ナナのワクチン
ナナに言われて私は茂みから顔を出した。最近、フォンのワクチン使用頻度が上がっている。これは私も知っている。ナナはどうしても彼を助けたいと言っていた。実を言うとワクチンの自給自足もだいぶ前から聞いている。もっともフォンが予想以上に消耗が激しかったので予定が早められた。
ワクチンの自給自足の件、これは私とナナしか知らなかった。ワクチンを作るにはもう一度、略奪行為を行う必要がある。フォンはもちろん反対する。それを行うのなら俺は吸血鬼になってもいいとさえ言っていた位だから彼の協力を得るのは不可能だろう。フォンを慕うメイも同様、協力を得るのは難しい……その点、私はメイほどフォンに固執していない、だから私にだけ相談を持ちかけていた。もちろん私は了承した。ナナはどうしてもフォンを救いたいといっている。ナナがどうしてそこまでフォンに固執するのは何か別の理由がありそうな気がするが、ともかく私はそれに賛同した。メイはギリギリまで黙っておき、フォンには最後まで黙っておくことにした。
そのギリギリは予想以上に早く訪れた。彼が二日おきにワクチンを使い始めたからだ。ナナもこれには心底驚いていた。
「私だって出来るのならフォンを救いたい、ベストを尽くすわよ」
ナナの目論見通りだった。すっかりメイはやる気になっている。
「やる気があるのはいいことだわ。必要なものは注射器、顕微鏡、消毒液、遠心分離器……それと鶏の卵ね」
最後の方はなんだか訳のわからないものになっていた。遠心分離器?それに鶏の卵って……
「遠心分離器は強引だけど水筒で代用できるわね。それと卵なんだけど今後のことを考えると卵よりも鶏の方が欲しいわ」
鶏か、しかし私はこの鶏やら卵やらの単語を久しぶりに聞いた気がする。
「そうだ、卵……私の実家、養鶏場なんです」
今思うと私が実家を離れたのがかなりの昔に感じてしまう、だけど私は養鶏場の子だったのだ。半人半鬼になる前は家の仕事をして、いつも鶏の鳴き声を聞いて暮らしていた。今思えばよくあの鳴き声の中暮らしていたものだ。
「そうなると行き先は決まったようなものね。ハンはケイラン村の地理にも詳しい……だけどハン、そこは君の故郷だよ?」
その通り、普通だったらあふれる罪悪感に喉を締め付けられるところだ。だけど不思議と罪悪感はない、むしろ仲間を救うという正義感が強かった。フォンは私に居場所をくれた。助けられる方法があるのなら、例えそれが賭けだったとしても悪だったとしても私は行う、だって私はとうの昔に人間ではなくなったのだから……
「やります……」
そう当然の事、ちょっと前にやったことをもう一度やるだけだ。そしてケイラン村は私を捨てた村、何も考えなくていい。
「まあいいわ、場所はケイラン村、ここから往復となると少なくとも最低二日はかかる」
ワクチンの在庫は残り2本、消費量を考えればギリギリ、いま出発しなければならない。
「フォンも夜型に変化しつつあるわ、身体的にも右半分だけだった吸血鬼部分も左側に進行している。出発は明日の朝、ケイラン村に行くのは専門家である私と地理に詳しいハン、残りは留守番よ」
残りと言っても残りはメイとフォンしかいない。まぁ略奪に行くと言ったらフォンは怒るだろうから連れて行けないし彼を一人にはさせられない。そしてその役目は付き合いの長いメイが適任だった。
「ともかく今日のところは明日に備えて眠りましょう」
それからナナは廃坑の方に二歩だけ進むとくるりと振り返った。
「明日に備えて眠りましょう」
何故かそのセリフをもう一度繰り返した。もしかして私の今すぐにでも出発したいという心を読んだのだろうか?相変わらず人の心を読むのが得意だ。
翌朝、こういう一大イベントのある日は決まって前日眠れず、寝不足のまま行うのが常だが、今回はぐっすり眠れてしまった。いや、眠れるのはいいことなのだが何故か眠れないことに残念がっている。
「じゃあ、行ってきます」
「留守番、頼んだわよ」
メイは深く頷いた。フォンは未だに眠っている。フォンはもともと昼型の半人半鬼だった。それがもう殆ど吸血鬼化してしまっており夜型になっている。事は急ぐ、もしケイラン村に行っているあいだにワクチンを使い果たしてしまったらフォンは完全に吸血鬼となってしまう。だから私は早足でケイラン村に向かった。
「今、体力を使ってどうするの?今回のメインはケイラン村、一番時間がかかるのも鶏卵村よ。先は長いっていうのに今はしゃいでさ……」
わかっている……それに半人半鬼は吸血鬼と同じで体力が少ない、今動きまくったところで持たないのはわかっている。だけど一秒でも早く戻るんだ。
夜型の半人半鬼である私、メイ・サイオウにとって昼間起き続けているのはかなり厳しいことだ。人間に例えるとこれは一睡もせずに徹夜でフォンの面倒を見ているようなもの、流石にこたえる。
眠い目をこすった。一体、何回欠伸をしたのか覚えていない……それでも私は起き続けた。眠らないように何かを考え続けて、眠らないように頬をつねって、眠らないように体を動かし続けた。
