第65話 迷いと確信のあいだに(芽吹月十四日・夜)
夜の帳が城を包み込む頃。 私は姫様の私室の中で、静かに紅茶を淹れていた。
今日の茶葉は、昨日とは少し違う。 柔らかい香りに、ほんのりとした苦味を足したもの。
「……“揺れる想い”とでも、名付けましょうか」
そんな呟きに、自分でも少し笑ってしまう。
けれど、それは決して冗談ではなくて。 今の私の胸の内を、そのまま映しているようだった。
*
カップを両手で包み込むようにして持ち、私は姫様の隣に座る。
姫様は、窓の外を見つめていた。 夜の空に浮かぶ星は、どこか冷たく、けれど確かに瞬いている。
「……明日、少しだけ席を外すことになりそう」
「外出ですか?」
「ええ。政務とは別に、私的な要件があって。あなたには言っておきたくて」
「ありがとうございます。……わたくしも同行を」
「ううん、大丈夫よ。少し、一人で動いた方がいい内容なの」
姫様の声はやさしい。 けれどその瞳の奥にある静かな決意に、私はそれ以上何も言えなかった。
「……お気をつけてください」
「うん。でも、すぐ戻るわ。あなたが待っていてくれるから」
その言葉に、私は小さく微笑んだ。
*
夜が更ける頃、姫様は先に眠りについた。
私は私室に戻らず、その場に残った。 机の上で冷めたままの紅茶に、指先で触れる。
(……私は、本当に“守れている”のだろうか)
カレンの言葉が、脳裏に蘇る。 “あなたがそこに甘えれば、姫様が批判の矢面に立つ”
私は姫様に選ばれた。 それは光栄で、幸福で、誇らしいこと。
けれど、その重さに応えるには、まだ足りないものがある。
──そしてその“足りなさ”は、私だけの問題ではないのだと、薄々感じ始めていた。
*
翌朝早く。 私は一人で厨房へ向かった。
姫様が出発する前に、何かひとつでも出来ることをと思い、朝の紅茶を用意することにした。
誰もいない厨房。 朝靄の中、湯気が静かに立ちのぼる。
(私に、できることは何か)
紅茶を注ぎながら、自問自答を繰り返す。
カレンの言葉も、姫様の優しさも、周囲の視線も。 すべてが胸の中で渦巻いていた。
けれど──
それでも、私はこの紅茶を淹れる。 姫様のために。
その想いだけは、迷わなかった。
*
部屋に戻ると、姫様はすでに支度を整えていた。
「……早いのね、アイリス」
「紅茶を、お淹れしました」
「うれしい。……じゃあ、出発の前にいただくわ」
ふたりで並んで座り、静かに紅茶を口にする。
「今日の味、ちょっと違う?」
「……はい。“誓いの朝”という名にしてみました」
「……それ、すごくいい名前ね」
姫様は微笑み、そして立ち上がった。
「では、行ってまいります。……ただの用事よ。でも、帰ってきたら──」
「“ふたり分”の時間を、また」
「ええ。約束」
姫様は扉を出て行った。
その背中を見送ったあと、私はカップを片付けながら小さく呟いた。
「約束、ですね……」
それは、私にとって祈りにも似た言葉だった。 何が起きても、あの人の笑顔を守りたい。
私は、今日という一日を、胸の奥で静かに握りしめた。




