Episode19「夜闇に輝く極光のように」②
六百年前の冥界の空は広かった。建物の殆どが平屋で、冥界自体に住人も少ない。顕界で飢饉や天災、争乱が起きれば一人あたりの仕事量の多さに忙殺されるけれど、基本的には穏やかな日々が続いていた。
「紅夜、貴方に面会を求める死神が八人来ているわ。広間に招いているけれど、どうする? もし忙しければ私が代理を務めるわよ」
「いや、俺が対応しよう。丁度雑務を終えたところだ」
極夜卿改め覡紅夜が書簡を置き立ち上がる。白い胴服を羽織り、腰ほどまでに伸ばされた髪をひらめかせながら進む彼の後ろを、私はゆっくりと追いかけた。
本部は巨大な城のかたちをしている。顕界のそれに比べたら華やかではないが、巨大な城壁とその中に軒を連ねる建物の数々は、極夜卿の威厳を示すのには充分すぎるほどだった。ゆらり、と極夜卿が執務室の戸から現れれば、死神達は会話をやめ、静かに極夜卿へと頭を垂れる。
「道を空けよ! 極夜卿のお通りである!」
開かれていく道をゆうゆうと歩く彼を見つめるのは、羨望と畏敬、そして純粋なる忠誠心に満ちた瞳の数々。それらに極夜卿は立ち止まることなく広間の扉の前に立った。警備兵が戸を開けると、広間の中からの新しい視線が一気にこちらに集中する。
「待たせたようだな。客人よ。俺こそ、東ユーラシア死神協会の会長であり、冥府の王からその座を任された調停者である」
極夜卿の名乗り出に、客人のリーダーらしき男は恐る恐ると言った様子で礼をした。その手には紫紺に染められた布で包まれた献上物が乗せられている。
「……お目にかかれて光栄です。東ユーラシアの調停者様。我々のためにご足労頂き、心から感謝申しあげます。……すみません。私自身平民の出でして、あまり礼や作法にくわしくなく。ご無礼がありましたら申し訳ございません」
「構わん。なにゆえ東ユーラシアの扉を叩いたのか聞こう」
極夜卿の言葉に軽く礼を返した男は、震える声で「実は」と続ける。
「我々は西の砂漠の地を生まれ故郷とし、そして死地として選んだもの。どうか、我々を東ユーラシアの庇護下に入れていただきたくお願いしに参りました」
ただならぬ様子の男を目に留めて、極夜卿はさらに事情を詳しく話すようにと促す。すると、男はその顔を青ざめさせ、両拳を震わせながら重々しく言葉を紡いだ。
「西において、迫害が起きているのです。肉体など最早意味はないというのに、まだ死神になって若いものたちは、我々のようなものを異端と呼んだ。『救済』も尽力してくれてはいますが、やはり死神の原則のみでは彼らを縛り付ける枷にはなり得ない」
「……故に、『規律』を求めると。そういうことだな」
男は噛みしめるように首肯する。そして、紫紺の布に包んだものを極夜卿の前に差し出して、ゆっくりとその結び目をほどいていった。そこから現れたのは、彼らにとっての宝物であろう、民族を象徴する彫刻であった。
「これは我々の精神そのもの。貴方に献上する形で、『規律』への従属を示したいのです」
その石の献上物を一瞥して、極夜卿は小さく唸る。私もまた、彼らの行動に驚きを隠せずにいた。
「規律」の庇護を求めるものは少なくない。こうして捧げ物をする死神も珍しいわけでは無い。ただ、彼のように――遠く離れた親しみ深い地から離れるという決断をするものは、決して多くはなかった。
個人とは、一体何によって作り上げられるのか。
生まれ育った土地、自然やコミュニティを含む周囲の環境、そしてそれらの中で築き上げられ、築き上げていく知恵と記憶――すなわち文化そのもの。それらが複雑に影響し合って、一人の個人を作り上げていく。そして、いつかその個人が次の世代へと繋がる文化を創り上げるのだ。
そして、その個人のアイデンティティの結晶であろう彫像を他人に受け渡すことが何を意味するのかなど想像に難くない。
「――従属、か」
極夜卿が男の言葉を舌の上で転がした。男をはじめとする来訪者たちは、皆固唾を呑んで彼の返答を待っている。しかし、その目には僅かな焦燥が見えた。極夜卿の返答だけでは無い、その「己が精神」そのものに向けての、厚いまなざしだ。
「……ならば。この彫像を受け取ることはできない」
その目に彼も気づいたのだろう。極夜卿は差し出された彫像を、丁寧に男の方へと押しやった。
「な、なぜですか」
男が焦る。声が震え、後ろの死神達は絶望を悟って互いを抱きしめ合った。
「私達は『規律』にはふさわしくないのですか。それとも、これだけでは足りませんでしたか」
まくしたてるように続ける男を、極夜卿は「まあまて」と制止する。そして彫像を検分するかのようにじっと見つめてから、鋭くも温かな目つきで来訪者たちに視線を向けた。
「これでは、お前達の捧げる対価が大きすぎるのだ。『規律』は人の精神を従属させられるほどのものではなく、そうするべきではないというだけのこと」
