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人魚熱  作者: 三一
19/19

19・人魚熱

 ……時のニュースをお伝えします。本日、全国で初となる恒常性(こうじようせい)低温症(ていおんしよう)専門の医療施設が開院しました。

 国内初の発症から五年、いまだに有効な治療法は確立されておらず、症状が進んでからは緩和療法のみしか手段がありません。しかしながら、密閉された施設でのミストケアについては、患者の隔離にあたるとして人権団体からの抗議が……。




 爽やかな秋晴れの空。荘厳な鐘が鳴り響いた。

「おめでとうございます。タツ」

 礼服姿も板に付いた幼馴染が、夫人を伴って祝いに駆けつけた。大学を卒業した悠一郎は、早々に見合いで結婚し、すでに小さな子どもがいる。

 俺の隣には笑顔の涼香がいる。いつまで待たせるつもりだとさりげない嫌味に腹を括った。そんな情けない男にも愛想を尽かすことなく連れ添ってくれたことには感謝しかない。

 俺は中堅の事務機器メーカーで営業をする、平凡な会社員になっていた。

 チャペルから、披露宴会場であるホテルへと続く芝生の道を、参列者が歩いている。ドレスを着替える涼香は、介添人と先に戻っていった。

 俺は悠一郎と並んで、参列者のあとをゆっくりと歩いていた。

「タツ、昨日のニュース見ましたか?」

「ああ。専門病院できたんだってな」

「病院とは言っても、密閉された部屋で二十四時間のミストケアを受けるだけのものです……やっぱりあのとき……」

 心なしか明るくなった悠一郎のトーンに、俺はたった一人になった幼なじみが何を言おうとしているのか分かってしまった。そして、それは一瞬だけ昨夜のニュースを聞きながら、俺自身も思ってしまったことだった。

「ユッチ。言うなよ、それ」

「タツ?」

「俺だって一瞬そう考えたくなったけど、でも……」

 少し強い風が芝生を駆け抜けた。遠くの空に暗い雲が見えている。雨雲の姿がなぜか嬉しいと思ってしまった。

「俺さ。今でも迷ってるんだ。例え世界中の人が、俺の判断が正しかったって言ったとしても、やっぱりここにミナがいる未来があったんじゃないかって後悔する」

 無理やり捕まえて病院に連れて行っていたら、国内一人目の患者は湊だったかも知れない。治ることはなくても、もっと一緒に過ごせたかもしれない。

「けど、ミナはきっとそれは望んでないと思います」

「分かってる。だけど……」

 一緒に生きたかったのだ。それが健康だった自分の我がままだと、必死に押しとどめていた。俺は「もしも」に、あの日からずっと捕らわれ続けていた。

 太陽の下で笑う湊も、大雨の中を踊る湊も、同じ顔をしていた。そして、湊の氷のような手も、唇も忘れることなんかできやしない。

 俺たちが人魚熱と呼んだものは、恒常性低体温症と名付けられた。徐々に体温が下がり、わずかな熱で火傷を負ってしまう。それがウィルスによるものかどうかさえ解明されていない。唯一の緩和が水分、それも一定濃度の塩水に浸かることだ。

 まるで人魚のように海で浮かんだ湊を思い出さずにはいられない。

 治ることのない病だったという事実に、救われたくはなかった。だけど、どうやっても湊を救うことはできなかったという結論を突き付けられた今、俺たちは認めなければならなかった。

「なぁ、ユッチ。俺さ、やっと諦められた気がするんだ」

 唐突な切り出しに、悠一郎がただ首を傾げた。

「ミナの人魚熱が酷くなっていったとき、俺にだけ触れてくることに優越感みたいなのがあったんだよ。ミナは俺がいなきゃダメなんだって」

 女の子に触れられなくなって、それでも人の温もりを感じたくて触れてくるミナは、一種の自己顕示欲を満たす存在だった。

「なんの取り柄もない自分が、もしかしたら特別になれるかも知れないって……俺がミナを救ってやれるかも知れない、そんな馬鹿なことを思ってたんだ」

 脇役じゃなくて主役になれるのかも知れない。ただ自己満足に流されていただけのくせに、そんな夢を見たのだ。

「魚島でミナが消えたとき、俺はやっぱり平凡で、なにもできないただの人間だって……ちょっとホッとした」

 そう言って俺は奥歯を噛み締めた。胸の奥底に隠し続けてきた罪悪感とやっと向き合えたことで、泣きそうになったのだ。いつのまにか足が止まり、前方の人波がどんどん離れていっていた。

