第66話 見えない風の先で(芽吹月十五日・午前/姫様視点)
朝の光はやわらかく、けれどどこか落ち着きがなかった。
私は城を出て、小型馬車で王都の一角へ向かっていた。 この外出は、政務には記されていない“私的な用事”。
けれど、どうしてもこの目で確かめたかった。 ──私たちの現在が、どれほどの“ざわめき”を生んでいるのか。
窓の外、街並みはどこかよそよそしく感じた。
*
馬車が止まったのは、宮廷から少し離れた貴族街のはずれ。 訪ねた先は、私の幼い頃からの教育係──元重役で、今は隠居している女性の館だった。
「殿下……こんな朝に。おひとりで?」
「ひとりだからこそ、お話したくて」
通された応接間で、ふたりきり。 私は紅茶を受け取ると、すぐに切り出した。
「……私のこと。最近、何か言われているのをご存知ですか?」
「ええ、もちろん。お耳に届いていないと思っていたけれど……」
「聞いています。ただ、あえて確かめには行かなかっただけ」
彼女──レミエール女史は、ゆっくりと頷いた。
「“感情に流されすぎた若き令嬢”、と。そんな言葉も、出回っております」
「付き人の子のことで、でしょうね」
「殿下がなぜ彼女をそばに置くのか、理解できない者は少なくないのです」
私は手の中のカップに力を込めた。
「……でも、彼女を選んだことは、私にとって間違いではなかった」
「それが“政治的に賢い選択か”と問われれば──」
「それでも。私は、あの子に支えられて、変わってこれたの」
しばらく、静かな沈黙が部屋を包んだ。
女史は目を閉じたまま、やがてゆっくりと口を開いた。
「……殿下、覚えておいでですか? 十歳のころ、“小さな鳥”を逃がしたこと」
「……ええ。籠の中から出して、外へ」
「“自由にさせたくて”そうしたと、あなたは言いました。けれど、鳥は戻りませんでした」
「……そうですね」
「愛するなら、守るだけでなく、導く力も必要なのです。アイリス殿下は、まだ若い。けれど、今のままでは──」
私は、その言葉を遮るように、真っ直ぐに彼女を見た。
「……導けるように、なります。必ず」
その一言に、レミエール女史は微かに微笑んだ。
「ならば、心してお進みなさい。王女であり、一人の人間として」
私は深く頷いた。
*
帰りの馬車の中。
窓の外の景色は変わらないのに、胸の内は少しだけ晴れていた。
──きっと、伝わる。 アイリスになら。
彼女がこの朝の紅茶に込めてくれた名が、“誓いの朝”だったこと。 私は、ずっと覚えている。
約束は、言葉だけではなく。 心に結ぶものなのだと、改めて思い知った日だった。