「どういうことでしょう」
「一言で言ってしまえば、『規律』自体にお前達の精神を捧げるほどの価値はないということだ」
男は未だ困惑しているようだった。『規律』ならばと信じてここまで来たのだろう、心の拠り所を失ったその瞳は迷子の子どものように彷徨っている。だが極夜卿は真っ直ぐに、まるで彼らの航路を示す羅針盤のように、彼らのことを見つめ続けた。
「東ユーラシアの価値とは『規律』自体にあるのではない。『規律』を守る民にある。そして東ユーラシアの民になるために必要なのは、個人の精神の片隅に『規律』を信じる心を据えることのみ。『規律』の本質とは、己が精神との共存なのだから」
「……それは」
「ゆめゆめそのことを忘れるな。東ユーラシアの仲間になるというのなら」
極夜卿はそう言って徐に立ち上がると、側に控えていた私にアイコンタクトを寄越してきた。あの目は「彼らの入会に必要な準備をしろ」ということだ。私が小さく頷きを返したのを見て、彼は最後に来訪者――これからは仲間となる死神達を見据えて声を張り上げた。
「お前たちの精神に『規律』を守る心がある限り、東ユーラシアの調停者はお前達を守る盾となり、お前達を害する全てのものを払う矛となる。歓迎しよう、新たな仲間よ」
「……ありがとうございます! 極夜卿、我らが精神は『規律』の名の下に、『規律』と共に輝きましょう」
極夜卿に大きく礼をした新しい仲間たちのことを柔らかに見つめ返すと、彼は扉の向こうへと姿を消した。死神たちの目には、最早先程のような絶望感も悲壮感も宿っていない。ただ、極夜卿への忠義が燃えている。
「ここからは、副会長兼秘書の私――楊蓮花が取り次ぎます」
未来に希望を見た彼らの前に、私はあらかじめ用意していた数枚の書類を差し出した。
「流石は『極夜卿』覡紅夜。今月だけで会員数は百人近く増えているわ。おかげで各支部も人手不足が解消しつつある」
「……そうか」
「なによ、嬉しくないの? 『規律』を信じて付いてきてくれる死神が増えてきているのは、紛れもなく貴方のカリスマ性によるものだと思うけれど」
「皆が信じるのは『規律』だ。俺ではない」
今日の全ての業務が終わり、私と紅夜は杯を重ねる。薄いガラスでできた持ち手のあるそれは、最近顕界で開発されたのだと西ユーラシアの調停者が持ってきたものらしい。中に入っているのは同じく西ユーラシアの調停者から渡されたという葡萄酒だ。それを一口味わって、紅夜は静かに外を眺めた。中庭からは、巨大な「回生の樹」の幹がよく見える。
「だが、そうだな。こうして同じ信念を持つ者が増えるのは、俺としても喜ばしい。いずれ俺が調停者を降りることになったとしても、俺の後を継ぐものがいるということ」
「ちょっと、縁起でもないこと言わないでくれる? 貴方のように『規律』へと導くことができる死神がどこにいるっていうの」
私の言葉に、紅夜ははにかむような笑みを浮かべた。杯をこれ見よがしにこちら側に傾けて、酒を呷る私へと視線を向ける。
「ここにいるだろう」
「ここにって……まさか、私?」
ああ、と紅夜は大きく頷く。よく見ると耳の先は僅かに赤らんでいるし、彼の目もいつもに比べて熱を帯びているような気さえする。どうやら随分と酔っているらしい。
「水を持ってきましょう。貴方結構酔っているわ」
「酔ってなどいない」
「酔っているわよ。でなければ、そんな酔狂なこと言わないでしょう」
「……俺は真面目に言っている」
水を取ってこようと立ち上がろうとした私の腕を、紅夜は優しく引き留めた。その紅蓮の瞳を見つめていると、彼が私を含めた同期にしか見せないほんの少しのかわいげが伝わってくるようで、私は何も言えずに大人しくもとの場所に戻った。
「お前は俺の最初の仲間だ。他の調停者は仲間と言うより戦友だからな。そして、お前なら――『規律』を導くことができると思っている」
「馬鹿げたこと言わないで。私は貴方のようにはなれないわ。貴方のような威厳も持っていないし、貴方みたいに強くはない。貴方の持っている全てのものが、私にとっては眩しくて羨ましくて仕方がないんだもの」
酒の力は口の戸締まりを緩くする。戸締まりを管理する脳味噌の理性も丸ごと。それでも、私が吐き出した言葉を紅夜は全て受け入れるように黙って聞いていた。
そして、私が吐き出し終わってしばらくたった頃。彼は「回生の樹」を傾けながらぴしゃりと言い切った。
「ああ、そうだ。お前は俺のようにはなれない」
「……ええ」
わかりきっていることだった。なぜ覡紅夜が冥府に調停者として選ばれたのかを考えればなおさらだ。彼は同期の中でもっとも「死神」の適性が高く、そして決断力があり、実力があったから。生前の私を比べても駄目なのだから、死後の私が彼に敵うはずがない。