「タツはさっき言うなって言ったけど、やっぱりミナはタツのおかげで救われてたんだと思います」

 不意をついてきた悠一郎の言葉は、聞き返す前に解答が与えられた。

「タツは変化を求めないから、側にいてもすごく安心できるんです」

 そんなもの、自分が変わることが怖くて、なにもできなかっただけだ。だけど、それが真の俺なのだろう。情けないけど、それで救われるというのなら悪いばかりでもない。

「幼い頃、僕を仲間に入れてくれた時も。ミナは僕が気に入らなくてものすごく睨んできたのに、タツは全然気づいていなくて。いつのまにか当たり前に一緒にいられるようになったのは、タツがいてくれたからです」

 湊が睨んでいたなんて初めて聞いた。そう驚く俺を、眼鏡の奥の穏やかな目が見つめていた。タツを取られるかも知れないと不安だったんだと思います。悠一郎がそう静かに笑った。

「タツがいたから、僕たちはだれも一人にならなかった。ミナだって最後までミナ自身でいられたんです」

 少しだけ俺を見た悠一郎が、すぐにまた正面へと視線を戻した。

「僕も……多分、タツと同じですよ。ミナを助けてやれると思い込んでいたんです。医者になれば、自分がミナを治してやれるんだって、根拠もなく思っていたんです」

 滑稽ですよね。悠一郎が自嘲気味に呟いた。

「ミナがいなくなって、僕はすぐに内科を目指すことを止めたんです。これで当初の目標通り眼科に進むことができるんだと、ホッとしました」

 俺と同じ表現で悠一郎が懺悔をした。悠一郎は俺の罪悪感を癒すために、そう合わせてくれたのかもしれない。

 湊は見つからなかった。あの日、家に戻った俺は高熱に浮かされ、なんども湊の名を呼んだ。同じように寝込んだ悠一郎も、もちろん翌日の成人式を欠席し、俺たちは中途半端に大人になった。かつての湊の家は、湊が消えた三ヶ月後には空き地になっていた。おばさんは介護施設をとうに辞めていたし、おじさんにも会うことはなく、それに気づいた母たちが右往左往するのをぼんやりと眺めていた。

 探す方法はまだ残っているのに、俺たちは結局どの手段も取らないまま年月が過ぎた。もしかしたら湊が戻ってくるかも知れないという、ゼロではない可能性を残しておきたかったのだ。

 よお。久しぶりじゃん。遊びに行こうぜ。

 太陽を浴びて、満面に花開く湊が、何事もなかったかのように現れるのを性懲りもなく待っているのだ。

「ミナ。助けてやれなくてごめん。けど、もっと一緒にいたかった……」

 目頭が熱を持って、熱い水滴を押し上げる。悠一郎の手のひらが背中に触れた。純白のジャケットを通して、温かい熱が伝わってくる。

「僕も、です」

 悠一郎の声が震えた。背中を励ますように叩くリズムに、ふたたび歩き出した。

 一歩、一歩。過去が遠ざかる。

 あと少しでテラスに差し掛かるというとき、突然空が暗く澱み、大粒の雨が打ち付けた。慌てて屋根の下に走り込む参列者たちを見ながら、俺と悠一郎は土砂降りの雨に身を任せていた。

 バケツを返したような雨は、数メートル先の景色さえも隠してしまう。

 雨の中を軽やかに歩くシルエットが浮かび上がった。錯覚かと目をこすり、悠一郎の腕を掴んだ。

「晴れの日を祝いに来たんですよ、きっと」

「雨を土産にするとはミナらしいな」

 俺たちは笑って泣いた。雨と涙が一緒に流れていく。唇に触れる水は、あの日の海みたいに少ししょっぱい。

「なぁ、ユッチ」

「なんですか?」

「もしもこの先、俺が人魚熱に罹ったら、ミナと行ったあの海に行きたい」

「涼香さんはどうするんですか? もしかしたら子どももいるかも知れません」

 理性的な悠一郎の意見に、相変わらずだと安心した。悠一郎がテラスへ向かって歩き出す。

 だけど――。震える悠一郎の声が雨に打たれて地面へ落ちた。

「そのときは、必ず僕を呼んでください。僕もタツを呼びます」

 もしも熱を失ったなら最後は湊が待つあの海へ。

 あの日の自分と同じように悲しむ人がいるかも知れない。だけど、自分自身で選びたいのだ。湊のように。

「約束する」

 背を向かたままの悠一郎が頷いた。


 俺たちは、草原の真ん中に立っている。

 歳を重ね、背が伸び、随分と遠くまで見渡せるようになった。

 目を細め、悠一郎の真っ直ぐに伸びた背中が離れていくのを見送った。

 太陽の似合う人魚はもういない。

 俺は、ほんのりと光る草の道を、ゆっくりと歩き始めた。



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