認する。
『今日のおやつは自家製レモンシャーベットだよ』
ぽこん、と写真が続けて送られてきた。ガラス製のグラスにたっぷりと薄黄色のシャーベットをよそったクロトが、幸せそうに頬張っている写真だ。すぐさま既読をつけて、「食べたいです」と返信する。
『既読早いね。ホウレンソウが早いのは良いことだけど、先生の話も聞いてあげて』
どうやら、こちらの時間割は完全にルカの頭に入っているらしい。ムッとしたスタンプが送られてきて、思わず僕は笑ってしまう。僕は「わかりました」とスタンプで返し、そして静かにスマホの画面を消した。
「ルカさんから?」
「うん。今日のまかないはレモンシャーベットだって」
「えー、いいなそれ。俺も行きたい」
「翔はサークルだろ。存分に活躍してきなよ。なあ、期待の新人」
「そう呼ぶなって、恥ずかしい」
男女混合ダンスサークルに所属する翔は、なんでもその身体能力の高さと覚えの速さから先輩達に期待の目を向けられているらしい。構内で同じサークルの女子や先輩に話しかけられることも増えたから、きっと翔は思う存分キャンパスライフを楽しんでいるのだろう。
「それに、そう言われているのは俺だけじゃない。凄く身体の柔らかい、動きのいい同輩がいるんだよ。大分変な奴だけど、ダンスのキレがめっちゃ良くて。俺達と同じ学部だったはず……名前はなんだったか、たしか」
「白鳥天音ですわ」
「そうそう、そんな名前――って、え?」
自然な流れで突然会話に割り込んできたのは、一つ前の列に座る一人の女性だった。その女性は特徴的な白髪をさらりと揺らし、僕たちの方に振り返る。
「ごきげんよう。わたくし、白鳥天音と申します。ぜひお見知りおきを」
そう言って、白鳥と名乗った女性は僕を見つめ、教授に見つからないほど小さく頭を下げる。その礼儀正しさとはんなりとした口調は、いつかの貴族を彷彿とさせた。
「えっと、日野深月です。こちらこそよろしく」
白鳥は僕の挨拶に気分を良くしたのか、ふ、と柔らかい笑みを浮かべた。その微笑みは天使のように優しく、きっとどんな人でも一発でころりと落ちてしまいそうなほどの健気さを感じさせる。現に、隣にいる翔が突然の登場に、そして彼女自体にたじろいでいた。
「な、なんで白鳥がここに?」
「あら、わたくしも史学科ですもの。たまたま同じ授業を受けていて、たまたま翔さまの前に座っていただけですわ」
上品に口元を隠しながら話す白鳥は、にこにこと人好きのする笑顔で翔と話を続ける。例えば次のダンスの楽曲のことだとか、練習のスケジュールのことだとか。けれど流石に盛り上がりすぎたのか、教授からの冷たい視線が僕たちに向かって注がれた。
「……では、続きはまたあとで、ということで」
気まずそうに目をそらした白鳥は、いそいそと姿勢を正して黒板に向きなおる。真面目そうな顔つきなのにこうして茶目っ気があるのは、その口調とは異なり現代の大学生らしさがあった。
今、僕の視界には白鳥の後頭部と背中が映っている。すらりと真っ直ぐに伸びた髪は何度見ても「白鳥」という名前に恥じないほど真っ白で、髪を染めている学生が多い中でもとびきり目立っていた。逆に、今まで声をかけられるまで気づかなかったのが不思議なほどに。
「……あれ」
その後ろ姿を見て、唐突に僕の記憶が掘り返される。この髪色、髪型、そして体格。その全てが、僕の海馬にしっかりと刻み込まれていたからだ。
この背中を見たのは、つい昨晩のこと。
いつものように、慣れ始めた「死神業」の一つとして、悪霊を葬送した時のことだった。
第二幕、開幕です!!
よろしくお願いします。