腹の中を自虐と彼への尊敬が渦巻いて、どうしてもそれらを押し流したくて仕方がなかった。こうなったらやけ酒でもしてやろうかと葡萄酒に手をかける。
「――そして同時に、俺もお前のようにはなれない」
「え?」
紅夜の口から零れたその言葉に、私の手と思考は硬直する。彼の言葉の真意を飲み込めないまま、彼は淡々と続けた。
「お前のように誰とでも分け隔て無く話せるだけの交流力を俺は持っていない。お前の持つ親しみやすさを、俺は心の底から羨ましく思う」
つまり、と彼が言う。
「お前なら、きっと俺ではない別の調停者のあり方を示せるだろう。俺は俺と同じ道を往ってほしいわけではない。むしろ、同じ目的地を目指して――違う道を選べるものを、後継者として選びたい」
彼の言葉は真っ直ぐだった。酒に酔った男の戯言であってくれ、と願いたくなるほどに。私の頬は急速に熱くなり、思考がふわふわと要領を得なくなる。
「……飲み過ぎたか」
「ま、まあね。ちょっとこっち見ないで」
こういう鈍感なところはあるけれど、それでも彼の言葉は私の欲しいと思うもののど真ん中を射貫いていった。流石は弓の名手だ、と脳内でからかいながら、私は杯を置いて顔を上げる。
目の前の空には、どこまでも高い「回生の樹」が視界の果てまで伸びていた。
あの木の根元に住まう冥府の王に認められた彼が、私を認めてくれている。そのことがどれだけ嬉しいかなんて、言葉にしようにもうまくできない。そんな私を横目で見て、紅夜はただ静かに言葉を紡いだ。
「とにかく。俺はお前が調停者になったのなら……きっと新しい光を東ユーラシアにもたらすことができると信じている。それこそ、夜闇に輝く『極光』のように」
「……だとしても! まだ代替えは早いわよ。貴方同期の中で一番に引退するつもり?」
「はは、それもそうだな」
照れ隠しの私の言葉に、彼は珍しく笑い声を上げる。それきり、その話題にはお互い触れなかった。もっとくだらない、例えば街で見つけた面白おかしい食べ物についてなど、他愛の無いことを酒のつまみに選んで語らい合ったのだ。
まだ最初の調停者が一人も欠けていなかった、平和な日々。
もう戻ることのないそのぬくもりは、私の中で今も輝いている。
――ああ、そうだ。
薄れていた意識が浮上する。衝撃でへこんだ「回生の樹」に脳内で謝りながら、鮮明になる意識と視界にピントをあわせる。
――思い出した。
ボロボロになった両手に力を込める。槍は気絶したことで消えてしまったみたいだけれど、それでもなお、私の視線はビルの屋上付近に浮かぶ一人の男を捉えていた。
私達の信念と宣誓を冒涜し、後付けの『救済』で塗りつぶそうとしている冥府の敵だ。
それと同時に、他の――数多くの視線を感じた。いや、見られているという実感があるわけではない。それでも、きっとこの東ユーラシアの死神たちは今空を見上げているのだろうということは何となく感じ取っていた。「回生の樹」がへこんでしまったのだから当然かもしれないけれど。
期待か、失望か。その視線がどんな色をしているかは私にも分からない。それでも、ここで斃れてはいけないことは、私の脳はしっかりと理解していた。
――私は、彼にはなれない。
万の悪霊を一人で相手取ることができるわけでもない。
背中で語ることができるだけの威厳があるわけでもない。
柊やルカたちの助けがなければ、立ち上がることができなかったかもしれない。
――けれど、それが私だ。
共に戦い、共に悩み、共に笑う。
民の前を歩くのではなく、隣を歩くようなリーダーに。
それこそが、私の望む調停者のあり方だった。
「……そのために、私は武器をとる。『規律』を信じる者たちと、共に肩を並べて戦うために」
最後の力を振り絞って、私は槍を創り出した。「回生の樹」にめり込んだ身体を持ち上げて、『規律』の敵に刃を向ける。
その時だった。
背後から、何者かの視線を感じた。
ここは「回生の樹」。冥界の東に位置する東ユーラシアの西端だ。つまり、私の背後には今「回生の樹」しか存在しない。
まさか。
ハッとして「回生の樹」を撫でる。すると、光り輝く樹の幹は私に温かな光を返した。
まるで、「ずっと見ていた」とでも言うように。
冥界の道しるべからの視線を理解して、私はあらゆる不安を唾液とともに飲み下す。不思議と、腹の底から底なしの自信が湧き上がってくるような心地がした。
「――感謝します。我らが主よ」
「回生の樹」から漏れ出た白い光が、私の言葉に返答するように私の槍を柔らかく包みこんだ。白に揉まれて形を変えていく黒い槍を握りしめ、私は全身で覚悟を決める。
「私は夜空を泳ぐ者。夜闇を渡る同胞達よ、朝日を目指して共に往こう」
そして、私は討ち果たすべき敵に向かって、武器を手に勢いよく飛び出した。