結局、フォンが目覚めたのは夕暮れの少し前だった。今日は雲が濃いので綺麗な夕焼け空とは言えなかった。それが少し残念だった。
「フォン、おはよう」
考えてみれば私がフォンに「おはよう」というのはこれが初めてだ。フォンは昼型、私は夜型、だから私は彼に「お休み」と言ったことはあったけど」「おはよう」と言うのはこれが初めてだった。
「メイが起きているってことは……そうかもうこんな時間か」
自分の体っていうのは自分が一番理解している。だからフォンも自分に何が起こっているのかよくわかっているはずだ。
「ハンとナナは?」
「外でテント張ってそこで寝ている。私たちに気を使ったんでしょうね」
もちろん口からの出任せだ。フォンに事のことを伝えるわけには行かないのだ。もしフォンに知られるようなことがあったら彼はきっと怒るだろうし悲しむだろう。
「メイ、ハンやナナには黙っておくように言っておいた事なんだが……多分俺はそうもたない」
どうやらフォンはあの二人に口止めをしていたらしい。しかし二人はこの約束をいとも容易く破っていた。もちろんだが、私は事前に二人から事は聞いていたという事を黙っておく。私はぼける事にした。だから探りを入れるような事はしないし余計なことは口にしない。
「ワクチンがもうない、このままだと一週間持たないだろう」
フォンは左手で右手首を抑えていた。その右手は震えている。何時もならワクチンを使うタイミングだ。だけどその残量は残り二本だけ……本当の本当にギリギリのラインになるまでワクチンは使えない。
「メイに頼みがある。右腕を縛ってくれないか?」
「右腕を?」
フォンを縛るか……彼は恩人だ。故郷も家族も友人も、そして愛する人さえ失った私を受け入れて入れた唯一の人間だ。そんなフォンを私は縛る。居場所をくれた彼に対して……
「悪いな、こんな嫌な役目を追わせちまってよ。ただどんどん自分じゃなくなっていくのが怖い、」
「そんなことないよ、今まで世話になったから……恩返し」
恩返しの手段が縄とはなんとも奇妙な事になったものだ。しかし……普通、縄で拘束するっていうのは両手両足が基本だ。右腕だけとなるとこれはちょっと変わった結び方になる。
結果、右手首と腰を結ぶという変わった結び方となった。
「ワクチンの使用頻度が増えていくと分かった時、いつかこんな日が来ると思っていたけど、まさかここまで早いとはな……」
私も同じだった。フォンのワクチンの件に関しては本人から直接、聞いていた。そしていつかはフォンにワクチンが効かなくなって完全に吸血鬼になる。そんな日が来る事くらい知っていた。だけどずっと先のことだと思っていた。まさかここまで近いなんて思っていなかった。
「今のうちに言っておく、この縄は絶対に解かないでくれ。もしこれ以上に吸血鬼化が進行するようだったら全身を縛ってくれて構わない」
そんなことを私に頼むとは……片腕縛るだけでも大きな背徳心に襲われたというのに全身だなんてとんでもない。
「そして手遅れと感じたなら縄を解かずにこのままの状態で坑道から外に出してくれ」
待ってくれ、吸血鬼化した状態で日中外に出れば燃えてしまうのでは?
「俺みたいな奴は燃えたほうがいい……」
そう呟いたとたん、フォンは額から倒れた。慌てて私が抱え込む……フォンは全身痙攣していた。
「フォン?」
最初は風邪か何かかと思ったがこれはまさか……吸血鬼化が近づいているんだ。私はフォンをその場で寝かせると物資を置いている一角に駆け寄る。小さめのポーチの中に入っていたのは大量の注射器、だけどその殆どは空っぽだった。ポーチの中身をひっくり返して探し出すは中身のある注射器、色付いた注射器は残り二本だ。
「一日、いやもしかすると半日しか持たないか……!?」
非常にまずいことになった。ナナがワクチンを作れるかどうかもそもそもギャンブルだ。それに仮にワクチンが作れたとしても作れる量や質は保証できない。供給量よりも消費量の方が多かったらそれはもう自給自足とは言えないのではないだろうか?そもそもハンとナナが帰ってくるまでにフォンが持つかどうかも実に怪しい状況だ。
「神様、どうかお救いください……」
神様は今まで私たちに多くの試練を与えてきた。見方によっては罰なんじゃないかとさえ感じるほどの多くの試練だ。そしてその試練を目にするたびに私は神様という存在を呪った。そしてある時から私は神様の存在を否定した。こんな苦を与える神様なんてこの世に存在しないと思い、そして苦を逃れる方法として私は神様の存在を否定した。だけどこういう都合の良い時に限って私は神様の存在を信じ、そして願っているのである。あぁ、なんて私は都合の良い人間なのだろうか?だけど今の私にはこれしかない……願うことしか今はできない。
「なんてちっぽけなんだろう……」
ワクチンを打ったらフォンの震えは止まった。それと同時に意識も失ったようだ。ただ、寝息がまるで全力疾走したあとのように荒い……その呼吸音は私をズルズル不安の闇の中に引き込むのに十分だった。ワクチンは残り一本、果たして間に合うのだろうか?




